≪KK編(終) 07話 -今日をふたりは歩いていく-(3/3)≫
みさをはクシュンとくしゃみをした。
誰かが噂をしているのだろうか。
というか、今、まさに小須戸と祖母が自分の話をしているではないか。
「うち、何しとんのやろ」
スマホを見ると、もうすぐ昼休みは終わる。さすがに身体も冷えてきている。
小須戸はこういうときに連絡をしてくるガラではない。
やれやれ。と、みさをは髪留めで前髪をまとめ、屋上の出入り口に向かう。
髪留めはいったん止めただけで、うまくまとめ切れていないので、後で鏡を見てきちんと整えなければ。
そう思ってドアノブに手を伸ばそうとした瞬間、勢いよくドアが開き、みさをは思わず手を引っ込める。
ドアを開けたのは小須戸だった。
「ここに……、いたの……」
はぁはぁ、と大きく肩で息をして、全身汗びっしょりだった。
マスクはしていない。
「だ、大丈夫ですか」
みさをはポケットからハンカチを取り出し、小須戸の額から流れる汗を拭き取っていく。
みさをに拭かれるままに、小須戸は座り込む。
拭いても拭いても流れる汗。
みさをはよく考えたら、ここにいることを伝えていなかったことに気づく。
スマホで連絡すればよかったのに。とは言わない。
これだけ汗だくになってビルを駆け回ってくれたのだ。
「ありがとう」
京訛りのお礼。
小須戸はマスクを握りしめた手で返事をする。
まだ息は荒く、言葉は喋れないのだろう。
「……おばあちゃんとはどないだったんですか?」
小須戸の返事は笑顔のうなづき。
みさをも微笑む。マスクはアゴに下げたままである。
色々聞きたいことはあるのだが、今はそれでいい。
ある程度汗を拭い終えたみさをは、小須戸の隣にちょこんと腰を下ろす。
「そんなにあわてなくても、うちはどこかに行ったりはしませんよ。今の仕事もまだ続くやないですか」
緊急事態宣言は確かに一旦、解除となる。
だがそれは数字上、解除の段階に至ったというだけの話でしかない。
感染拡大が進む上り坂は緊急事態宣言、感染拡大が縮小傾向の下り坂はまん延防止重点措置。
そうやってワクチンが来るまでは、だましだまし対処をしていくのだろう。
会社からは当面、今の業務は継続という判断が下りてきていた。
「……でも早く、元の世の中に戻ってほしいですね」
ウソだった。
政府の新型コロナに対する対象措置が終われば、ふたりの業務も終わる。
うつむくみさをの表情は暗い。
ふっ、と無言で小須戸が立ち上がり、みさをの真正面に立つ。
つられて、みさをも立ち上がる。
思わず、小須戸の汗が染みこんだハンカチを握る手に力が入る。
「みさを」
ドキンとみさをの胸が高鳴る。
「……サン」
だが、それは一瞬の高鳴りに過ぎなかった。
「あの……」
「なんでしょうか?」
みさをの変化を感じ取ったのであろう小須戸のか細い呼びかけに、みさをは腕組みでつっけんどんな返しをしてしまう。
「その……」
小須戸は何か言いたそうに、右手をスーツでぬぐっている。あえて、みさをは小須戸の次の言葉を待つ。
わかっていたことだ。このカエルの王子さまはなかなか期待通りの言葉はおくってくれないのである。
きっと、自分は小須戸の次の言葉に、内心、ため息をつく。そして、しょうがありませんねー。と軽口をたたくのだ。
全て想定内であり、いつも通りの流れである。
「これからも、よろしくお願いします!」
小須戸は頭を下げて、右手を差し出した。
……知ってた。
思ってた通りの言葉である。全て想定内のいつも通りの流れ。
だが、みさをは小須戸のその言葉に胸が詰まる。
そもそも、言ってほしいのはそんな言葉じゃない。
みさをはそう言いたい。
小須戸もみさをの様子に気づいたのか、顔を上げる。
みさをは小須戸から視線をそらす。
しかし、小須戸の差し出された右手を、みさをの左手は掴んで逃がさない。
「あの……もちろん、これからもずっと……です」
続く小須戸の言葉に、みさをツンとそっぽを向く。
こう見えて、みさをは我慢強い。だから、ぐっと小須戸の右手を握る左手に力をこめた。
「……お願いします!」
再び、小須戸は頭を下げた。
みさをはちらりと小須戸の目を見る。
「お願いなんか、されるに決まってます。イヤですなんて言うわけがないじゃないですか」
きっと今の自分は恥ずかしい顔をしているのだろう。
「女子にはもっときちんとした言葉をかけてください。自分の……気持ちを」
ここまで言わないとだめなのか。みさをは顔から火が出そうだった。
「……ありがとう!」
違う、そうじゃない。
出会った当初から思っていたが、本当にとことんかみ合わないと思う。
言ってほしい言葉は全然言ってくれないし、やってほしい事はさっぱりしてくれない。
だが、みさをは忍耐強く、寛容で、とても心が広い、京乙女。
だから、正直に自分の気持ちを口にした、小須戸の笑顔で全て許せてしまう。
みさをは小須戸の胸元に飛び込む。
受け止めた小須戸は、うっ、と息が詰まった。
小須戸のシャツは汗で湿って冷たい。
「そんな言葉で許されるのはうちぐらいなもんですよ」
みさをはマスクをとって、小須戸の顔を見上げる。
みさをと小須戸のふたりの視線が正面から交わる。
ふたりのマスクが地面に落ちて、重なった。
昼下がりの春の陽射しは、屋上のふたりをあたたかく照らしているのだった。
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参考文献
新型コロナウイルス感染症の世界の状況報告
https://www.forth.go.jp/topics/newpage_20210224.html
20210216_Weekly_Epi_Update_27
https://www.who.int/docs/default-source/coronaviruse/situation-reports/20210216_weekly_epi_update_27.pdf
一般社団法人日本感染症学会提言 今冬のインフルエンザと COVID-19 に備えて
https://www.kansensho.or.jp/uploads/files/guidelines/2008_teigen_influenza_covid19.pdf
『』引用
第36回大阪府新型コロナウイルス対策本部会議 議事概要
https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/38215/00385072/gijigaiyo-36th.pdf
新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針(令和3年2月12日変更)
https://corona.go.jp/expert-meeting/pdf/kihon_h_20210212.pdf




