≪TU編 06話 -誰もが自分の事しか考えない-(5/5)≫
戸石はカードキーを入口のセンサーに当て、オフィスの外に出る。
延々と怒鳴られ続けたせいか、全身が非常にだるかった。寒気もひどい。
そして、おぼつかない足取りで休憩室に向かい、机に座って突っ伏せる。
息苦しさにマスクをあごに下げる。
コトリと置かれるレモンティーのペットボトル。
「大丈夫ですか?」
臼井だった。臼井はマスクを下げ、自分の持っているミルクコーヒーのペットボトルを口にする。
「少し落ち着いてからでいいと思いますよ、後処理。俺も今、やっと話が済んだところですから」
戸石は臼井に言われるままにペットボトルをとり、キャップを開けようとする。
……疲れのせいだろうか、力が入らず開けられない。
「申請者の言ってること、真に受けすぎですよ。所詮、電話の向こうで吠えてるだけじゃないですか。適当に、はいはい。言ってればいいんですよ」
戸石は顔を上げる。
臼井が笑っていた。何を言っているのかは聞き取れない。仕事のできない自分をあざ笑っているかのよう。
「そもそも家賃払えないぐらいで死ぬとか生きるとか大げさなんですよ、みんな」
握った拳の中には、レモンティーのペットボトル。
戸石はその握りこんだペットボトルを、臼井に投げつける。
「何様だ、てめえは!」
もっとも力の入らない腕で無理矢理投げたせいか、ペットボトルは臼井に当たらず、床に落ちて転がった。
「俺はなぁ、今までちゃんとやって生きてきたんだ! お前とは違う! 家に帰ればかーちゃんと娘だっている! 誰だってそうだ! みんな、好きで独りで生きられるお前とは違うんだよ!」
臼井の顔は見れない。戸石は倦怠感と悪寒で身体に力が入らなかった。何を言っているのかもわからない。
「何で俺がこんな目に合わなきゃならねえんだよ。今まで一生懸命、真面目にやってきたじゃんかよ。なのにコロナだ、緊急事態だってよぉ。おかしいじゃんかよ。なんで……なんでなんだよ」
臼井は何も答えず、ただじっと戸石に視線を向けていた。
「なんで……こんな……みじめな仕事……」
小さい声だがその戸石の言葉は、はっきりと臼井に聞き取ることができた。
「本当の地獄は、これからでしょ?」
その言葉に驚いた戸石は顔を上げる。
臼井は声だけで笑って、冷たく戸石を見下ろしていた。
「だってそうじゃないですか。俺に言わせれば、今の世の中の何を嘆く必要があるのか、さっぱりわからない。助けを求めれば話を聞いてくれる。こんなただの風邪ごときで大騒ぎして、金ももらえて仕事にも就ける。人によっちゃみじめな仕事かもしれない。でも、俺にしてみれば朝起きて夜眠れる、いっぱしの仕事なんだ。今のこの世の中の何が地獄なんですか。……生きてるだけでみんなが助けてくれるなんて、むしろ天国じゃないですか」
臼井は言葉を続ける。言葉も視線も表情も、明らかな敵意を戸石に向けていた。
「そんなに地獄に落ちたいなら、落ちてみればいい。助けを求めても聞いてもらえず、誰にも相手にされない。今のこの世の中で、どうやってそんなことができるんですか。みんながよってたかって助けようとしてくれている、この世の中で」
「そんな……、お前みたいに、みんなが強いわけねえじゃんかよ!」
戸石は叫ぶものの、臼井の目を見ることができなかった。
「どうしたの?」
女性のリーダーが休憩室の入り口で声をかけてきた。
「ああ、ムラクボさん。ちょっと、具合が悪いみたいで。……かなり怒鳴られてたから」
「……熱は、大丈夫だよね?」
ムラクボは近づこうとしない。
そういえばそういうご時世なのだな。と今更ながらに臼井は思った。
臼井はマスクを上げる。
「……大丈夫です。少し休んでれば」
戸石は答える。言葉ははっきりしているし、問題なさそうだった。あくまで臼井から見ての判断ではあるが。
臼井は落ちているレモンティーを、戸石の座る机に置いて、休憩室を出ていく。
そして、ロッカールームに入っていく。
そのすぐ後にムラクボも入って来た。
「……臼井さん、大丈夫?」
「何が、ですか」
「だって、その……」
「聞いてたんですか」
ムラクボは問いにうなずく。
臼井は笑う。
「平気なわけないでしょう。独りにしてください。……俺だって、誰かに八つ当たりなんかしたくない」
「……うん、わかった」
ムラクボはロッカールームを出ていく。
ロッカールームには臼井が独り、残される。
「……はは」
臼井は笑いだす。
「ハハ、ハハハ」
臼井はおかしくなった。
何の感情も沸かない、衝動的な笑いに肩を揺らす。
そして、臼井はマスクを口元から剥ぎ取り、壁にたたきつける。
「付き合ってられるかよ、……クソッタレが」
臼井は宙をにらみつけ、苦々しくつぶやいた。
戸石は疲れからくる怠さと悪寒に耐えつつ、なんとか家の前に着いた。
いつもより時間がかかった帰宅の途。オフィスに帽子を忘れているのだが、戸石はそれに気づいてはいない。
店の明かりは点いていた。
また、ヒメが友達と騒いでいるのか。
戸石は怒りを覚え、そして、それを抑えきれず、店の入り口を開けた。
店の中ではマスクをしたヒメが消毒スプレーをまいていた。
「え、おとーさん?」
ヒメは驚いているようだった。
俺はこの店の主だ。どこから入ろうが文句を言われる筋合いはない。
消毒なんて俺の店には必要ない。マスクだってそうだ。
何が緊急事態だ。こんなもの、ただの風邪だ。そうさ、どいつもこいつも大げさに騒ぐ。
こんなの、世の中が間違っているんだ。やめさせないと。
戸石はヒメのもつ消毒スプレーを取り上げようと手を伸ばす。
ヒメはあきらに似て背が高く、高く掲げられたら自分は手が届かない。
だから、片手で腕を掴んでもう一方の手でスプレーを取り上げる。
戸石はヒメの腕に手を伸ばす。
だが、その伸ばした手は、ヒメの腕を掴むより先にヒメに掴まれてしまう。
離せよ。と、戸石は振りほどこうとする。
しかし、戸石の身体はヒメにあっさりと力負けをし、椅子に身体を座らされた。
まったく、腕っぷしの強さもかーちゃん似だ。
「動かないで。今、おかーさん、呼んでくるから」
ヒメは奥に走り、あきらを呼んでいるようだった。
目が回ってきた。立ち上がるのも面倒だ。もう疲れた。
コールセンターの椅子の方が座り心地はずっと良かったが、やはり自分の店の椅子は落ち着く。
ヒメがあきらを連れてきて、何かしているようだ。だが疲れ切っている戸石はゆっくりとまぶたを閉じる。
もうこのまま、真っ白な灰になって眠りたかった。
「起きなさい!」
言葉より先に戸石の全身に横殴りの衝撃が走り、宙に浮いた。
目の前には、あきらの顔。
「ほら、しっかり!」
思わず戸石は、どうにかこうにか目を開ける。
あきらに力任せに椅子に座らされ、たくましい手の平が、自分の額に当てられる。
冷たかった。
その冷たさに、戸石はあきらに殴られたのだと理解した。
平手打ちではなく、手の根本の部分を使った側頭部への、手加減なしの殴打。
戸石は口元に笑みを浮かべるしかなかった。
このまま死んだら、自分は殴り殺される。
確かに大げさかもしれないが、それは決して大げさではない。
そうだ、俺はまだ死ねない。愛する妻と娘が自分の目の前に今、いるのだから。
だから、立ち上がって生きなければいけない。これでも若いころは腹も出ておらず、その鍛えられた体つきで市場の青大将と呼ばれていた男。
戸石は全身に力をみなぎらせる。
不思議なもので、先ほどまでは辛くてできなかったことが、今ではウソのように簡単にできた。
戸石の全身に怒りが沸々と湧き上がる。
そうだ、俺は生きてやる。コロナで死ぬなんて、死んでもゴメンだ。
だいたい何がコロナだ。コロナってのは車や暖房器具、そしてビールの名前であって、こんなクソッタレな風邪ごときが名乗っていいものじゃない。
戸石の闘志が頭皮のてっぺんから手足の先まで駆け巡り、全身を炎となって燃やす。
そして、聞こえているなら返事をしろ。と、あきらに再度、ひっぱたかれたのだった。




