≪TU編 05話 -夜の空に太陽はのぼらない-(5/5)≫
「いやいやいや、それはいいよ、にーちゃん。もう今更言われても」
戸石も申請者のその言葉に全くの同感だった。まさかとは思っていたが、今更申請が通るというのはいくらなんでも、である。
「ガイドラインというものがあるのはご存じですか」
「ガイドライン?」
戸石も研修でなんとなく聞いた気はするが、よく思い出せない。
「農協だったり漁協などの各業界団体に対して事務局からガイドラインというものを発行しているんです。今、給付金のホームページってご覧になれます?」
「いや、今、見れないんだよ。スマホなら見れるけど、この電話だし。パソコン持ってない」
「ハザマダ様、ですか。その方にホームページを見てもらってガイドラインについて対応できないか、聞いていただく方がいいかもしれませんね」
「でもそれでなんとかなるの? 契約自体がダメなんだろ?」
「だったらその契約、今回なら貸主と借主が同じ名前になっていること。それが正当な契約だと証明できればいいんです」
「そんなこと、可能なのか?」
申請者からの驚いたような返答。
戸石も言葉に出せないものの申請者の疑問には、そうだそうだ。とうなずくばかりだった。
「当事者の説明では今回のように受け付けてもらえません。しかし、それが第三者、たとえば公的な機関、業界団体だったとしたら話は違ってくると思います」
「あー……」
「今、お話を伺う限りでは申請は確かに難しいです。審査は申請の時に提出された書面でしか合否の判断が出せませんので。なのでこの提出した書面でもって、お願いします。とされても、受付はできないと思います。おっしゃられた事情は審査にはわからないですから。おそらくハザマダ様が連絡したというのも電話のみですよね?」
「うん、連絡しといたから申請しな。って言われた」
「で、あればまだ最終的な判断を出すのは早いです」
「……まだ、あきらめなくてもいいのか?」
「必要なのは事情、経緯がわかる書面ですね。それをご用意いただいて、審査がどう判断するか、です」
「まだ、あきらめなくてもいいんだな?」
「はい、まだ打つ手はあると思います。それが通るかはわかりませんが、でも通らないと決まったわけじゃありません。あとはそのハザマダ様の対応次第になるかと思います」
「……ここまで話をしてくれたのは、あんたが初めてだよ。今までの人はそんな話は全然してくれなかった」
「あー……、我々はやはり、聞かれたことにしか返答ができないものですから。とにかくそれで申請してみてください」
「そうか、そうだな。だったら他に何かないかな? 次に電話するときは違う人間なんだろ? 今のうちに聞けることは聞いておきたい」
戸石は驚きを隠せない。
会話の内容に関してはさっぱり理解できていないが、完全に諦めてさっきまで沈んでいた申請者の声が、今ははっきりと明るく力がこもっていたからである。
「この申請、今までにかなりやりとりをされてますよね」
「ああ、これで六回目」
「で、あれば残った不備はこれだけでしょうから、もう自分からはこれ以上伝えることはないですね」
「そうか……」
「というか、こっちから連絡するときは不備が出たときですから。たとえ自分が担当だったとしても、もう連絡はしたくないですよ」
臼井は笑って告げる。
「ああ、そうだもんな。申請が通れば、お互い連絡する必要ないもんな。……お兄さん、名前、聞いていいかな?」
「自分はウスイと言います。餅つきの臼に井戸の井ですね」
「下の名前は? せっかくだから聞いておきたい」
「申し訳ありません。そこはセンターの運用で案内できないんですよ」
「そうか……。わかった、ありがとう。臼井さん、言うとおりにやってみるよ」
「はい、よろしくお願い致します。お時間、ありがとうございました」
臼井の言葉のあと、静かに通話が切れる。
戸石は立ち上がって拍手をした。
目から涙があふれて止まらない。
臼井の自分に気づいて驚く顔も、周囲の奇異の視線も、立ち上がった勢いで頭から滑って外れたヘッドセットも気にならない。
助けを求める人に希望を与え、絶望から救う。
戸石はその現場を目撃して、今、心から感動していた。
秋の終わりが近づき、午後6時を回れば、辺りはもう暗い。
「なんで戸石さんがここにいるんですか」
戸石と臼井はオフィスが入っていたビルの裏口で、お互いに缶コーヒーを飲んでいた。
「それはこっちも同じだよ。なんでここに」
「僕は緊急事態宣言で仕事ができなくなったんで、あれこれ探してたら、ここに行きついたってだけです」
「俺も同じだよ。同じ仲間」
戸石は自販機備え付けのベンチに座り、臼井は近くの花壇を背にして立っている。
世情から言って、見知った相手とはいえ、向かい合わないソーシャルディスタンスを保つ必要があった。
もっともコーヒーを飲みながらなので、マスクはアゴに下ろしたままなのだが。
「戸石さんはお店があるじゃないですか」
「俺んとこも酒出してなんぼだぜ? 夜8時で閉めろとか言われたら営業にならないよ」
「弁当販売とか」
「それは今、かーちゃんがやってる。娘が原付買ったから、配送。けどな、それだって全然なんだぞ? 悪いけど近所の人に配ってるのと変わらない」
コールセンターの入ってるビルにも、昼時には弁当販売の売り子が来ていたが、それでも日によって違うアルバイトと思われるスタッフが何人もいた。
臼井も個人事業主として業務に従事しており、ある程度は戸石の実情も想像できる。
確かに食材の仕入れや販売の手間などを考えれば、とても家族経営ですぐに利益など出せるものではないのだろう。
「これで冬が来て感染者が増えたら、緊急事態宣言になってまた営業自粛だろ。やってらんないよ」
「そうですね……」
二人とも当事者である。言葉の一つ一つに実感がこもっていた。
実際、世間の報道ではまた感染者の増加が伝えられ、年末年始にかけての緊急事態宣言の可能性も取り沙汰されていた。
「ところで本当にすごいよな、先生。尊敬するよ」
「またその話ですか、あれはたまたまですよ」
「またまた。事務局がダメだって言った話をひっくり返すなんてやるじゃないか。あれもリーダーの人と事前に相談してたのかい? 青い札を上げてたけど」
「あー……、本来はあそこまでは言っちゃいけないと思いますよ。研修でも言われたと思うけど、あくまで不備内容に対する案内の窓口の業務ですから。実際、リーダーの人には事務局から言われた内容を伝えるしかないね。って言われましたから」
「でも、そこはさすが先生じゃんかよ」
「まあ、悪い人じゃない。きちんと話ができる方でしたからね。申請できません。あきらめてください。と言って、終わるのはなんとか避けたかったので」
「ほらー。先生もほんと素直じゃねえな」
笑いながら言葉を口にする臼井を見て、戸石も笑顔を浮かべる。
「見ろよ先生。月がきれいじゃないか」
戸石が見上げた夜空の先には、わずかに欠けた月がのぼっていた。
「みんな、コロナなんていう見えない嵐に突然、巻き込まれてさ。どうしていいかわからない。ただみんな、真面目に生きてただけなのに国から何もしちゃいけないって言われてさ。お先が真っ暗だ。みんな、どんなに必死でもくじけちまうよ、そりゃ」
「急にどうしたんですか」
笑う臼井に、戸石は話を続ける。
「陽はまた昇るっていうけどさ。みんな、そんなのは待っていられない。明かりが、希望が、みんなは今、欲しいんだよ。この暗闇を照らす希望がさ。今、俺達を照らす、あの月のように」
「月なんか夜になれば毎晩のぼってるじゃないですか、ただ見えないだけで。それに優しさや勇気で人が救えたら、苦労はしません」
「もう、先生はほんと素直じゃねえな」
戸石と臼井は月を挟んで向かい合う。
「先生、俺と先生はこのコールセンターでたった二人の個人事業主。俺達で一人でも多くの申請者を救おうじゃないか」
「イヤです」
「おいっ!」
臼井の即答に、さすがの戸石も芸人ばりに突っ込まざるを得なかった。
「言わないだけで、他にも個人事業主の人はこのセンターにもいると思いますけどね。それに実際は申請者から怒られるのが大半ですよ」
決意の戸石に、臼井は冷静に現実を述べる。
「……だよな。めっちゃ怒ってる人のやつも聞いたよ。それにさっきのあの人も六回、再申請してんだろ? そりゃ本当に給付されるのか、って思うよな。やっぱり」
臼井につられて冷静になったのか、戸石は不安になる。
臼井は缶コーヒーを飲み干し、ごみ箱に投函する。
「なあ、先生。正直なところ、どう思ってるんだよ? 先生が救ったあの人、給付されるのかどうか」
「……給付はされますよ。必ずされます」
臼井は力強く言葉を口にして、そして、戸石に向き直る。
「だって、実際に給付を受けた人間がここにいるんですから」
臼井のその宣言には、有無を言わせない問答無用の迫力があった。