≪TU編 05話 -夜の空に太陽はのぼらない-(2/5)≫
戸石は今、コールセンターのオフィスにいる。
スタッフそれぞれにパソコンが割り当てられ、そこで資料を開いて、講師からの説明を受けていくというのが主な研修の流れである。
情報のセキュリティ対策として、オフィスの出入りには名札兼カードキーを当てないと出入り自体ができない仕組み。また筆記用具やメモ用紙も持ち込み、持ち出しは禁止され、オフィス内でしか使用は許されない。財布など貴重品も全て個人のビニールバッグに入れて管理するというもの。
さらに百名はいると思われる座席ごとに仕切りのアクリル板が設置され、一人一人のスタッフに対しても消毒液、ウェットティッシュが渡され、通話時に装着するマイクとイヤホンの付いたヘッドセット、マウス、キーボードなどの機材も一人一人個人で割り当て、さらにはマスクも一日一枚支給という、まさにここまでするか。と言わんばかりの感染対策だった。
「ということで改めて。今回、皆さんが行う業務は国が行う賃貸借契約に基づく固定費に対する支援制度、いわゆる賃貸借支援給付金を申請する方々に対して不備の案内を行う。というものがメインとなります」
講師のカワグチという女性からこの三日間説明を受けており、今日が四日目の研修日程。
いよいよ着台デビューに向けて、本格的な内容の研修に入っていく。
講義を続けるカワグチは声が通りやすいように、通常のマスクではなくフェイスシールドを着けていた。
「今までの研修で説明をしてきましたが、申請者に対して不備、提出書類の審査が通らなかった場合、通知の連絡がメールで届きます。そこから申請者がコールセンター、こことは別の問い合わせ専用窓口に不備の内容について問い合わせを行い、問い合わせ窓口から我々の不備案内窓口に連携されて、私達から申請者の方に対してお電話をし、不備についての案内を行う。という流れになります」
正直、何を言っているのかさっぱりわからない。申請者向けに制度の内容を説明する解説書も八十ページに及んであり、研修で何が書いてあるのか説明はされてはいるものの、何を説明されてきたのかさっぱりわかってはいない。
それは同じ日に入社した十名あまりの新人スタッフも同様であり、みんな、不安と困惑の表情を浮かべているのが見て取れた。
「大丈夫ですよ。わかります。何もかもわからない。わかります。今の皆さんの正直な気持ち。私もそうでした。でも大丈夫です。皆さんは一人じゃありません。困ったら必ず手を上げて助けを求めてください。必ず私達が助けに行きます」
カワグチは大きな身振り手振りを交え、非常によく通る声で新人スタッフ達に演説する。
「電話をする前も。電話中でも。電話が終わった後でも、です。一人で考え込むことが一番いけないことなのです。報道にもある通り、現在の給付率は三割未満。その給付に関しても申請から早くて一か月。制度開始から未だに不備のやりとりをしている申請者の方もたくさんいらっしゃいます。正直、申請者のみなさんはこの制度に対してお怒りです。もう第一声、名乗った瞬間から怒鳴られます。おせーぞ、バカヤロー。ふざけんな、コノヤロー。はっきり言ってやってられません」
しゃべってる本人はどことなく楽しそうだった。
「報告。連絡。相談。これは一般的なビジネスでももちろんですが、特に今回の業務においては非常に重要となります。これは国が行う支援制度です。皆さんが申請する立場の人だったらどうですか? いい加減なことは許されませんよね。ですから、まずは自分独りで考え込まず、とにかく相談してください。わからないのはあなた一人じゃありません。申請者もわかりませんが、正直、私達、リーダークラスの人間だってわかりません」
拳を握って、熱弁に力がこもる。本業でナレーターなどの声の仕事をしているらしく、マイクなど不要。というのが彼女のポリシーだった。
「申請者の方に電話をする前に、審査が申請者に送った不備通知をまず確認するのですが、いわゆるお役所言葉で、はっきり言って何が書いてあるのかわかりません。何言ってんだこいつ、日本語で頼む。悲しいかなそれが現実です。例えば本人確認書類。よくあるのが免許証更新の期限切れ。この不備に対して、なぜか住民票だったら三か月以内のものを用意しろ。という文言が唐突にくっついてきます。住民票なんてつけてないじゃないか。意味がわかりません。しかし、これには理由があります。なぜかわかりますか」
唐突に前の席の人間に当てるカワグチ。完全に生徒に授業を行う先生のソレだった。研修の講師なのだから、それで間違いはないのだが。
「えーと……。申請者が免許証以外のものを替わりに提出することがあるから、ですよね」
「そうです。六十点! 合格です! えらいっ、よくできました」
正直、見てて大げさだとは思うが、そういう気持ちの持ちようが大切な仕事なのかな。と戸石は少しわかってきていた。
「これまで研修でやってきてわかっていると思いますが、この制度は本当に様々な方からの申請があります。そして、申請者の皆さんはそれぞれ事情があります。なんせ通常の申請方法の解説書以外にも、そういった皆さんの事情に対応するための特例解説書が六十ページもある。皆さんだったら読みますか? 読みませんよね。読んでられるか、バカヤロー。いいから申請させろ、コノヤロー。これが正直な気持ちだと思います」
カワグチはここで一つゴホンと咳払い。
「ここで話を戻すと、審査は一つの不備に対してあらゆる解消方法を書いてくることが多いです。または、または、または。これら、これら、これら。……どれだよ、コンニャロー!となるわけです。まあ時々、親切にこういう風に再申請してください。と具体的に書くこともあるようなんですが、そこも審査の中の人によるようです。つまり、皆さんは困っている申請者の方に対して、一緒に不備の解消方法を考えてあげる。申請者の悩みに寄り添ってあげる。それがお仕事だと思ってください。不備の解消方法なんて解説書にも書いてあるし、よくよく読めば不備の通知内容にも書いてあるんです。でも申請してくる皆さんは、やっとの思いで申請したのに不備でダメだと言われて、目の前が真っ暗になっている。そこで話を聞いてあげて、ああでもない。こうでもない。と一緒に寄り添ってあげてください」
カワグチは腰に手をあて、ピッと人差し指を立てる。
「ここで一つ注意。こうやって申請すれば審査が通りますよ。はNGトークですよー。正直、現場で働いてる皆さんからもちょくちょく聞こえてくることはあるんですが、申請が通るかどうか判断するのはあくまで審査です。絶対にやっちゃダメです。うかつにこれで申請が通ると言って、やっぱり駄目じゃねーか、バカヤロー。とクレームに発展しているケースは少なくありません。絶対にこれで審査が通る。という言葉は使っちゃダメですからね」
カワグチは強く念押しの口調。戸石はうっかり口を滑らせる予感が今からしていた。
振り返りの講義が終わり、カワグチはそれぞれ研修生の電話機にモニタリングの設定を行っていた。
モニタリングとは実際のスタッフと申請者のやりとりの聞き取りをすることである。
戸石は緊張していた。
これまでカワグチの話から、どれだけの怒号が飛び交っているのか想像に難くなかったからだ。
「はい、じゃこれでモニタリングの設定ができました。あとはヘッドセットを着けて、待っていてくださいね。会話が始まればイヤホンに聞こえてきますから」
カワグチは戸石のモニタリングの設定を終える。
イヤホンからはまだ何も聞こえてこない。
「ありがとうございます。ちなみにどなたですか」
「モニタリング先ですか? あそこの彼ですね」
オフィスはそれぞれの列で仕切られており、休憩などの時間帯も列ごとに区切られている。
カワグチが示した先にはスーツ姿の男性が座っており、頭髪は短く刈り上げてはいるものの、黒々と照明に照らされているのが、戸石にはまぶしかった。
と、ちょっと椅子から腰を上げてのぞき込んでいるとスーツの男性が電話機のボタンをプッシュし始めた。
戸石はあわてて椅子に腰を下ろす。結構勢いよく座ったものの、しっかり弾力がある感触にさすが業務用のオフィスチェアは性能が違うな。と感じた。
「……はい」
電話を掛けた先に低い男性の声が返ってくる。
「お忙しいところ、恐れ入ります。こちら賃貸借支援給付金事務局のものです。先日は窓口に問い合わせいただきありがとうございました」
「待ってたよ」
男性の声のトーンが一層低くなる。
戸石は聞きながら手元のペンをとろうとしたが、机から落としてしまう。
「私、本日担当の―――」
椅子から離れてしゃがんだ瞬間。ヘッドセットのコードが頭から滑って外れてしまった。