勇者一行は死ななければならない
英雄譚はいつも巨悪が打ち倒されたところで終わる。英雄のその後も可憐な姫君との恋の行方も、ともに苦楽を共にした仲間が故郷に戻り幼馴染と幸せに暮らしたとか、遠い異郷にわたり人知れずに朽ち果てたという末路は語られることはない。だけど、それはそれでいいのだと思う。それは自分が世界を救ったから思えることで、ただの魔法使いであるときは考えもしなかった。
むしろ、英雄たちがどうなったのか。気になって仕方がなかったくらいである。
勇者や仲間と一緒に魔王を倒した私は、数々の恩賞や賛美を受けた。だが、だんだんとそれに耐えられなくなった。きっと生来の人見知りと研究者気質が、派手な生き方を許せなかったのだろう。華々しい凱旋から一年で私は得ていた地位や役職をすべて放り出して辺境に庵を構えた。
王都からはるかに離れたこの地には様々な生き物や植物が存在し、未知のそれらは私が魔術を研究するには十分なものであった。研究の日々は戦闘とも宮廷とも違い心落ち着く日々であった。
だから、急にかつての仲間が訪れたときはひどくびっくりした。あまりに驚いたせいで薬草の調合に使っていたガラス瓶を落としてしまったほどだ。
「久しぶりだね。魔法使い。いや、リーザというべきか」
そう言って上等な外套に金糸や銀糸で装飾を施された法衣に身を包んだ男は、砕けたガラスを片付けるのを手伝ってくれた。
「本当です。こんな辺境に来るなら来るで事前に連絡をいただきたいものです。こちらはもう一週間ほど誰とも話していなかったので人と話すには心の準備が必要なんです」
「その割には流暢に話している。近隣の村人たちが困っていたよ。一年前に西から現れた魔法使いが岬に庵を結んで怪しげな研究をしているってね。僕から君が優れた人物で魔王を討伐した人間だと説明はしておいたが、もう少し近隣住民とも交流をしないといけないよ」
彼は肩をすくめて苦笑いで集めたガラスをくず入れへと投げ込んだ。
「私が人見知りなのは賢者も知っているでしょう? 人づきあいが嫌で王都を出て辺境に来たのにそこでまた人と関わるなんて本末転倒もいいところよ。それに村人が怯えていたのは西から来た魔法使いじゃなくって西から来た魔女でしょう。いっそのこと魔女らしくこの庵の周囲を幻術で迷いの森に変えてしまえばいいのかしらね」
村人たちが私のことを魔女と呼んで恐れていたのは知っていた。しかし、私はそれを喜んで人づきあいをしない理由として村人たちの恐れに甘えた。彼らが私に牙をむいても追い返すだけの力はあるし、怯えてくれているうちは関わりにならなくていいからだ。
悪名よりも静かな生活。それが私の願ったものである。
「そこまで知っているならちゃんと説明をすればいいだろう。幻術において君を超えるものがいないことは認めるが、大陸にぽんぽんと迷いの森を作られては王国の小役人としては苦言の一つや二つ言わなければならなくなる」
「いいじゃないですか。賢者はそんな小言を言いに来たんですか。王国宰相というのはずいぶんお暇な仕事なのですね」
私がむくれて嫌味を口にすると賢者はいやそれはと頬をかいた。仲間であったころから変わらない仕草だ。都合が悪くなると頬をかく。冷血の賢人と呼ばれるているくせに彼にはそういう子供臭さがある。
「魔法使い。いやリーザ」
「別に言いにくいなら魔法使いでいいですよ。勇者の仲間はいつ誰が死ぬかわからないから情が移らないようにお互いの役目で呼び合っていたのですから仕方ありません。それに私も急に名前で呼ばれると調子が狂います」
「ああ、すまない。だが、平和が訪れても役割で呼ぶというのはあまり健全な関係ではないだろう」
「良くはないでしょうけど、別に仲良しこよしで仲間だったわけでもなし。名前で呼び合う関係でもなかったと思いますよ。もっと冷たく業務的な付き合いというか。そうじゃなきゃ勇者の仲間なんてやっていられなかったですしね」
魔王討伐の旅は危険の連続だ。魔獣に襲われ食い殺されることもあれば、魔族側についた同じ人間に命を奪われることもある。昨日まで親しくしていた仲間が明日にはいない。そんなことはざらで、仲間の死を引きずってさらに仲間を失う悪循環も多い。
仲間が半分になっても旅は終わらない。不足した戦力を別の人間で補填して進む。これを繰り返していくと人と親しくなるのが怖くなる。熟練した者ほど仲間との会話を嫌うようになるのは別れを繰り返して学ぶからだ。
「君は後悔しているのか?」
「……それは難しい質問です。あの旅のおかげで私は二十歳そこそこで楽隠居を決め込むことができました。その反面で唯一の肉親である弟を失いました。だから一概にしては言えません」
弟はとくに優れた能力を持っていたわけではない。剣にしても魔法にしてもほどほどだった。だけど彼は魔王や魔物によって人々が傷つくのを少しでも減らしたい。そう言って私たちと旅に出た。だからその弟が死んだとき私は悲しんだ。しかし、涙はあっという間に枯れた。それは隣に僧侶がいたからだ。
彼女は弟たち仲間を失ったせいで私以上に精神を病んでいた。
絶望よりも深い深淵の底へと向かおうとしている彼女がいたから私は耐えられた。それは友情などという優しさからではない。ただ私よりも不幸な人間がいる。仄暗い優越感が私をほんのわずかに浮上させた。
「考えてみれば、戦士と女騎士を失ったパルメザン会戦がもっと危ない場面だったかもしれないな」
賢者は遠い昔を思い出すように遠い目で何もない壁を見つめる。彼の眼にはあの日の風景が再生されているのかもしれないが、私の眼からは同じものを見ることはできない。熱病に罹ったようにうわ言で死者の名前を呼び続ける僧侶をかばい続けた私の魔力はほとんど枯渇し、杖を振るう腕力もなくなりかけたときになって賢者と勇者の二人に合流できた。彼らの足元には仲間であった戦士や女騎士と思われる肉塊が転がっていた。
身体に悪い霊薬で魔力を補い。強力すぎて記憶が飛びそうになる気付け薬で僧侶の精神を無理やり向上させて一昼夜を戦い続けた。
よく魔法が生じたと思えるほど声は嗄れ、足元のすべてが真っ赤になったころようやく戦いは終わった。勇者が捨て身に近い突進で魔族の長にはなった斬撃が決め手になった。長を失い逃げ出していく魔獣や魔族を追撃する力は私たちにはなく、泥のようにその場に崩れ落ちた。
そんななかで僧侶だけがゴソゴソと動いていた。
私は最初、彼女が何をしているか分からなかった。ちぎれ落ちた弟の頭を胴体の上にのせて効きもしない回復魔法を唱える。死者は生き返らない。そんなことは魔法でも法術でも最初に習うことだ。それなのに彼女は「あれ」とか「どうして」なんて言いながら何度も何度も同じことを繰り返す。
そのたびにくっつかない弟の生首が胴体から滑り落ちる。
小さな子供が人形で遊んでいるような不思議な光景だった。それから数度同じことを繰り返して僧侶は困り切った表情で私のそばにやってくると「魔力が切れたみたいなの。霊薬ある?」と小首をかしげた。
「……あれはもう死んでるから」
「そんなことない! 私の力がないだけ。霊薬を霊薬をちょうだい!」
彼女は私の襟首を引きちぎりそうな勢いで引っ張った。その瞳は私を見ているのかそれとも別のものを写し取っているのか分からない危ういものだった。私は彼女から離れたくて最後の霊薬を渡した。彼女はそれを一息に飲み干すと同じ作業に戻っていった。
私はその姿を見ないように空を見上げたまま仰向けになったが、首が地面に落ちる音だけはずっと聞こえていた。
「あのとき賢者ともう一人の勇者に会えなければ私たちは生きていなかったでしょうね」
「それは僕たちも同じだ。君たちがいなければどうなっていたか」
目を伏して彼は死んでいった仲間の冥福を願ったのか。彼らの死の先に栄誉ある今があることを愧じているのかは読み取れない。少なくとも私には彼らの死を背負うことはできなかった。だから、人見知りを言い訳に王都から逃げた。魔王に臆することなく戦った人々の象徴である勇者にも優れた知識と冷静な態度で復興の指揮を執る賢者。そして、一度は砕けた心で人々を癒し続けた僧侶。戦いのあとも人々のためにつくす彼らに私はついていけなかった。
「……それはそうと勇者は元気ですか?」
話を切り替えたい私は後ろめたい気持ちで彼のことを尋ねた。だが、勇者のことを口にした瞬間から賢者はひどく困惑したような。あるいは感情をあえて押し殺した表情をして歯切れが悪そうに私を数度うかがってから口を開いた。
「勇者は死んだよ」
「嘘です! そんなはずはありません。彼は魔王を倒した世界最強。身体も丈夫で病気に罹ったという話も聞いたことありません」
「嘘ではない。勇者は間違いなく死んだ。僕は彼が死んだときその場にいた。世界最強の男は、聖女と呼ばれ多くの人々の命を救い、勇者の恋人でもあった僧侶によって殺されたんだ」
「どうして……?」
「それが分かればこんな場所までこなかったさ」
言葉を聞いて賢者が私を疑っていることを確信した。確かに私は僧侶ともっとも仲が良かったと言える。その彼女が罪を犯したとすれば、私がなにか関わっていると思われても仕方がない。
「まるで私が勇者が殺された理由を知っているかのようないいようですね」
不満を視線に変えて賢者をにらみつける。彼は変わらぬ口調で「ええ、そう思ってますから」と微笑んで見せたが口元と違い眼だけはぎらぎらとこちらを刺すように光っていた。私は何事もないかのように使わなくなって久しい杖に手を伸ばす。
「辺境に住む西から来た魔女には王都まで伸びる長い腕なんてありませんよ」
「そうかな? 痕跡はうまく誤魔化されていたが、この辺境から毎月王都の僧侶に何かが送られていた。それが君の長い腕じゃないのか?」
舌打ちをしたくなる。何事も詰めてから行動を起こす彼のそういうところは味方であれば頼もしいが、恋人や敵から見ればねちねちと陰にこもって見えて嫌になる。このまま杖を振り上げて殴りつけてやろうかと考えてみるが、先に見える未来は暗い。
「薬草や薬のことならそれは僧侶のために送っていただけです。そもそも勇者が殺された理由が知りたいなら彼女自身に訊けばいいでしょうに」
「それができればどれほどいいか。勇者を殺した僧侶は多くの追っ手をかわして逃亡中だ。しかし、勇者を殺した僧侶を匿ってくれるものなんてこの世界にどれほどもいない。例外があるとすればかつての仲間だけだろう」
「それが私だと?」
「そうだ。彼女が仲間だと思うのは魔法使いだけだろう」
僧侶ははたして私のことを仲間だと思っているだろうか?
仲間を失い。心を病んだ彼女を歪んだ感傷で慰めた私を彼女が仲間と認める。そんな甘いことを賢者は本当に信じているのだろうか? もしも信じて私のもとに来たのなら彼はとんだ道化に仕立て上げられたものだ。僧侶が勇者を殺したというのなら、どうしてその場にいた賢者を殺さなかった。
そこに理由を考えるべきではないか。
「賢者。あなたのことですからこの庵はすでにあなたの手の者たちが取り囲んでいるのでしょう?」
「そうだ。魔法使い。君がどれほどすぐれた魔術を使おうとこの包囲は突破できない。今すぐに僧侶の居場所を教えてくれ」
「彼女の居場所なんて知れてるじゃないですか?」
うつむいた私の言葉に賢者は一歩踏み出して「それはどこです」と詰め寄った。私はそんなバカげた質問があるかと思ったが最後の善行だと人差し指を一本、真下に指した。
「ここですよ。ここ。僧侶がもっとも殺したいのは私のはずですから」
「それはどういう意味だ。君たちは共犯だろうが」
賢者が語気を荒げたのと同時だった。庵の周囲で泥をまき散らしたようにねっとりとした破裂音があった。それは一回ではなく二度三度四度と繰り返され同じだけの悲鳴が耳に届いた。最後の破裂音が止むと静けさが私たちを包む。
生というものが騒がしさなら死は静けさだろう。私はそれを黙って受け入れるつもりだった。しかし、賢者は違っていた。恐怖に顔をゆがめながらも庵から飛び出すと、激しい火炎を巻き起こした。魔力で生み出された炎は庵の周囲に生えていた木々や草木を根こそぎ灰燼に帰した。
真っ黒に焦げた地面にくすぶる煙。その向こうに彼女は立っていた。彼女の足元にはそろいの鎧を着たいくつもの人だったものが転がっている。それらはおそらく賢者が私を捕らえるために隠しておいた王国兵だろう。だが、僧侶はそんな足元のことなど全く気にする様子さえない。
すべての罪を許し慈悲によって照らし出してくれそうな柔らかな微笑みに、清らかさでできたような涼しげな声。僧侶は棒立ちになっている賢者など見えていないかのように私を見ていた。
「リーザ。ここにいたのですね」
「僧侶……。いえ、ミラ。私はここにいたわよ」
僧侶は私の呼びかけに小さくうなずくと真っ黒な大地をゆっくりと進みだす。それを悪魔と出会ったような表情で賢者が呼び止める。
「なぜ、勇者を殺した! 僕たちは多くの犠牲を払ってようやく今の栄光を手に入れたというのに」
「勇者? 私が勇者様を殺した? そんなことあるはずないじゃないですか。私は勇者様を愛しているんですよ。彼のためなら死ねるほどに」
ミラはどうしてそんなくだらないことを言うのかと信じられないという表情で賢者を眺める。
「嘘をつくな。僕は見ていたんだぞ。お前が勇者ユーシスを殺したところを。過剰すぎる回復魔法によって首から上が消し飛ぶほど生み出された肉と骨。不要な口や目が連なり人間とは思えぬほど変わり果てた彼を」
傷を癒す。それは失われた肉や骨を生み出すことだ。だが、それが過剰であればどうなるか。簡単な話だ。増えすぎた肉や骨は皮を突き破り新たな傷を生じさせ、さらにそれを治すために多くの肉や骨、臓器が生み出される。過ぎたるはおよばざるが如しとはよく言ったもので強すぎる回復魔法は人を殺す。
「勇者ユーシス? それはあなたの勇者様でしょう?」
「……何を言っているんだ。勇者はユーシスだけだ。魔王を倒し世界を救った勇者ユーシス。君はその仲間だったじゃないか?」
ひきつった表情で賢者は私に同意を求めるよう何度もうなずいて見せるが、私はそれを左右に首を振るだけで否定した。確かに世界を救った勇者は一人だけだ。勇者ユーシス。彼は卓越した剣技に魔法も並みの魔法使いよりもはるかに優れていた。万能という言葉が彼ほど似合う人間はほかに見たことがない。
「リーザ。勇者様が見つからないの。ずっと探しているのに。同じ仲間のあなたなら知っているでしょ?」
ミラは賢者を無視してこちらに近づく。目の前を横切る彼女に賢者は何もできず。呆然と見送った。
「ミラ。まだ私を仲間だと言ってくれるのね」
「何を言ってるの? 勇者様。リーザ。そして死んでしまった剣士。そして私。仲間なんてこの四人しかいないじゃないの」
ミラの言葉に私は納得した。だが、賢者は納得できなかったに違いない。彼は紅潮した顔で僧侶をにらみつけると「どうして僕がいない! 魔王を倒すために僕がどれだけ君たちに策を授け貢献してきたと思ってるんだ」と叫んだ。だが、それは大きな間違いだ。ミラの眼には最初から賢者や勇者は含まれていない。いや、私だっているかどうか分からない。
ミラは怒りを露わにする賢者に何の感情も動かないのか。母親が癇癪をおこした子供に言い含めるような柔らかな微笑みを向ける。
「それは頑張りましたね。神は常にあなたの行いを見ておられます。これからも人々のため同じ世界を救う目標を持つ者としての務めを果たしてください」
これほど場違いな言葉もなかったに違いない。子供のようにいなされた賢者は肩を振るわせて杖を握りしめるとそのまま強力な火炎魔法を僧侶に繰り出した。ミラはそれを避けるような素振り一つしなかった。激しい熱波と光が視界を奪う。肉の焦げる独特なにおいが鼻につく。賢者の前には半身が真っ黒に焦げ落ちた彼女がかろうじて立っていた。
「どうだ。勇者の仇だ。聖女だなんだともてはやされても所詮は辺境の僧侶。王都で学問をおさめ賢者となった僕には勝てるはずがないだろ」
「ミラ!」
真っ白に雪のようだったミラの肌は焼け爛れ、黒い焦げの間から血と肉の赤がわずかに見える。焼け残ったわずかな半身だけが元の白い肌を残していた。あまりに痛々しい姿にもかかわらず彼女は笑っていた。それは攻撃を仕掛けた賢者をあざ笑うわけでも、仲間を救えなかった私を侮蔑する笑いでさえない。
「リーザ。大丈夫。こんなのいくらでも治せるもの」
ミラが言葉を言い終える前に彼女の身体は時間が巻き戻るようにすべての傷を消し去っていた。皮膚や肉が焼け落ち骨が見えていた太もも、長く細い五つの指がひと塊に見えるほど焦げた手も、すべてが幻だったかのように彼女は癒した。
ただの回復魔法であるはずなのにまるで禁呪のように感じるのはその速度があまりに早いからだ。凡百の僧侶があのような怪我を治そうとすれば、三日三晩はかかるのが普通なのだ。だが、ミラの場合は一瞬で終わってしまう。まるで奇跡が起きているように。あるいは悪魔の仕業のように。
「……ミラ」
「私ね。とってもうまくなったでしょう? だから早く勇者様を助けないと」
助ける。それができればどれだけいいだろう。
私がミラにかける言葉を探していると彼女の前に賢者が化け物でも見るような表情で立ちふさがっていた。
「お前は……お前はなんなんだ。勇者ユーシスを殺しておきながら勇者を助けたいなんて」
「賢者さん、邪魔しないでください。私、勇者様を探して助けないといけないんです。あなたに構っている暇なんてないんですよ」
敵意も好意もなくただ優しさで向けられた笑みに賢者は、握りしめていた杖を振り下ろすことで答えた。杖はミラの左肩を砕いた。だが、彼女は残された右手を伸ばすと賢者の頭に触れた。困ったような表情でミラは「賢者さんは混乱してるんですね。すぐに治します」と苦笑いを浮かべた。
次の瞬間、賢者の頭は弾け飛び空っぽになった頭蓋をこちらに向けてばったりと仰向けに倒れた。彼の瞳は何も分からないと告げるように見開かれ、私を責めるように血の涙を流していた。
「ミラ。私が送っていた薬を最後に飲んだのはいつ?」
賢者が調べていた通り私はずっとミラに薬を送り続けていた。だが、それは決して彼女の身体を案じてではない。極論で言えば私のためだ。
「いつかな。最近忙しくて飲んでない。でも、そんなことより勇者様を助けないと」
「ミラ。よく聞いて。弟はもう一年以上前に死んでるわ」
私が口を開くとミラは何のことかさっぱり分からないという表情をした。だが、彼女が勇者様と慕い愛した私の弟は魔族との戦いで死んでいる。魔族の攻勢に対して多くの勇者を夢見る若者たちが国を救うために戦った。そのほとんどは弟と同じく勇者と呼ぶには力ない者たちで、その多くが死んだ。死んだ若者たちの中で生き残り勇者と呼ばれたものこそ魔王を倒した勇者ユーシスだ。だが、彼の足元には勇者になれなかった者たちが無数にいたのだ。
「そんなはずない。勇者様は私たちと一緒に魔王を倒して……」
むきになって否定するミラは片手で自らの頬を抑える。
「倒したのなら、どうしてあなたは弟を助けないといけないと思っているの?」
「それは勇者様が魔物にやられて……やられて? どうして?」
パルメザン平原会戦と呼ばれた魔族と人間の争いは熾烈を極めた。弟や剣士と言った仲間を失った私や僧侶が生き残る術などまったくないように思われた。まして弟の死に悲しむばかりで何もできなくなった僧侶がいたのならなおさらだ。
私は死にたくなかった。
弟が死んでも。剣士が私をかばって死んでも。弟を愛して嘆き悲しむ仲間がどうなっても生き残りたかった。どうしようもないほどの利己主義が明確な形となったのは、私たちと同じように仲間の半分を失った賢者と勇者と出会ったときだった。
彼らも戦士と女騎士という仲間を失い一気に不利へと落ちかかっていた。彼らを使って立て直せばなんとか生き残れるかもしれないと考えた私は、ある種の優越感をもって悲嘆の底にあるミラを術に使った。それはとても古典的でひどく非道で友情などない方法だった。
ミラは彼女が信じ愛していた勇者様を失い、心に穴をあけていた。だから、私はその穴を埋めた。精神を高揚させる気付け薬で彼女の精神を緩め、弟と同じく勇者と呼ばれていたユーシスを弟と誤認するように幻術をかけた。彼女の目にはユーシスが弟に見えたに違いない。なんとかミラを戦えるようにした私はこの戦いを生き残ることができた。
ただ、戦いのあと彼女が何度も弟を回復させようとしたことだけは気持ち悪かった。
きっとあのときから彼女の精神はおかしくなった。生きている勇者が見える自分と、勇者を助けられなかった自分が並立することに彼女は耐えられなかったのだろう。だが、パルメザン会戦で名を挙げた私たちはなおも戦わなければならなかった。だから、私は彼女に気付け薬の元になっている麻薬と幻術を彼女にかけ続けた。
決して彼女が正気を取り戻さぬよう。弟が生きていると信じさせるために。
魔王を倒したあと。勇者ユーシスは自らが僧侶に好かれていると思い込んで彼女に愛を告げた。ミラはそれを喜んで受け入れた。彼女からはユーシスなど見えていないのだから当然だ。しかし、ユーシスと弟では性格も違えば、行動も変わる。一緒にいればいるほどユーシスと弟の差は彼女に違和感をもたらした。はじめ私は薬を強くすることで乗り切ろうとしたが無理だった。
私はこのとき明確な終わりが来ることに気づいて王都を離れた。少しでも終わりが遅くなることを願って薬を送り続けたが、いまとなってはどれほど意味があったか疑わしい。
「弟の首はひっついた?」
「勇者様の首は……首は。早く治さないと」
彼女は慌ててあたりを見渡すが、ここにはそんなものない。だが、彼女が勇者ユーシスを過剰回復させた理由は分かる。ユーシスの首は切断されていない。だが、ミラの目に映る勇者は首が切れているのだ。切れていないものを治す。結果は見るまでもない。
「ミラ。それはあなたの魔力がきれているから」
「そう。そうよね。なら、はやく霊薬を飲まないと」
ミラは一年以上前の戦場にいるかのように慌てて私にすがりよる。その表情は間違いなく弟を心配する一人の女性のものだ。彼女ほど弟を愛してくれる人はいない。実の肉親である私でさえ彼をそこまで愛していない。だから、思うのだ。
ああ、重い。嫌になる。
「はい、ミラ霊薬よ。美味しくないから一気に飲まないとだめよ」
私は庵の中に置いていた小瓶を取り出すと彼女に手渡す。ミラは手に置かれた小瓶に一瞥することもなく口をつける。顔をしかめてすべてを飲み干した彼女は「助けないと」と言ってそのまま床に倒れ込んだ。私は彼女が完全に動かなくなるまで息をすることさえ忘れて眺めていた。
そして、彼女が死んだと確信をしてから長い息をついた。
息をして私は自分が生きていることに安堵した。そして、勇者一行が死んだことを喜んだ。そもそも英雄などいいものではない。英雄譚の終わりとともにすべて終わるべきなのだ。私は賢者と僧侶の死体をそのままにして庵を出ると火を放った。
簡素な木の壁と屋根でできた庵はあっという間に燃え上がる。
それは私の新しい門出を祝う光だ。仲間だったものはすべて死に絶え、私を知るものはいない。このままどこか遠くへ行けばいいだけだ。どこへ行こうか私は笑った。可笑しかった。こんなにも自由にもなれることがとても愉快だった。
きっと今の私を見たものがいればきっと魔女というだろう。
それも構わない。だってとても気分がいい。それくらいは許しても罰は当たらないに違いない。