連れ立ち日和
少し開けて閑散とした姫乃木町駅前の広場は、普段どころかほとんどの時間、人の姿がない。申し訳程度のロータリーとまばらな街路樹、いくつか置かれたベンチに付き従うように自動販売機が置かれ、待ち合わせをしていた木枯らしが、合流してはまた流れていく。
一体ここはどこのローカル鉄道かと哀愁を感じなくもないが、一歩踏み出せば味気もない住宅街が広がる辺りはむしろ徹底しているというべきだろう。北風がはしゃぎ回るほどに人間は引きこもり、駅は更に寂れた印象を受ける。
そんな姫乃木町駅を背にして女の子と歩いている現状は、無論デートのような甘ったるいものではない。が、初対面の印象に比べると少し、七井 夜の当たりは幾分柔らかくなっていた。
「思っていたより物静かなんですね」
「姫乃木町に来たことは?」
「ありません。たまに電車に乗って通りすぎるくらい」
目新しい景色に、しかしそれほどの感動は覚えずに、七井 夜は町並みを淡々と見回していた。確かにこの無味無臭一ナノグラムもとい、人生の見聞において毒にも薬にもならないような景色ではあったろうが、それが感動を覚えるような景色であったとしても彼女にそれを感じ取る事は出来なかっただろう。
彼女は心損している……ボスはそう言っていた。
心損ココロスト、俺が元々いた世界とは少し違うこの世界に蔓延る、一種の病気のようなものだ。正確にはいくつか段階が存在し、初期症状に心傷ココロハート、心欠ココロラックがある。心損とはその次の段階であり、感情のほとんどが失われてしまう状態だ。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。ただし、心損の状態では一つだけ、何かの感情が残る。それは妬みであったり幸せであったりと、どの感情が残るかは人それぞれだ。だが、やがて心損した人間はそのたった一つの感情に深く依存し、浸っていくようになる。
そうして最後に行き当たる結末が心壊ココロプス。長らく心を失い、一つの感情にのめり込むことによって完全に壊れてしまい、やがて夢人ユメビトと呼ばれる化け物のような廃人紛いになってしまう。そういう病気がこの世界には蔓延している。心探偵の仕事は、簡単に言えばこの心壊を防ぐことにあると言っていい。だから、担当するのは何も心損の症状だけではない。
ただ、俺は心探偵としてはちょっとばかり才能があるらしく、主に重症な依頼人である心損を任されているという事情があったりする。
元の世界にもこれと似たような病気は起こったが、決定的に違うのは、この病気が意図的に引き起こされたり促進されたりするものだということだ。
それを担っているのがこの世界に潜む異形の存在、心を食べる妖獣「獏」だ。これが主題と言っていい。彼らは弱った人間の心の隙間に目をつけ、寄生するように住み着いて心を喰らい、人を夢人に変えて完全に乗っ取ってしまう。心の絶望の隙間に隠れ、人を異形の存在に変えてしまう。
心壊の防止を突き詰めていくと、実戦派の心探偵の仕事はこの獏という妖獣を退治することになる。実戦派というのは、つまり俺のような人間のことだ。
だから恐らく、この心損している少女、七井 夜の心も獏に侵されているはずだ。となれば、少し荒療治になるかもしれない。
「いつもここは、こんなに人がいないんですか?」
夜は、黙想する俺に対してそんな事を言ってくる。俺は行く町並みに目を細めながら、呟いた。
「そうだな……人はな」
この世界と元の世界のもう一つ違う所というのは、この世界の市街では時たまに、人間ではない者が歩いていることだ。超然と、平然と。当然の事のように毅然と歩いている「それ」は何なのか、実を言うとよく分からない。俺が前にいた世界では絶対に見かけなかったものだけど、この世界では「極稀」というよりは多い頻度で彼らの姿を見かける。この世界の人達は何とも思っていないようだけど、俺と同じように外からやってきた人間は奇妙に感じているようだ。
異様で面妖なそいつらは、獏とは違い害があるわけでも益になるわけでもない。目に映っていること以外何をして食べて何をして生きているのか、そもそも生き物なのかも曖昧だ。人間ではない、ということだけしか分からない。
この世界の一番のベテランであるボスに昔、彼らについて聞いたことがあるが、曰く『僕達にとっては少し奇妙だが、この世界では自然なものだ。僕達が以前の世界で、目の前の空間が窒素と酸素のごく小さな粒の集合で埋め尽くされているなんて事を全く意識しなかったのと同じように、彼らは意識されない見られない。少し数が少ないだけで、この世界では基本的に目を向けられない。それが過ぎたせいでそもそも何なのか分からないというわけだ』と、訳の分からない説明をされたのでそれ以来、なるたけ気にしないようにしている。
まあ、俺が気にしないのだ。俺が目を向けないのだ。空間を構成する空気の成分についての解説が出てこないように、彼らはこのお話にとってはほとんど関係ないものだと思ってくれて構わない。ただ、そこにいるのだということがたまた思い出されるだけなのだ。
「とは言っても年末年始クリスマスくらいの時期には流石に人の数も増えるけどさ」
「逆に言えばそんな時期でもない限り、人はまばらなんですね」
「……まあ、そうとも言う」
俺は頭をかきながら、向こうに見えてきた分かりやすいほどに異色の建物に目をやった。無機質なコンクリートの町並みには似つかわしくない、レンガのアプローチと木製の扉、壁にかけられた趣のあるランプに木製扉。なんだか一区角だけ洋画の世界に飛び出したようなその建物が、いわゆる俺の事務所である。
俺はそっちを指さして夜に示した。
「見えてきたけど、あれな」
夜は俺の言葉に従って指の先を見やる。そして事務所の建物を目にして言った。
「なんだかこの景色に似つかわしくないですね。少し浮いてます」
「普通の住宅とは違うわけだし、一目でわかりやすくするためにも少し雰囲気を出そうって趣旨だよ」
「つまり気取ってるわけですね」
「趣があると言え」
「言葉のアヤですよ」
「ちょっと違うだろ!」
そんなやり取りをかわしながら、俺達は事務所の前にまでやってきて、ガチャリとドアを開けた。カラリンコロリンとベルの音が鳴り、洋式の玄関と丁度良い明るさのオレンジ色の照明が目に映る。俺は靴を脱いで、玄関に並べられた内履きに履き替えると、夜にもそうするように促した。
夜は行儀正しく一度、頭を下げると靴を揃えて丁寧に脱ぎ、一番小さなスリッパ(子供用である)に足を通す。そうして彼女が上がってくるのを確認して俺は歩き出し、廊下から繋がるオフィスへの扉を開けた。
--ガチャリ。
「きゃっ!」
「どぅわっ!」
視界が開けた途端、俺は扉の向こうからこっちに向かって走ってきた何者かに正面から鉢合わせた。俺の胸の中にすっぽり収まるように突っ込んできた相手は、短く悲鳴をあげてから俺の顔を見上げてきた。
「……ってあれ、所長! お帰りなさい」
そして少し驚いたようにそう言ってきた。お帰りなさいではない、何事であるか。