猫失格
私はもうすぐ6才になるヒロシという猫を飼っている。「猫らしくない」キャッチ―な名前をあえてつけるという私のネーミングセンスを誇示したいのではなく、「猫らしくない」どころか、世の中のヒロシよりも、ヒロシっぽいとは言い過ぎか―彼は今、バルコニーの椅子に人様のように腰掛け、急所でもあるはずの腹を無防備に露出し、日光にあたりながら、ふてぶてしく眠っている。時折、ふんがっのようないびき混じりで、こくりこくりと気持ち良さそうに。晴れているとはいえ、日中風が強く、気温は9℃で、私は風呂場で洗ったヒロシのケージを拭いて乾かしながら「そんなとこで寝てたら。風邪引くよー」とまるで、自分の息子に注意するトーンで話しかけると、「うにゃうにゃあお」と、ただ音に呼応した返事とは思えないヒロシの声が返ってきた。私は可笑しくなって、バルコニーの方を見て、あくびをしながら部屋に入ってきたヒロシに「あんた、人間の言葉が分かるのね」と目を合わせると、しまった!とういうように、傍にあったガジュマルの小鉢を一発の猫パンチで律儀に倒し、私に「あーこらこら」と言わせた。
人間とはなんて愚かなものだろうと思う吾輩は……いや待て、『吾輩は猫である』の『吾輩』と僕は、ある一点において完全に異なる。それは猫である我という実存を、疑いにかかっているかどうかという点において、である。分かりやすく言えば、僕は正直なところ、『吾輩』のように自分を猫として受け入れ、人間世界にも興味を持っていけるような向上心のある猫ではないのだ。諦めている。人間は愚かだし、情けないし、愛嬌があって、愛情もある。そんなことは既に知っている。そういうものに付き合わされる一般的な猫になるのがウンザリなのだ。一般的な猫ならば、純朴にそのような人間の複雑性に惑わされ、また悲しみや喜びを享受することだろう。そう僕は悔しくも猫、なのだ。人間に求められる猫を演じ続け、本当の僕は僕しかしらない。バルコニーから伺える外の景色の中に、本当の僕が生きていける世界はあるのだろうか。僕は僕を毎日探している。今日も仕方なく、飼い主から与えられる餌に、投げられたねずみのおもちゃに、数日ぶりに帰ってきた飼い主に、僕の猫としての本能は飛びつきたがり、それに従うと、飼い主も満足そうな顔をする。良いんだ、僕は、これで。本当の僕を知られるのが怖い。もし知られることなんてことがあったら捨てられてしまうだろう。いっそ死んでしまいたい。
休日によく訪れる公園がある。私はヒロシをソフトケージに入れてベンチに座る。ヒロシはケージの中で毎度眠っている。公園に辿り着いたとて、「ここはどこ?」という表情で寝起きの顔をひょこんと出したあと、近づいてきた鳩にすらびびって、また引っ込んでしまう。それがまた可愛い。のに、再び顔を出したかと思うと飛び出して、今後は鳩を追い回し、鳩が飛び去っていくと誇らしげな顔をしながら私の膝の上に戻って来る。まるで猫ちゃんとやりましたけど、みたいな態度だ。そんなわけないのだが。ヒロシにリードを付けつつ、そろそろ、柳さんとこの犬のサチちゃんや吉上さんとこのフェレットのグッドちゃんらも集まって来る頃だろうと思う。ここはちょっとしたペット交流会の場となっているのだ。
雌犬のサチは直線のスピードが速い。僕に向かって一直線に駆けて来る。
「元気にしてた? 毛色変わった?」
尻尾を振って分かりやすいやつだ。僕の事が好きなのだろう。
「別に」
猫らしく、そっけない態度で返すと、
「んもお、意地悪なんだからあ」
と、その場で数回転した後、僕の飼い主にも媚びを売るよう撫でられにいく。飼い主に、
「あーサチちゃん久しぶりー」と言われて撫でられるサチはチラチラと僕の方を伺っている。飼い主にも気に入られているということをアピールしたいのだろう。と言っている間に僕の耳を唾液交じりに噛みつくのは、雌フェレットのグッドだ。彼女はもはや言葉を知らない。耳を噛めば恋人同士になれるという宗教に入っている。僕は、この場合、噛みつきをかわしつつ、「うにゃお」と怒ったフリをして、相手の飼い主がコラコラとグッドを回収するのを狙う。耳を噛まれるのはまんざらでもないのだが、適度に嫌がる事で、グッドが僕に向けている恋に飽きさせないためだ。案の定、サチとグッドは僕を取り合うようにもみ合いの喧嘩になって、飼い主同士が謝る。最近は飼い主同士がお互いのペットを近付けないようにしていたらしいのだが、人間は人間同士で色々話したいことがあるようだ。その隙を見て、彼女達は僕に近付いたり、彼女達同士で取っ組み合いをしている。面倒だ。何もかも。いっそ死んでしまいたい。
公園には犬やフェレット以外にも、ウサギ、フクロウやニホンザルまでも集まった。どうやらこの子はモテるらしく、雌の動物は求愛するように近づいてくる。種を越えた愛ね。と私はソフトケージの中のヒロシに語りかけるのだが、知らん顔で丸くなっている。けれど、ある神社の前を通るときだけいつも、ヒロシはガサゴソした後じっと鳥居の方を見つめるのだ。それがなんだか怖くて、私はこの道を早足で駆けていたのだが三日前から鳥居の右隅にちょこんと愛らしい頭に白い線が入った動物が座ってこっちを見ている事に気が付いた。なるほど、ヒロシは彼を見ていたのか。ハクビシンなんて珍しいと思ってから、私の脳内にハクビシンなんて名称が存在していたことに驚く。確か、彼の糞尿被害で屋根が落ちたという衝撃的なニュースを覚えていたからであろう。ヒロシが「にゃっ」と鳴いてガサゴソを落ち着きなくなったので、私はソフトケージを開けてみた。
僕は飛び出した。
「お前は毎日、毎日、家畜演じている。そうやって、つまらなく死んでいくのか」
ハクビシンの野郎。見抜いてやがった。野生の勘とはそういうものか。飼い主が見ている前だ。僕は猫らしく逃げていくハクビシンを追っていくと、やはり部屋から出ずのせいかやつのスピードには追い付けない。
「情けないね。君は何もかも諦めた割には、そうやって剥き出しにした本能も虚しいばかりだよ」
どこいきやがった。本殿の裏側に回ったふさふさの尾っぽを最後に見失っちまった。垂れた涎を肉球で踏みしめた僕はいっそ死んでしまいたいと毛を逆立ててみた。自分の影に威嚇をシャーッとぶちかまして、ションベン垂れ流して、デカダンス。「それだよ」と聞こえた。見上げると目の前にはハクビシンがほくそ笑んで僕の方を見ている。
「飼い主なんて捨てて俺と落ちていこうじゃないか。腐った世界だ。神様? 知ったこっちゃねえ」
ハクビシンはそう言って賽銭箱の上に登るとその中に糞をし始めた。
「見えるか。はっはっはっは、お前に見えるか。俺と俺の糞が。はっはっはっはっは。分かるか? 俺は神を垂れ流しているのだ。分かるか? お前には分かってしまうだろうな。はっはっはっはっはっは。俺は今、神を垂れ流しているのだ。二回言ったぞ。俺は」
僕は逆立てた毛をそのままにしてジリジリとハクビシンの方に歩み寄った。どうしてだ、どうしてお前は僕の事がそんなに分かる。賽銭箱で糞をするぐらいの思いを僕が抱えている事が分かるんだ。
「ヒロシーっ!」
飼い主が心配そうに僕の名を呼んだ。
私はヒロシの所まで駆けつけると抱き上げてソフトケージの中にやや強引に入れ戻した。ヒロシはまだハクビシンの方を見てシャーッと威嚇している、困った子だ。神社をあとにしてマンションにつくと、吉上さんとことのリードをつけたフォレットのグッドちゃんとまたすれ出くわした。神社でたむろしていたせいで、うまくタイミングが重なったらしい。グッドちゃんは匂いで勘づいたのか、すぐにヒロシの入ったソフトケージに近付いて鼻を近づけた、と思いきや突然グッドちゃんがヒロシの耳にケージの網越しに噛みついたのだ。ヒロシも狂ったように、グッドちゃんを引っ搔き、その反撃とばかりにまたグッドちゃんはヒロシの耳を噛む。私が二匹を離すまでには高速でそれが何度か繰り返されてしまった。ヒロシはほとんど無傷だったがグッドちゃんの鼻元は血で滲んで、私は吉上さんの家に次の日お見舞いのフェレットフードを持っていく羽目になった。幸いにも傷は浅かったし、「仕掛けたのはウチの子からですから」という事で、一件落着したが、なんだかヒロシの様子が最近おかしい。
僕はグッドとあの時、一瞬のテレパシーで心中をしようと言った。グッドはあなたとなら、と言ってくれた。グッドは不思議な奴で死をなんとも思っていなかったらしい。僕の意志に全てを託した。しかし、グッドの噛む力は僕を殺すまでに至らないほどの弱さだった。ケージ越しにそんなことができるはずもなかったのに、死にたいという思いが先行してまったようだ。僕はそれから飼い主の望むようにも動かなくなった。用意された食事を拒否し、こたつの中で一日中丸くなった。このままこの肉体が滅びてしまえばいい。
とても心配になった。何かの病気か、私は食欲不振でググったところ猫にも「鬱病」がある事が分かった。グッドちゃんに攻撃されたせいだろうか。私はこたつの中からヒロシの身体を掴んで、引っ搔かれながらも、動物病院に車を走らせた。
どこに連れていく。
ヒロシはしばらく食事を拒否していたせいか、ケージの中でもぐったりしていた。私はヒロシにつけられた腕の傷の痛みを忘れるほどにヒロシのことが心配だった。車を止めて、病院に入ると若い女性の獣医さんが案内してくれた。
僕の肌に冷たいものがあたった。腕。人間のか細い腕。そんなもの噛み千切って二度と僕なんか愛させないようにしてやる。思い切ってその腕に噛みついた。
「こらっ」
いつもの飼い主の怒った声。単純な奴め。
「大丈夫ですよ。ヒロシ君、噛みたいだけ噛みなさい。何も怖くないわ。あなたも私のことを怖がる必要はないのよ」
と僕の背中を噛まれていないもう片方の手で撫でたのは獣医だった。僕は獣医の目を見て「僕は病気なんかじゃないんだ」と訴えた。獣医は「安心してください。病気ではありません」と言った。そして「ただ、この子……」と拳を顎につけて考える仕草をとった。
この子?
「まるで猫じゃないみたいですね」
そうだ。君は分かってくれるんだね。君となら本当の愛を語れそうだ。
「そうなんです。いつも人間みたいな動きをするんです」
「そういう意味でもありますが、もっとこう世界を見抜いて、諦観している目をしているような……すいません医者がそんな非科学的な事を」
「いえ、鬱病とかってありえるんでしょうか?」
「ありえます。そうかもしれません」
違う。それは違う。おい。俺は鬱病なんかじゃない。
「今日一日だけこちらで預からせて頂けます? ちょっと様子をみたいので」
「はい」
「それではお会計の方はお席に戻ってお待ちください」
出ていく飼い主の後ろ姿を見た後、「鬱病なんかじゃない」と睨む僕に獣医は、「これでやっと二人きりね」とテレパシーで言った。僕は獣医の柔らかい胸に飛び込んだ。
(了)