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幸福の種   作者: とうり
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究極の幸福

その扉の前を通った時、買い物袋を手にした一人の主婦はくんと鼻をならした。続いて首を傾げ、しばし扉を見つめ続けた。

 同じ扉が等間隔に一列に並んでいるアパートの通路。

 自分の部屋も同じなのだが、古ぼけた鉄製の扉で、少々がたつき薄汚れていてペンキが所々剥げていた。

この部屋の住人は父と娘であったがもう、二日ばかり姿を見ていない。

毎朝、中学生の娘とは顔を合わす。ゴミを出す時、登校する前の彼女は挨拶をしていってくれる。父親の暴力のせいか、どことなく翳があったが礼儀正しい子だ。しかしこの二日間は見かけない。

くんと主婦は再び鼻をならし眉をひそめた。

 生臭いような臭気が漏れている。生ゴミを玄関にでも置いているのだろうか。まさかとすぐさま首を振った。

 スーパーの買い物袋を持ち直し、扉をノックをしようかと一歩、歩み寄った。更に臭気がきつくなった。部屋から漏れてくる臭気に理屈では説明できない厭な感覚が心に渦巻いた。胸騒ぎというのだろうか。

 扉を叩くのはやめて、一歩、後方に退いた。アパートの住人の一人として管理人に相談することを選択した。



部屋に入った佐々木直也はこみ上げてくる吐き気を抑えるのに必死であった。 胃の中の内容物が喉許にまでせり上がってきて思わず被害者から目を逸らした。

凄惨な殺害現場であった。まだ若い直也だけではなく年輩の刑事達も蒼ざめて口許をハンカチで覆っていた。


血飛沫が部屋の壁に飛び散っていた。

 閉めきった室内には蝿のたかった肉塊によって腐敗臭が充満していた。

 直也はもう一度、被害者に目をやった。

 敷いてある布団はぐっしょりと血で濡れ、その上には人間というよりは、肉の塊と云う方がふさわしいものが横たわってきた。


 被害者は大谷忠。失業中のこの部屋の住人であった。


布団の上の身体は肉切り包丁でメッタ刺しにされて、大きく裂かれた腹部から赤黒いミミズのような臓腑が引きずり出されていた。

 抉り出された眼球は、畳の上で踏みつぶされ、黄色味のかかったその液体に蝿がたかっている。切り落とされた耳は投げつけられたのか壁の下に落ちていた。

室内から異臭がするというアパートの管理人からの通報であったが、これほどまで酷い事件であるとは思わなかった。


到着した鑑識係や写真係も室内に足を踏み入れたとたん、やはり一瞬ひるみ、顔を背けたが、すぐに冴えない顔色をしながらも、手慣れた態度でそれぞれの仕事に取りかかった。

年輩の刑事達も、窓を開け、換気をして臭気の薄まったところで、それぞれの仕事にとりかかり始めた。直也も同じように仕事に取りかかろうとしたが遺体に近づいたとたん、胃の中の内容物が逆流してきたので、すぐさま扉の方へ駆け寄った。夏という季節がら腐敗が早いため死臭が鼻をついた。

 写真係のシャッターを切る音とせわしなく動き回る気配を背後に感じていた時、


「情けないな。新米」


 舌打ちをしながら年輩の刑事が直也は睨んだ。野崎茂である。薄くなった頭をしていつもねちねちと嫌みを直也に云う。


(自分だって蒼い顔してたくせに…)


 思った言葉を心の中に呑み込み、


「申し訳ありません」


殊勝なセリフを口にした。


相手は直属の上司である。新人の直也にとって厭でも一緒にいなければいけない相手なのである。心の中で悪態をつき、気心の知れた友人達に酒を呑みながら愚痴を云うしか今の彼にはストレスを発散するすべはなかった。


「娘が()ったんだと」


鑑識が黙々と現場検証をしている傍らで他の刑事達が会話をしている。


「最近は中学生の犯罪が増えているからな。数日前まで元気に学校へ行っていたらしいだが、クラスメート達もこんな凶行に及ぶ兆候はなかったと証言している」


「突然、キレたんですかね」


他の刑事達も首を傾げる。



「よほど恨みが蓄積されてなければ、これほどのことは…」

「相当、ため込んでいたと思ったんですが」


「しかし、いきなりこれほどの殺意が芽生える(、、、、 )ものなのですかね?」



(これほどの殺意が急に芽生える(、、、、 )ものなのだろうか)




直也は玄関でアパートの住人達の事情聴衆をしながら考えた。

大谷由美子という少女が犯人とは思えなかった。住人達は証言では父親に暴力をふるわれていたらしいが、笑顔をたやすことはなかったらしい。近所では父親と違いずいぶん評判の良い少女だったらしい。犯行を自供しているにしても、未成年の上が虐待されていたならば刑事責任能力は皆無に等しいだろう。


 このアパートに直也達が到着した時、救急車に乗せられる由美子の姿を見た。ぼさぼさに乱れた髪の毛に返り血がびっしょりと染み込んだ破れたパジャマを身につけていた。


とろんとした焦点が合っていない目をしていた。独りで何やらぶつぶつ呟いていたかと思うと突然、けらけらと調子のはずれた笑い声を上げた。

どうみても正気の人間とは思えなかった。



狂気に支配された精神(こころ )(が元に戻ることがあるのかどうかは分からないが、ずっとあのままの方が幸福かもしれない。


(…しかし)


直也はぼんやりと考えた。


(もし、本当にあの子が殺ったのなら、憎い相手をあそこまで殺ったら気持ちいいかもしれない)


慌てて、頭に浮かんだ考えを振り落とし手帳を閉じた。



 ふと、直也は視線を感じた。


きょろきょろと辺りを見渡すとアパートの階段に下に一人の女性がいるのが目に入った。

黒いワンピースに身を包んだその若い女性はこちらをじっと見上げている。


(あの女性か)


新聞記者ではなさそうだ。だが、事件の関係者だろう。



女性が視界に入り、目を合わせた途端、目に映るものすべてが、ゆらりと揺れ奇妙に失調した気がした。そして気がつくと、すい寄せられるかのように直也の身体は階段を下っていった。

 


「あの、身内の方ですか?」


女性の目の前に立ち、直也はそう尋ねた。


 美しい女性であった。彫りが深く申し分がないくらいバランスよく整った顔であった。ただ、その女性の周りの空間だけ翳りがあるような気がした。


女性は直也の問いに答えず、無言で直也を見つめる。直也の心の隅々まで見すかしたような瞳であった。女性に見つめられると、その大きな漆黒の瞳に吸い込まれそうになり直也は慌てて目を逸らした。


「あの、身内の方では?」


 そう問いながらも直也は奇妙な感覚を覚えた。この場所だけ、空気が違うような気がしたのだ。

 女性が事件の関係者でないなら、自分がこの場に居る必要もないため直也は立ち去ろうとした瞬間、


「あんな上司の下で働くのは大変ね」

脳裏に響くような声だった。


(な、何故?)


直也は呆然とした。初対面であるのに何をこの女性は知っているというのか。

直也のそんな表情が面白かったの女性は口許に笑みを浮かべた。そして、


「いいものをあげるわ」


 そう云って一粒の種を差し出した。


「これは『幸福の種』といって、人の不快な気持ちを吸い取ってくれるものなの。使えばいつでも楽しく仕事ができるわ」


 頭がおかしいのだろう。馬鹿げた話である。そんな都合の良いものがこの世に存在するわけがない。しかし理屈で判っていても何故か女性の言葉は真実味を帯びていた。女性の持つ特有の雰囲気の為か、それとも頭の中に直接語りかけてくるような不思議な声の為か。



「嘘と思うならためしてみて」


気がつくと直也はその種を受け取っていた。掌の中のそれは、かつて見た事がないくらい歪な形状をしていた。大きさは直径一センチ程のもので、不自然に陥没している部分もあれば隆起している部分もあり、瘡蓋のような所々に付着しているいた。灰色と黒が入り交じったような色でおよそ綺麗とは云いがたいものであった。


「おい、佐々木!」


突如、名前を呼ばれ振り返るとアパートの階段の上から野崎が不機嫌そうな面もちで睨んでいた。直也は思わず心の中で顔をしかめた。


「何をしているんだ! 新米のくせにそんな所でさぼるんじゃない!」


これから始まる嫌味の言葉に頭が痛い。


「すみません、じゃあ」


くるりときびす を返すとすぐにまた振り返った。握っていた種の事を思い出したからだ。


「あの、これ…」


女性は首を横に振った。


「あげるわ」

「でも…」


掌の種と真意のわからない女性の顔を交互に見つめる直也に再び背後から野崎の濁声が飛んできた。


「一人で何をしてるんだ? 早く来い!」


(えっ? 一人って?)


「早く戻ったほうがいいわ」


その言葉で直也は駆け出した。どうしようかと思いながら結局、種を返しそびれてしまった。

 

(変なものをもらってしまったな)


ズボンの後ろポケットに仕方がないので種を入れた。



階段の上では上司の野崎に必要以上の叱責を受ける直也の姿があった。

女性の周囲に闇がざわざわと集まり更に色濃くなり始めた。

女性は口角を上げて笑った。






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