発芽
帰宅すると由美子はベランダの植木鉢の前にいつもの様にしゃがみ込んだ。土は程良く湿っていて今にも芽が出てきてもおかしくないような様子であった。
(どんな花が咲くのかな)
『幸福の種』なら『幸福の花』なのだろうか。胸をときめかせ指先で土をつついた。
(早く、芽が出てこないかな)
自分は幸福になれる、という確信に近いものを由美子は感じていた。
発芽する前の種の状態ででもこれほどの力が有るならば、花が咲けばきっと世界で一番の幸福を得られるのではないかとすら思えた。
真夏の空を振り仰いだ。先ほどまでは燦々と輝いていた太陽が流れてきた灰色の雲に隠れ始めていた。湿気を含んだなま暖かい風が由美子の制服から露出した肌にまとわりついてきた。
(雨、降りそうだな)
空は見る見る間に石炭色に汚れ始めた。
雨音がうるさいくらいになってきた。深夜をまわってから降り出した雨は雷を伴い、激しく地面や屋根を打ちつけ叩き続ける。強い風がアルミサッシを激しく揺さぶる。
布団の中で由美子は、轟く雷に耳を押さえ震えていた。
その時、闇の中の空気がざわざわと動いた。隣りの部屋とを仕切る襖が開いたのだ。忠の部屋との襖である。
黒い影は一歩ずつ、由美子の方へ近づいてくる。
襖の滑りが悪いため普段なら開くと分かるのだが布団の中で耳を塞いでいたため由美子は全く気がつかなかった。
布団をはぎ取られた瞬間、初めて侵入者の存在に気がついた。
驚き、顔を上げた。義父の姿を僅かな明かりの下で由美子の目は捉えた。
「お、お義父さん?」
ひきつった声音でそう云ったが返事はなかった。
忠は酷い酩酊状態で帰宅し、そのまま眠ってしまったので今夜は暴力はないだろうと思っていたが、それは間違いであった。黄ばんだTシャツと下着姿の忠は由美子の身体に馬乗りになった。
「雷、恐いだろう? お義父さんが一緒にいてやるからな」
のしかかってくる身体の重みが苦しく、酒臭い息づかいが不快感を更に増した。
喉がひきつり満足に出ない声で必死に叫んだ。上体をよじり、反らせ、どうにかして忠から逃れようとしたが力の差は歴然としていた。
「誰が面倒をみてやっていると思うんだ?」
歪んだ不快な声が耳に入ってきた。
かつて経験して失われた不快感、嫌悪感が『初めてのもの』として、由美子の全身を強張らせた。
忌まわしさが由美子の心と身体を喰い荒らしていった。恐怖、悪、嫌悪などあらゆる負のエネルギーが由美子の身体から初めてのものとして溢れ始めた。
唇がわななく。身体中の震えが止まらない。由美子は自分の手首を凝視した。細いそれは忠に押さえつけられたため赤く痣になっていた。
いつもの様に由美子は台所からコップに水を汲みベランダに出た。横なぐりの雨が激しく全身を打ち叩く。
(出ていってやる。中学を卒業したら、こんな家、出ていってやる!)
エアコンの室外機の影にある植木鉢にいつものように水をかけた。水などかけなくても鉢はびしょびしょに濡れていたがそれでも由美子は水をかけた。こぼれ落ちる涙と共に。
すると───。
いつものように心が軽くなった。
ごろごろと轟く雷の音も激しい雨の音も目の前の現実すべてが遠のいていくような気がした。
(お義父さんも可哀想な人なんだ。大好きなお母さんが死んでしまって…)
全身を柔らかい羽毛に包まれていくような気がした。
(家を出たらだめよね。ご飯も食べれなくなるし)
唇に笑みを浮かべ、とろんとした表情で植木鉢を見つめた。
(『幸福の種』の種はいつ、私を幸福にしてくれるの? 早く芽を出してよ)
その瞬間、じゅくじゅくの土が僅かに盛り上がった。思わず由美子は目を見張った。鉢の中心部分から何かが芽生えようとしているのだ。
(やっと、芽が出て来るんだ!)
高鳴る胸を抑え、発芽の瞬間に目を見張った。少しずつ隆起していく。
そして泥の中から何かが出てきたと思った
瞬間───。
由美子は胸に痛みを覚えた。
鈍痛。
心臓部分に直接おもりでもつけられたかのように苦しさがこみ上げてきた。
呼吸も出来ず腰を折ると、雨で水浸しになっているびコンクリートの上に倒れ込んだ。パジャマの胸許を掴み、苦痛に顔を歪めたまま、のたうちまわる。
胸の痛みはやがて全身にも広がり、更に苦痛は激増した。
頭上から様々な形の石が降ってきてそれが由美子の身体の中に吸い込まれていくような気がした。石は皆、歪な形をして、それらは間をあけず、どんどん遠慮なしに降ってくる。
由美子の身体はどんどんそれを吸収していき、その度に重みが心臓にかかり痛みが増す。
(ダメ、もう支えきれない)
限界を越え苦痛に喘ぎ由美子は意識が遠のいていくのを感じた。
あまりにもエネルギー は強すぎて重たくて精神はそれを支えることが出来なかった。
そして――――。




