初めての虐待
義父の忠が帰宅したのはそれから二時間後で、由美子は居間でうたた寝をしていた。
玄関の扉が、ガチャンと大きな音を立てて閉まり、今度は居間のふすまが開くと、伸びた髭も満足に剃らず、薄汚れたシャツを着た忠が姿を現した。
「…酒、あるか?」
と低い声でそう云った。ふらついた足どりで台所に入っていく。由美子も後に続く。いつもの事だが酔っているらしい
(お酒ばっかり呑んで)
無言で冷蔵庫から缶ビールを取り出すとテーブルの上に置いた。忠は椅子に座り呑み始めると、
「今日の飯は何だ?」
「カレー」
由美子が鍋を温めようとすると、
「そんなものは、酒のつまみにならないだろう?」
ふいに目の前に何かが飛んできた。由美子は小さく悲鳴を上げ身体を竦めたが、次の瞬間には服がびっしょりと濡れていた。足許に転がった缶から薄茶色の液体が流れだした。まだ中身の充分入っているビールであった。
「なんかつまみになるような物はないのか? まったく、もう」
ちっ、と舌打ちうちすると忠は充血した目で由美子を睨むと缶ビールを再度、冷蔵庫から取り出すように大声で指示をした。
由美子の中に初めて不快感と恐怖が生じた。毎日の様に起こる出来事であっても今晩はそれが苦痛に感じられたのだ。
「早くしろ!」
テーブルをその大きな手で叩く。
床の上に流れていくビール。忠から発散されるアルコール臭が更に恐怖をあおった。
自分でも膝が震えているのが分かった。
(どうして…)
いくらでも沸き上がってくるこれらの感情は
――――今夜、初めて体験するものだった。
再び缶ビールを冷蔵庫から取り出しテーブルに置いた。何かつまみになる物はと、ほとんど思考の止まった頭で考え、食器棚から皿を取り出そうとしたが、手をすべらせてしまった。
ガシャン、と皿が砕けた。
その大きな音に思わず肩を竦めた。すぐに床にしゃがみ込み、散らばった破片を集め始めた。
先に破片を片づけなければ怪我をして危険だと判断したからであった。
「痛っ!」
鋭い痛みを感じたと思った瞬間、人差し指の先の皮膚が裂けて、うっすらと血が滲んでいた。目に自然と涙が浮かんだ。
指先を口にくわえながら、片手で一生懸命に割れた皿を集めていると床に黒い影が落ちていることに初めて気が付いた。
厭な予感がした。
おそるおそる顔を少し上げると目の前に灰色のズボンをはいた忠の足があった。頭上を見上げると不機嫌そうな忠と目が合った。
何か灰色のものが目の前にやってきたかと思った瞬間には胸に強い衝撃が加わっていた。身体の重心が崩れ、大きく後方に転がった。由美子の小さな身体は忠に蹴られて、吹っ飛んだのだ。炊事台に頭をぶつけ床の上に倒れ込んだ。
(あ…)
衝撃のために肺が痙攣を起こしたかのように大きく震え、鋭い痛みを伴う咳が唇の切れた口から吐き出された。
「もう少しマシな物を用意しておけよ」
床に散らばった皿の破片と流れるビールが由美子の涙でかすんだ目に映った。うずくまり、肩で苦しそうに息をしていると耳に忠の笑い声が聞こえた。
何か云っていたが意識がはっきりせず、よく分からなかった。そして冷蔵庫が開く音がした。がちゃがちゃと引っかきまわす音がしたかと思うと忠の気配が消えた。居間に隣接している六畳の自分の部屋に入っていったようだ。
しばらくの間、由美子は胸を押さえ床にうずくまっていた。血の流れる指の痛みは全く感じられなかった。
***
重たい闇がベランダを覆っていた。
忠のいびきを確認した由美子は深夜に『幸福の種』の効力を頼りベランダに出た。
先ほどまで布団に身体を横たえていたが、眠ることなどできなかった。必死で涙をこらえ、漏れる嗚咽を押さえ続けた。そして忠が眠るのを待ち続けた。
由美子はコンクリート上にしゃがみ込むとエアコンの室外機の横から隠しておいた植木鉢を取り出した。
目をつぶると瞼の裏に数時間前の暴行がはっきりと浮かび上がる。蹴られた胸部の痛みはだいぶ楽になった。おそらく骨などには異常はなかったのだろう。
傷テープを巻いた指先で土に軽く触れてみた。心が軽くなった気がした。
今度は台所から持ってきた水を夕方にやったとの同じように少しずつかけてみた。
心の中にわだかまるっていた苦痛が何かに溶かされ、薄められていくような感覚が生じた。
由美子は更にコップを傾けた。水はびちゃびちゃと土に染み込んでいく。
不快な感情が薄められ分離され、身体の中から排除されていくのと同時に忠への鋭く尖った感情も丸みを帯びていった。
植木鉢の中の土はどろどろになり、水をかけた際に跳ね返った泥が飛び散り、縁や由美子のパジャマのズボンにも付着した。
由美子を包む周りの闇が色濃くなった。それに伴い、強張っていた由美子の顔つきが穏やかになり、わなないていた唇に笑みが浮かぶ。
(お義父さんの気持ちも理解してあげなくちゃね)
忠の失業も元は不景気のせいである。忠は被害者なのだ。仕事が見つからず、いらいらする気持ちも家族なら理解してやらなければいけない。
( 八つ当たりも大目にみてあげなくちゃね)
完全に消え去った忠への不満や怒りに対して、何故、自分はそんな感情をいだいたのかとさえ由美子は思った。
――――これが『幸福の種』の効力なのだ。
少しの間、植木鉢を見つめていたがやがて立ち上がると部屋の中に入っていった。
来る日も来る日も同じ様な事が繰り返された。由美子は、頬を殴られたり、膝蹴りを喰らわされたり拳で殴られた。
『幸福の種』のおかげで由美子の笑顔が翳ることはなかった。肉体的な傷跡は痣などの形で残るが痛み自体は消失した。そして危害を加え続ける忠への怒りや憎しみなどの感情も同様であった。




