0-4章
三度死にかけ、二度、無理だ死んだと思った。
だが生きている。
魔族が崇める精霊獣か天使庁が戴く天使かしらないが、超越者の加護があるとしか思えない強運だと思う。
実際は長年の修練の結果だったのだろう。
幻獣の攻撃は主に爪によるものであり、爪の一部でも触れると特殊な精霊の働きにより生きとし生けるものは腐食する。だがその腐食攻撃は聖鑓に対しては影響を与えない。つまり爪による攻撃は聖鑓で弾くことができ、攻撃を弾く技は爪であっても剣であっても変わりはなく、天使庁でサハエルが叩き込まれた槍術がものを言ったのだった。幻獣の攻撃は六本の足のうち前の二本によるものであり双剣に見立てれば充分対応できた。
ジーメオンと幻獣が戦っているのを見ている間に、幻獣の攻撃パターンを知らず知らず把握していたのも良かった。起こりの動作で幻獣の攻撃を読むことができるようになっており、心理的な余裕もできた。ジーメオンが幻獣と戦い始めてすぐにサハエルがこの状況になったのであればこれほどうまくはいかなかっただろう。
サハエルが死にかけたのは爪ではなく主に牙による攻撃だった。
ジーメオン相手には使わなかったが、両手の爪による攻撃を器用に捌くサハエルに業を煮やしたのか、幻獣は何度か隙を突いて噛みついてきたのだ。ギリギリで服を噛み切られたのが三度、それから何とか躱したものの体勢を崩して、のしかかられそうになったことが二度。のしかかられれば後はかみ殺されるしかなかっただろう。それを救ったのは二度ともジーメオンだった。最大の魔術を使っている最中に別の魔術を使う余裕はなかったのか蹴りと体当たりによってサハエルを絶体絶命の窮地から救ってくれた。
だからまだ生きている。服はボロボロで擦り傷もむしろないところを探す方が難しいくらいだが、それでも生きている。
そしてその時が来た。
「……待たせたな。ようやく完成した」
永劫に続くかと思われた一刻が過ぎたのだった。
「ジルアルゴス」
そしてジーメオンの声が聞こえた直後、大地の裂け目の底、城ほどの幻獣が縦横に暴れてもなお余裕があるほど広いこの空間がもやで満ちた。
それは正しくはもやではなかった。
ほんのりと光る何かが空間全体にぎっしりと等間隔で並んでいた。
精霊が起動したのだ、とサハエルも分かった。
しかも振り向いてもそのもやは存在した。
世界を精霊が埋め尽くしていた。
サハエルは驚愕する。
ジーメオンはどれほどの精霊を支配しているというのか。
魔術は支配した精霊によって起こされる奇跡である。
支配した精霊の数が多ければ多いほど魔術の規模は大きくなる。魔術の複雑さは精霊支配の深度によって変わるが、純粋な規模は精霊の数なのだ。炎弾の魔術も精霊を一体しか支配できない第一位階の魔術師が放てば石つぶて程度の大きさしかない。だが、第二位階の魔術師が十体の精霊を支配して放てば、大砲並みの破壊力を持つようになる。
だから強力な魔術師は広大な平面を支配する。
グラム城の城壁を破壊した炎弾の一撃は、二キロ先からでも見えるほどの精霊の起動円を要したという。
平面でさえ起動円を大きくすれば強力な魔法を放てるのだ。立体になったら支配する精霊の数は倍々ゲームで増えていく。
それほどの精霊を支配すれば、どれほどのことができるのか。
サハエルは思わずつばを飲み込んだ。
幻獣もこの光景に驚いたように動きを止めていた。危機を察したのか、獣のように毛を逆立てて丸まる。
精霊はだいたい五センチ四方に一体存在する。サハエルは右手に聖鑓を構えたまま、左手を起動した精霊に近づけた。熱を感じない不思議な光だ。ふと違和感を覚えた。いつもより光量が多い気がする。いや、気のせいではない。確かに多い。
「……どういうこと?」
答えはない。
精霊が変化した。
発砲紋を形成する。
ジーメオンの魔術の実力を示す精緻な形。そしてその形が前後左右の発砲紋と複雑に組み合わさり、巨大で立体的な魔術紋様となった。
空中に光の要塞が誕生した。
ジーメオンが自ら最大の魔術と呼ぶにふさわしい偉容だった。
「……すごい」
戦いを忘れ、サハエルは見とれる。
荒野で見た空一杯の星空よりも美しかった。
頭上を埋め尽くす星の一つが瞬いた。
そう思った瞬間、明滅が急速に増え、そして光の要塞の中に雷光が走り始める。
あたかも世界に亀裂が入っていくような凄まじい密度の雷撃が前後左右に走る。にもかかわらず要塞からエネルギーは漏れず、ただ一カ所に収束していく。
音も熱も無い光の狂宴。
そして、一点に集まったエネルギーが、爆発直前の超新星のように収縮を始めた。
世界に穴が開いた。
エネルギーが虚無に変換され、うねるように走り出す。
すべてを消し去る虚無は空間さえも飲み込み消し去りながら幻獣に向かって迫った。
幻獣は一歩も動かず大きく口を開いた。
口腔内に赤い光が見えた。
その赤い光が一気に膨れあがり、口腔から赤い煙となって吹き出した。
その光の爆発の中から、一条の熱線が、虚無へではなくジーメオンへでもなく、サハエルへ向かって伸びた。
幻獣は死を覚悟してせめて道連れに確実に倒せる弱い奴を、そう思ったのかも知れない。
光の狂宴を見上げて突っ立っていたサハエルは瞬間で間に合わないことを悟った。
最後の最後で失敗したと思ったが、それはそれで構わなかった。
ジーメオンが狙われるよりよほどいい。
自分は戦いではほとんど役に立たなかった。
だが、そんな自分でも弾よけぐらいにはなれたのだ。
サハエルはすべてを受け入れて目を閉じ、そして次の瞬間、横から衝撃を受けた。蹴り飛ばされたのだ。
倒れあっけにとられるサハエルの横を抜け、赤い熱線はサハエルを蹴り飛ばした相手ーージーメオンの頭蓋を貫いた。
赤い血しぶきが舞った。
熱線の熱量によってジーメオンの頭部の四分の三が瞬間で蒸発する。
頭部を失ったジーメオンは驚いたように数秒突っ立っていたが、そのまま力を失い頽れた。
それを呆然とサハエルは見ていた。
なにも考えられなかった。
どれほどの間そうしていたのか。
ハッと気づき、振り返る。
ジーメオンを殺した幻獣は消えていた。
先ほどまで幻獣がいた地面まで球状にえぐれている。
ジーメオンの放った虚無に飲み込まれたのだろう。
サハエルは思わず胸をなで下ろした。
あらゆるものを飲み込んだ虚無もまた消えていた。ジーメオンが死んだためなのか、吸収したものが飽和したためなのかは分からなかった。
いずれにせよ、確実なことはひとつ。
ジーメオンは幻獣に勝利したのだ。
ジーメオンは目的は果たしたのだ。
涙が出そうになった。
ジーメオンはいい奴だった。
魔族だったが、人類の中でもまれなほど高潔で優しく、そしてサハエルにとって命の恩人だった。
にもかかわらず報いることもできない。
絶望がサハエルを暗闇に閉じ込める。
それを破ったのは、
「えーっと、ここはどこです? なんでそんな格好をしてるんです??」
思わず振り返った。
ジーメオンがいた。
頭もちゃんと付いていた。
再生したらしい。
しゃがみ込んでこちらを当惑したように見上げている。
声にならない歓喜の叫びがサハエルの喉からほとばしった。
いても立ってもいられずサハエルはジーメオンに駆け寄り、抱きしめた。
もみくちゃにされたジーメオンが当惑の声を上げた。
「ちょ、ちょっと!」
構わず抱きしめ続ける。
今度こそ本当に涙が出た。
嬉しすぎて。
「良かった!! ほんとうに良かった……あなたが生きていてくれて……」
五分ほどもそうしていたサハエルは満足して身体を離し、ジーメオンの顔を撫でながら、
「そうだよね。再生の魔術がかかっているんだもの。頭だって再生するわよね。尻尾しか再生しないトカゲよりも立派よ」
「えーっとあの……」
「なに? 幻獣なら倒したわよ。あなたの魔術だけど」
「人違いじゃないでしょうか?」
サハエルははじめて眉をひそめた。
「……何を言っているの?」
「俺……私ははらぐちたいちというんですけど……誰かと間違えていません? 私、あなたのこと知らないんですけど」
サハエルは唖然としてジーメオンーーはらぐちたいちと名乗るジーメオンを見た。