0-1章
サハエルはため息をついた。
吐いた息がかすかに白い。
前に垂れてきた長い前髪をかき上げ、目の前のまるで切れ目のような大地の裂け目から目をそらし、そろそろ冬ね、と思いながらサハエルは辺りを見回した。
冬になれば魔獣の活動が活発になる。一方、農作物の収穫が終わっているため兵士の徴集も可能になっているが、その武力は魔獣に対してばかりではなく、同じ人間に対しても向けられるのが常だった。
つまり冬とは争いの季節なのだった。
今、サハエルがいるのは冬が近づく岩ばかりの荒野だった。荒野の北に見えるディガスラ山脈は、人類の領域と魔族の領域を隔てる天然の壁だ。
そのディガスラ山脈の山腹まで白く雪が積もっていた。ディガスラ山脈は飛行系の魔獣の棲息地となっており、空気が薄くなるほどの高さとあいまって、人類も魔族も寄せ付けないためまだ謎が多い場所だった。
唯一、ディガスラ山脈の西側にある深い谷のみが、この辺りでかろうじて人類と魔族の領域を行き来できるルートだと認識されていたが、そこもまた長らく魔獣の棲み家であり、今も頻繁に魔獣が現れ、通行人を襲う。
そのため、人類と魔族の交流はもっぱら地下の大空洞で行われている。地下回廊と呼ばれるその広大な空間は五百年ほど前に偶然発見され、そしてそれと同時に魔族と人類の闘争が始まったのだった。
つまり魔獣の危険があるこんな荒野を行き来する人間はよほどの変わり者か、魔獣を狩るための特殊な一団、あるいは強力な護衛を雇った大規模隊商に限られるのである。
だが、サハエルたちはわずか三人でここにいた。
サハエルは自分の連れである二人の方を見た。
二人は離れた場所で激しく言い合いをしていた。正確には言い合いではなく、一方が一方を一方的に罵っていた。罵っている側は魔族の子ども。罵られている側は黒いフード付きの外套を着たひどく背が高い魔族だった。
サハエルは魔族と旅をしているのである。
サハエル自身は人間だ。
もっとも彼女もただの人間ではなかった。天使庁が承認する『勇者』の一人であり、鑓を与えられ、『鑓の勇者』と呼ばれているほどの存在なのである。
つまり人類の最高戦力の一人。実際、サハエル一人で一国の軍隊に匹敵する。『勇者』の戦闘モードになれば闘気で覆われたその身体は人類のあらゆる武器では傷つけることはできず、二十四時間活動を続けることが可能で、その一撃は要塞さえ粉砕する。つまり生ける戦術兵器である。
サハエルは見た目はうら若い乙女だった。年齢は十八歳で、背は百六十センチほど。すらりとした体型で黙っていればかなりの美少女だ。金髪は後ろで結わえてディゴスの尻尾のように垂らしているが、その髪型は適当でオシャレの気配はかけらも無い。放っておいて伸びた髪を邪魔だから結んでいるだけだ。着ている服も戦闘用の軽量鎧で、金属部分も戦闘時に負った細かい傷と旅塵のせいでかつての輝きは見えない。背中に背負っているのは少女が扱うには不釣り合いな長大で手元にさまざまな機構が付いた鑓。腰には闘気を供給する虚ろ釜をぶら下げている。つまり乙女であるが、着飾った乙女ではなく、戦士そのものだった。
そんなサハエルが二人の魔族に向ける視線は家族に向ける視線に近い。
半年。わずか半年で、サハエルは二人にそのような感情を抱くようになっていた。
最初はそんな自分に違和感を覚えていたサハエルだったが、今ではすっかりそんな気持ちは忘れていた。
それほどの絆が三人の間には生まれていた。
サハエルは冬が近づき枯れかけた草を食んでいる自分の騎乗用の四足獣ーーディゴスを見た後、もう一度魔族に視線を戻し、
「いい加減にしないとダメだよー」
と声をかけた。
サハエルの言葉が聞こえたのか、言い争いはいったん終わった。背が高い方が小走りにやってきて、
「申し訳ない。もう少しかかりそうだ」
「いいけど……そろそろ行かなくちゃだと思うわよ?」
「すまぬ」
背が高い魔族は律儀に頭を下げて、再び魔族の子どもの方に戻る。
それをサハエルは顔をしかめて見送った。
顔をしかめているが、「まぁ、仕方がないかなぁ」と思っている自分がいる。視線に呆れはあっても嫌悪はない。まだ幼い子どもを説得しようとする父親を生暖かい目で見る長女のような気持ちである。
そう自覚をし、サハエルは幸せを感じる。
こんな気持ちになった相手は今までいない。
幼少期に才能を認められて天使庁に引き取られたあとは、ずっと訓練と祈りの日々だったからだ。
サハエルにとってはじめて家族と言える二人の魔族のうちの一人ーー背の高い魔族の名前はジーメオン。骨と皮ばかりの身体だが、実際は恐るべき戦闘力を持った魔族だった。
当然と言えば当然だった。彼は今回の非常事態に英雄機関が派遣してきた魔族なのだ。弱いわけがなかった。
もともとサハエルとジーメオンの旅は、双王の誓いの遵守を実効化するための機関ーー英雄機関によって命じられたものであった。
英雄機関は双王の誓いの遵守の強制以外にもう一つ役目があった。
それが魔族と人類双方にとって害を為す存在が現れた際の協力、である。
その条件に当てはまる敵ーー幻獣が発生したために、人類代表として『鑓の勇者』サハエルが、そして魔族代表としてジーメオンが召喚され、幻獣討伐の旅に出ることになったのである。
天使庁の秘蔵っ子であったサハエルは、これまで英雄機関の仕事を命じられたことはなく、魔族と行動を共にする機会はなかった。感情のままに抵抗したが、『将来、人類と魔族が再び争うことになった際に魔族の最高戦力を把握しておく必要がある。だが戦闘力は近い能力を持ったものでなければ正確な把握は難しい』と言われ文句を言えなくなった。
表面的に納得はしたものの当然のことながら魔族と二人で旅することに最初のうちはひたすら嫌悪があった。
爬虫類に似た緑色の肌と尖った耳を持つジーメオンは見た目も人間とはほど遠く、武器は持たず魔術で戦う魔術師であり、そもそも魔術を使えない人類であるサハエルにとっては理解の範疇を超えていると感じたのだ。
だがその嫌悪はわずか数日でどこかに消えてなくなり、気がつくとどちらかと言えば好意に似た感情を抱くようになっていた。
そして今や家族に対するような愛情を感じている。
それほどジーメオンは憎めない相手だった。
高潔で思いやりがあり、そして強い。
困った者がいたらそれが誰であっても見過ごせない。子どもが逃げ出しそうな顔で、子ども好きでもあった。
その結果が今の事態だ、とサハエルは子どもに一方的に罵られているジーメオンをどこか優しい気持ちを抱きながら、それでも呆れつつ見る。
半年前、幻獣の痕跡を探して旅に出たばかりの頃、まだサハエルがジーメオンのことを信じ切れてなかった頃、魔獣に襲われた旅の商人の一家がいた。ジーメオンは彼らの微かな悲鳴を聞きつけ、なにも聞こえなかったサハエルに一言告げて、文字通り飛んで行った。だが飛行魔術を使用したジーメオンさえ一歩及ばず、背中に致命傷を負った瀕死の母親とその母親に抱きしめられて奇跡的に無傷だった幼児以外は、魔族の商人の一行は息絶えていた。魔獣はジーメオンの魔術によりあっさりと駆除されたが、母親は懸命の治療もむなしく、幼児のことをジーメオンに頼み、死んだ。
「この子をお願いします」と。
サハエルならばそんな頼みは聞き入れないし、そもそも助けにも行かない。一攫千金を狙ったのか知らないが荒野をこの少数で渡ろうとするのが愚かなのだ。愚かな行為はサハエルの考える正義と反する行動だ。
だが、ジーメオンは預けられた幼児を、自らの責任として育て、幻獣を探す合間に教育も施した。
半年の間、二人旅の予定は三人旅となった。
魔族の成長は人間とは異なり、わずか半年で拾われた幼児は少女になった。
言葉も覚え、魔術も使えるようになり、剣の扱い方はサハエルが指導することになった。
やむを得ずはじめてみれば子育ては楽しかった。
ジーメオンがまだ名を持っていなかったらしい少女に与えた名前はベネディクト。魔族の言葉で幸運を意味する。
真面目な父親役がジーメオン、しっかり者の長女役がサハエル、そしてまだ幼く世話が必要な子どもがベネディクト、という分担で旅の間、家族のように過ごした。
サハエルは本当の家族は知らない。戦災孤児だからである。物心ついたときには天使庁にいて、そこでひたすら人類の最高戦力として鍛えられ続けた。
だからこそ今回の旅の間、ひとときの偽りの家族のぬくもりに浸り、幸福を感じていたのかも知れなかった。
そしてようやく幻獣の発生場所が分かり、戦闘には危険があるためベネディクトと別れなくてはならない、という段になり、ベネディクトが激怒し、別れを拒んだ。サハエルもまた別れに胸に痛みを覚えていた。もっともベネディクトとは違い、サハエルは既に自覚も責任もある立場だ。だから納得はした。サハエル達の能力に及ばないベネディクトが危険なのは間違いないからだった。
だがベネディクトが納得する様子はなかった。
今もジーメオンにくってかかっていた。
「なぜ!? なぜだ!? なぜ我を捨てる!!?」
「……」
「師匠にとって我とはその程度のものだったのか!?
「……それは違う。だがお前を連れて行く余裕はない。そもそも私とて幻獣と闘って生き残る確証は無いのだ」
「ならば我もともに死ぬ!」
「それは許さぬ。そなたの母は死の間際、私にそなたのことを頼んだ。頼まれた以上、そなたを生かすのは私の責務である」
「なら師匠も死んじゃだめだろ! それは我の母の頼みを願いを踏みにじったことにならないのか!?」
「……」
「いや、そもそも我にとって顔も覚えてない母親などどうでもいいのだ! 我にとって師匠がこの世界なのだ! だから生きるときはともに生き、死ぬときはともに死ぬと決めたのだ!」
「……」
「それなのに師匠は我を捨てるのか!?」
「捨てるわけではない。余裕がないのだ。分かってくれないか?」
「分からない! なぜ我を捨てるのだ!」
先ほどから同じ繰り返しだった。
しばらくそうしていたがらちがあかないため、サハエルが自分も説得に参加しようと思い、歩き出したその時だった。
ジーメオンが何かをベネディクトに押しつけた。
突然の師匠の行動に、ベネディクトはあっけにとられてそれを受け取った。
サハエルも立ち止まって首をかしげる。
ジーメオンの行動の意味が分からなかったからだ。
ジーメオンがゆっくりと右手を上げた。指輪が二つはめられたほっそりとした人差し指が天を向く。
「バインド」
ジーメオンが告げ、次の瞬間、精霊が起動した。精霊は紐状の発砲紋に変化し、一匹の光の蛇となる。
魔術は空間に遍く存在する精霊を支配し、それを発砲紋という「奇跡を起こすシステム」に変形させ、あり得ないことを起こす技術である。
発砲紋が弾けたように光った。
「グッ!?」
ベネディクトが声を上げた。
精霊が放ったエネルギーの蛇がベネディクトを拘束したのだ。
ジーメオンが続けて二つ目の魔術を使った。
「アズボーション」
そして、それは起こった。
空いっぱいに巨大な紋様が浮かんだ。巨大な紋様もまた、小さく複雑な発砲紋によって構成されており、あたかも職人が織った豪華な織物が空いっぱいに広げられたような不思議な光景だった。すべて精霊で構成された芸術。精霊を変形させ、それで紋様を描く魔族の技。
サハエルも驚きで空を見上げていた。
ジーメオンと半年ともに行動していたサハエルもまた初めて見る大規模な魔術だったからだ。
異変に気づいたらしいベネディクトもまた空を見て、
「よせ! やめろ!!!!!」
怒りの叫びを上げる。
「私が娘よ。健やかにあれ」
「我は絶対に師匠を許さないぞ!!!!」
その言葉が最後まで言い切らないうちに、発砲紋から光が降り注ぎ、次の瞬間、ベネディクトの姿がわずかな焦げ臭さとともにかき消えた。
誰もいなくなった空間をしばらくじっと見ていたジーメオンが、首を振った後こちらに戻ってくる。
「申し訳ない。時間を取らせた」
「……何をやったの? ベネディクトはどうしたの?」
サハエルはその言葉をひねり出すのがやっとだった。
ジーメオンはサハエルの横を通り過ぎ、大地の裂け目を覗き込みながら答えた。
「ベネディクトを魔術で安全な地に送った」
「安全な地?」
「ああ。間違いない。我が友人たちが良きようにしてくれるはずだ」
「そう。うん。しょうがないと思う。っていうかあなたがやったことは正しいわ。ベネを危険にさらすわけにはいかないもの」
「うむ……」
サハエルはジーメオンと会話をしながらも、先ほど見たジーメオンの魔術が頭から離れなかった。
これまで見たことがないし聞いたこともない魔術だった。
ジーメオンは魔族であり、当然、魔術を使う。そして人類にとって謎に満ちている魔術を、人類は魔族の戦いである双王戦争の間に、ひたすら研究し続けた。使われた魔術をリスト化し系統だて、あるいは魔族の捕虜を拷問し、あらゆる記録を取った。敵の戦力を調べるのは当然のことだからだ。魔術を使えないにもかかわらず、魔術学なる学問と魔術博士なる職業も生まれたほどだ。
サハエルもその調査結果を学ばされている。
だが、その中に先ほどの魔術はなかった。
つまり人類は魔族の戦力把握がまったくできてないことを意味する。
魔族の持つ魔術はどれくらいあるのか。魔術でいったい何ができるのか。
そしてあのアズポーションという魔術を使われたら、自分は対応できるのか。
ジーメオンの説明を聞く限り、アズポーションというのは送還の魔術であろう。
しかし簡単に攻撃に転用できるのである。例えば送還先を任意に設定できるのであれば、いきなり大海獣が棲む海の底に送ってしまえば、どんな相手であっても無力化できる。
ジーメオンは信頼できる。それはサハエルにとって動かすことができない事実だ。
一方、魔族は謎に満ちている。300年戦ってもなおその全容は杳として知れない。
今さら、当初の目的である『将来、人類と魔族が再び争うことになった際に魔族の最高戦力を把握しておく必要』について思い出したサハエルは、暗然とした気持ちになりながら、もう一度、大地の裂け目を見ながらぼんやりと立ったまま動かなくなったジーメオンを見た。
そして気づいた。
「……もしかして泣いているの?」
ジーメオンは振り返り、震える声で
「……別れとは辛いものだ」
ジーメオンが裂け目の底を覗いていたのは泣き顔を見られたくなかったからかも知れなかった。
「そうよね……」
サハエルもいつもうるさく纏わり付いていたベネディクトがいないことに今さらのように気づいた。
また二人に戻ってしまった、と思った。
突然、強い寂しさがサハエルを襲い、目頭が熱くなる。
末っ子がいなくなり、父親と長女、という感じだ。
同じように沈黙していたジーメオンがつぶやくように
「もしかしたらベネディクトもともに連れて行く方法があったかも知れないと思う。そうしたら幻獣と私たちの戦いの中、何かを学べたかも知れないのだ。それを思いつけないほど愚かな私が悔しい……」
「無理よ。それに危険なのは間違いないもの。ベネディクトのためには仕方がないわ」
「……うむ。そうだな」
そう頷いたジーメオンが黙って立ったままこちらを見ているので、
「どうしたの? なんか言いたいことでもあるの?」
「……幻獣は危険だ。そなたも帰った方がいい。送り先に準備が必要だから、魔術で送り届けることはできないが……」
ジーメオンの言葉に思わずカッとなった。
「ふざけないで! あたしは『鑓の勇者』よ? 幻獣を倒すためにここにいるの! きみもいっしょでしょ!」
ジーメオンはサハエルの語気の強さに驚いたのか瞬間目を開き、それから頭を下げた。
「……そうか。そなたもまた英雄機関に選ばれし者か。失礼なことを言ってしまったようだな。申し訳ない。この通り謝罪する」
ジーメオンの殊勝な態度にサハエルの怒りは急速に消える。
「分かってくれればいいけど……」
言いながらそっぽを向くが、既に怒りはなかった。ジーメオンがそもそも悪意で言ってないことはサハエルが一番分かっている。
「二人に戻っちゃったわね」
「そうだな……」
「ほら。涙を拭いて」
そう言って清潔な布を押しつける。
受け取ったジーメオンは、律儀に頭を下げた。
「すまぬ」
それからジーメオンは顔を上げた。
「では行こうか。我々の目的を果たしに」
「ええ」
改めてサハエルはジーメオンの横、フレイヤ荒野の大地にできた裂け目の前に立った。
恐ろしいほどの深さだけは伝わってくる。そしてその奥から気配が漂ってくる。地下回廊の脇にある無数の切れ目の一つだ。この奥に幻獣がいるのは間違いない。幻獣は星の悪意から生まれる最凶最悪の害獣だ。あらゆる生命あるものを憎み、破壊するためだけに生まれる悪夢。危険度で言えば最高である。竜や神と同レベルの超常の存在だ。
サハエルはもう一度ひんやりとした空気が流れてくる裂け目を覗き込んだあと、一度裂け目に背を向けて草を食んでいる騎獣に近づいた。
リバと名付けたディゴスは主人の気配に顔を上げる。
旅を始めるのに当たって購入した騎獣だった。ずいぶん過酷な旅であったが辛抱強く付いてきてくれた。
サハエルはリバの鞍を外し、尻を叩いた。
「あたしを乗せる仕事は終わり。あとは好きに生きなさい」
そして、
「これでもうあとは幻獣を倒すだけ」
サハエルはそう言って、ジーメオンを待たず、裂け目をくだりはじめた。