献情屋の始まり
互いに黙り込んだまま、ぼくは彼女の三歩後ろを付いて歩いた。陽はすっかり頭上にまで上り、気怠い眠気もどこかへと吹き飛んでいた。……ずっと彼女の言葉が頭の中から離れずにいた。
あの言葉は果たして彼女の本心なんだろうか?一度も感情的になんてなったことのなかった彼女が、突然あんな発言をするとは思わなかったのだ。
献情の力を持っていたのがぼくじゃなくて彼女でよかった。……客観的に見てみたらそれは誰だってそう思うだろう、ぼくだって思うんだから当然だ。ただぼくが気にかかっているのは、そこじゃない。本当に心からの本音だったのだとしたら、“どうしてそれっぽい顔をしなかった?”
頭の悪い考えなのだけれど、でも誰だって感情的になるときは少しくらいは情けない顔をするものだと思う。それなのに彼女は眉一つ動かさず、まるでなんでもないふうに話してみせた。だからあの言葉が本当に彼女の本心だったのかどうかをうやむやにさせてしまい、いつまでもぼくの頭をむしゃくしゃさせ続けているのだ。
彼女の揺れるスカートの裾を見つめながらそうして悶々と考えているうちに、いつのまにか住宅街を抜けていた。木々が両脇に一直線に生えているその真ん中の遊歩道を通って行く。落ち葉の絨毯をくしゃくしゃと踏む音が二人分。
ここまで来るとさすがに未知の道だった。昨日も同じようなことを考えた気がするが、シャレではなく本当に。産まれて二十年この街に住んではいたものの、いつも必要最低限の道しか通っていなかったのでこんなところに遊歩道があることすら知らなかったのだ。最近できたのか、それとも昔から存在していたのか。
彼女は一度も振り返ることなく慣れた足取りで進んで行く。はぐれたらまずいので、こっそり一歩分だけ距離を詰めてまるで金魚のフンみたいにして着いていく。我ながら情けない。
しばらく進むと、右手側に細いわき道が延びていた。砂利でできた緩やかな坂になっており、毎日誰かしらが通っているうちに自然とできた道という感じに近かった。彼女はそこをすいすいと登っていく。やがて、十字架が張り付いた屋根が見えてきた。
わき道を抜けきると、彼女の足はぴたりと止まった。
「……教会?」
「うん」
小さな教会がそこにあった。玄関の前には黒い軽自動車が停まっていて、隣には補助輪の付いたミニチュアみたいに小さい自転車が転がっていた。それから、色とりどりのコスモスを咲かせた花壇にシャベルやジョウロが突き刺さっている。生活感がこれ見よがしに溢れていた。
彼女は臆することなく花壇の間を抜け、教会の扉を開けた。中に広がっていたのはもちろん礼拝堂。いくつもの長椅子が綺麗に並んでおり、その奥に聖母と思わしき美麗な女性をかたどったステンドガラス。すぐ足元には、一人分のスリッパが並べて置いてあった。脇の壁には掲示板が掛かっていて、たくさんの貼り紙があった。ぱっと見た感じはよくわからないけれど、たぶん週報や告知なのだろう。
二人で靴を脱いでいると、向こうから足音が近づいてきた。
「お待ちしていました」
しわがれた声だった。長椅子の間を歩いて来たのは、背の低い白髪のおじいさんだった。牧師さんだろうか?にしては和柄の袢纏を着ていて、まるで今こたつから出てきましたよと言わんばかりの平和で愉快な格好だ。おじいさんは細めた目で彼女を見上げてくる。
「献情屋現オーナー、涼子と申します」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「うむ。そっくりですね」
安らかな表情で微笑むおじいさん。……そっくり?
それから、おじいさんは隣のぼくにも目を移した。
「そちらの方は?」
「口答えする番犬」と彼女。「いつ番犬になったよ!?てかもう人じゃなくなってるし!」
怒ってるのか……やっぱりさっきのこと怒ってるのか……。
「元気がよろしいことで」
ほっほっと独特な笑い方をしてぼくらの気まずい空気を薄めてくれた。
「すみませんね、涼子さん一人で来るかと思って一足しか用意してなかったよ」
おじいさんさんはそう言って、掲示板の隣のスリッパの詰まった棚に歩み寄った。
「あ、大丈夫です。構わないでください」
おじいさんよりも先に行って自分の分を抜き取ると、おじいさんは目を細めて笑った。「優しい番犬さんだね」。だから番犬じゃねえ。
スリッパに足を突っ込んだところでようやく気づいた。
「あれ、面会の相手ってこのおじいさん?」
他には誰も見当たらないし、奥の扉からは誰も出てくる気配がなさそうだった。
「そう。この方はかつての献情屋のお客様よ」
「かつて?」
「初代のお客様」
「初代って……」
目を見張るぼくに、おじいさんはにっこりと笑いかけてきた。
「涼子さんのおじい様にあたる方に献情をお願いしました」
先頭の長椅子の端におじいさんと彼女が並んで座り、ぼくはその真ん前にパイプ椅子を持ってきて向かい合って座った。
声の響く静かな教会で、彼女は献情屋の始まりを語ってくれた。
「献情屋は祖父からわたしへと受け継がれてきた。祖父は自分の持っているその力に気づいたとき、わたしが今一番大事にしていることから最もかけ離れている行為を始めた。──それは、感情抽出をしたのち、その感情を売りさばくというもの」
「売る?」
「“売情”とでも言っておく。道行く人の感情を抽出し、その感情をまた道行く人に高値で売る」
ぼくは目を見開いて驚愕した。
「残忍なんてもんじゃないぞそれ……」
お客様の意思を大事にしている彼女と比べると、たしかに正反対の行動だ。
「それにその、売ったところでその感情はどうするの?普通なら自分で自分の中には入れられないよね」
「それもまた祖父の力でやってた。更に値を張って」
感情を売るのにも金をとり、献情をするのにも金をとる。二重の利益。
「たとえば築様から抽出した“誰かを想う感情”。どれくらいの値がつくと思う?」
値?そんなの……つけられるわけがない。感情に重さも大小もつけちゃだめだとつい昨日思い知ったばかりだったから尚更だ。そんな俯いたぼくの想いを汲み取ったのか、彼女は声のトーンを落とした。
「いいよ、あなたなりに言ってみて」
ただのたとえ話だと、罪にはならないと。意を決して、ぼくは初めに思いついた数字をそっと口に出してみた。
「……五十万、とか」
「その十倍よ」
「五百!?」
脚と目玉が飛び出た。向かいに座っていたおじいさんがびっくりしてぼくを見ていたので、慌てて座り直して自粛する。すみません……。それにしても。
「そんなに高いのに買う人なんているわけ……?」
「いたわ。もう既に持っている感情だとしても、一般人にとってはその区別がつかない。必ずどこかが違うと、今まで味わったことのない初めての感情だと、錯覚して満足してしまう。そうして多種多様な感情を吸収すればするほど快感が増していく。麻薬と同じようなものよ」
いい例えだと思った。赤の他人の感情なんて普通に考えたら要らないものだというのに、金を払ってまでだなんてよっぽどのことだ。
「そんなにまでして感情って欲しいものなのかな?」
心からの疑問だった。ないほうがいい、失くしたほうがいい、それがぼくが献情屋に転がり込むことになった一番の理由だったから。
「そこが問題なの」ぼくの問いに、彼女は頷いて返した。
「溢れんばかりの感情を食らって溜め込んで……そうしたらどうなると思う?」
「どうなるって、頭おかしくなるだろ」
「うん、人じゃなくなる。そうして自分たちだけの憧れを築き上げ、神を創り上げ、神になろうとした」
ぶっ飛んだ理屈だった。彼女は腿の上で重ねていた手に目を落として続けた。
「人間は本当に弱い存在よ。不安や悲壮を失くすために目に見えないものを創り上げて信仰し、自らを強める。ううん、強めた気でいる。それこそが弱さだとも知らずに」
人間にとって一番恐いのは“目に見えないもの”だ。だから逆にそれに一番縋りたくなる。
「浅はかな考えよ。いくらどれほどの感情を知り得たとしても強くなれるわけじゃない。全知全能にも神にもなれるわけじゃない。本当に人の上に立てるわけじゃない。ただの愚かな理想主義者の末路」
彼女のきりきりとした高い声が礼拝堂に響き渡った。なんというか、一種の信仰宗教に近いと思った。彼らにとっては感情そのものが神に等しいから……。
「そんな人たちのさらに上に君臨したのが、もちろん抜いている張本人」
……いや、違う。感情を自由自在に操る彼女の祖父こそが本当の神なのだ。
「抜いて与える、抜いて与える……そんな行為を繰り返しているうちに、それが人によって良いことだと錯覚した。当然よ、同時に大金が手元に増えるのだから」
「自分に酔ってる……」
彼女は目を瞑って頷いた。
「そんなときに、自ら感情を抜いてほしいと祖父に申し出たのが……羽瀬様」
羽瀬様、と呼ばれたおじいさんは笑った。ずっと黙ってぼくたちが話しているのを見守っていた羽瀬さんは、なにかを思い出すように天井から釣り下がっているシャンデリアを見上げて、そのまま話し始めた。
「私の息子は生まれつき失感情症だった。まだ幼いというのに笑った顔を一度も見たことがなかった。一度でもいいから見せてほしいと、妻といつも願っていたよ。そんなときに、感情を抜いて与える力を持つ人がいることを噂で聞いたのだ」
ぼくは何度も頷いて羽瀬さんの話に聞き入った。
「迷うことなどなかった、いくらでも払うつもりだった。息子のためならいくらでも……」
愛する身内を想ってこその献情ならば、当然金銭感覚も狂うだろう。申し出たほうも、受け答えるほうもだ。だから次に彼女の発した言葉が信じられなかった。
「でも祖父は一銭も貰わなかった。──初めてだった。誰かのために自ら感情を失くすというそんな意思に感激を受けたの。自分はそういう人たちの橋渡しになれるんじゃないかと、祖父はそのとき初めて思い、感じた」
そのとき、突然ぼくの背後でゆっくりと扉の開く音が聞こえた。振り返って見ると、園児服に身を包んだ五歳くらいの男の子がぱたぱたと向こうから出てきた。笑顔で羽瀬さんの元へと駆けて来ては膝の上に乗って抱きつく。羽瀬さんはその子の頭を愛おしそうに撫でながら、ぼくと彼女を見た。
「おかげさまで失感情症は遺伝することもなく、今ではこうして孫もいます。本当に感謝しています」
お客様の意思を尊重し、金を取らず──自ら神の座を下りた。
「それが……献情屋の始まりだった?」
彼女は、隣で健気に笑うお孫さんを見ながら頷いた。
「感情の売買を辞め、望む者だけにその力を使うようになった。そうしてわたしに受け継がれた」
“感情”というものを酔狂し支配されていた者を屈服させたのは、また別の一人の者による強き“感情”だった。
一つの感情の物語によって献情屋は作られたんだ。彼女が献情屋を続ける理由も、その物語を尊重しているからだったりするんだろうか……?
語り終えた彼女は、重ねていた手を解いてぼくを見た。
「ここまでが余談よ」
「余談?……ああ、そっかそうだった」
彼女がここに来た本当の目的は別にある。
「羽瀬さんに面会、だったんだよね。その理由って?」
「見ていてわからない?」
質問に質問で返ってきた。彼女が視線を向ける先──羽瀬さんは膝の上で必死になにかを話しているお孫さんにうんうんと頷き返していた。そして顔を上げると、ぼくらを見て笑った。……笑った?
「え、な、なんでっ?たしか……」
当たり前のことだが、当たり前じゃない話を聞かされたばかりだ。羽瀬さんは失感情症の息子さんに“笑う感情”を与えたはず。それならば、“笑う感情”を失くした羽瀬さんはもう笑うことができないはずなのだ。……なのに、どうして笑っている……?答えを求めるように彼女に目を向けると、彼女は変わらずに済ました顔をしていた。
「わたしが面会に来た目的はこれ」
「どういうこと……?」
「先月から、祖父が受け持ったお客様……つまり祖父が感情を抽出したはずの人々の、その感情が戻りつつあるという連絡があとを絶たないの」
彼女の言った言葉を理解するのにしばらく時間がかかった。
「……戻って、る?え、抜いたのに……?」
ここでようやく彼女の目が曇りがかった。かすかにだけれど、彼女も困惑しているのだろうか。
「行き当たりばったりで売情していたときの人々とは連絡のつきようがないからわからないけれど……献情屋として祖父が受け持った今も生存しているお客様のうち、約八割からはそういう連絡がうちにきてる」
「羽瀬さんもそのうちの一人だから確かめに来たってことか」
彼女は頷いた。……つまり、どういうことだ?自然に戻ってるってこと?でも現に、目の前にいる羽瀬さんはにこにこしているんだ。わけがわからない。
「息子が結婚したときも、この子が生まれたときも、私はずっと笑えなかった。みんなが笑っているのを見て、どんな感情を持ってそんな表情や声を見せているのか不思議でたまらなかった。でも……ついこの間、ふと笑えたんです。妻も泣いて喜んで、それがまた嬉しくて笑いました」
「きっかけとかってあったんですか?」
「うーんとね……なにか夢を見たんだ。どんなもんだったかは忘れたけど……でもそう、たしか涼子さんが夢に出てきた。それは覚えている。今日初めて会ったというのに、初めてじゃない気がしたんだよ。あとはいつもどおりに過ごしていただけだったよ」
羽瀬さんの返答を聞き、彼女は腕を組んで黙りこくった。たまたま彼女が夢に出てきただけで戻るもんなのか?予知夢や明晰夢とはまた違うんだぞ。
「なにかが起こってる……んだろうな、たぶん」
「あなたの言葉で言うと、“魔法が解けた”ことになる」
「言っておくけど一番最初に“魔法”って言い出したのは涼子だからね?」
「おねえさんマホー使えるの?」
幼い声が響いた。羽瀬さんのお孫さんは、隣の彼女をまん丸い目で見上げていた。ぼくらは一瞬だけ見つめ合って、それから彼女はこくりと頷いてみせた。
「でも、あなたのおじいさんに魔法をかけたのはわたしのおじいさんよ。わたしじゃない」
「だったらぼくにもかけてよ。おねえさんのマホーすごいよ、ぼくもジィみたいにわらいたい」
きらきらと期待に満ちた瞳を向けられた彼女は、怯むことなくじっとその大きな瞳で見つめ返していた。「これこれ」と羽瀬さんがお孫さんの肩をたたいて宥める。
……と、ぼくの背後でまた扉の開く音がした。出てきた若い男女は、ぼくらと目が合うとお辞儀をした。彼女が立ち上がったのに気づき、ぼくも慌てて立ち上がり頭を下げ返す。
お孫さんは羽瀬さんの腿の上から下りると、一目散にその二人の元へと駆けていって抱きついた。どこにでもある穏やかで温かい幸せな家庭の画。羽瀬さんも、三人の様子を見て幸せそうに笑った。一時失くした大事な笑顔は、今確かにここにあった。平和が戻ったのだ。
……けれど、ふと隣の彼女を見てぼくは初めて彼女に対して感じていた違和感の正体に気づき、背筋がゾッと凍った。言葉につまり、心臓がうるさいくらいに跳ね始めた。彼女はそんなぼくを見て不思議そうに首を傾げてきたが、ぼくは彼女の顔から目を離せなかった。焦燥、恐怖、そんなものがぼくの胸を騒ぎ立てた。
「なにかわかり次第、また連絡をさせていただきます。羽瀬様、今日はありがとうございました」
そんなぼくに構わず、彼女は羽瀬さんとその家族に頭を下げた
「またいつでも来てください」
手を振り、別れの挨拶を交わす中、ぼくは一人立ち尽くしたまま動けなかった。
──そう、ようやく気づいたんだ。
誰にだってあるもの。ただ彼女が無頓着でポーカーフェイスなだけだと思っていた。けれど、普通ならばかすかに頬の緩むその瞬間も、彼女は一切表情を崩さなかった。
……彼女の笑った姿を、ぼくは一度も見たことがない。