お裾分け
日も沈みかけ、窓から見える景色が赤く染まりつつあった。同時に寒さも増してきて、ぼくは暖炉の前から離れられずにいた。この家が寒いんじゃなく、たぶん今年の冬が異様に早く寒いだけた気がする。猫は炬燵で丸くなるもいいところだった。炬燵じゃないが。
彼女はというと、カウンター席で変わらず分厚い本を読んでいた。時おり手元にある花柄のティーカップに口をつける。紅茶だろうが、さっき淹れていたときに仄かに鼻を抜けていくようなクセのある香りがしていたから、おそらくなにかの植物も入っているのだろう。
膝を抱えてゆらゆらと揺れながら、彼女のページをめくる仕草をずっと眺めて続けていた。不思議と見ていて飽きないのだ。
お客様がいないときはいつもこんな穏やかな時間を一人で過ごしているんだろうか?寂しいと同情するよりも先に、彼女らしいなと思ってしまった。……と、次のページをめくったと同時に彼女は顔を上げた。壁に掛かっている時計を見やると、紫色の押し花の栞を挟んで本を閉じた。古臭い紙の匂いの風がこちらまで届いてきたような気がして目を瞬いた。椅子から立ち上がると、ぽけーっとアホみたいに今まで自分のことを見つめていた相手を見た。
「あなた、家に帰らなくていいの?」
どんな文句を言い出すかと思えばこれで、思わず背筋が伸びた。
「あ、ああ、うん。いや……」
自分でも呆れるほどにどもって、曖昧に濁してしまった。帰る必要性はない、かと言ってここに長居するのも彼女にとっては迷惑な話だろう。いくら客(でもあり清掃員でもある)とは言え、異性であり今日知り合ったばかりの仲なのだ。あまり気は進まないが、彼女のことを思えばここは潔く帰るのが一番だろう……。素直に礼を言って出て行こうと重い腰を持ち上げたときだった。
「いいわ。来て」
彼女はそれだけ言って、くるりと部屋の端の階段を上って行ってしまった。──え?今なんて?来てって言った……?ついて行けばよろしいんでしょうか……?
暖炉から離れると、一気に末端から冷えてきた。身を縮ませながら急ぎ足で階段を踏み込むと、足の裏からじんじんと冷たさが伝わってきた。
二階は短い廊下があり、扉が両脇に二つ、奥に一つあるだけ。築さんを運ぶときにも来たが、左手側が彼女の寝室だ。
その向かい、右手側の扉が開いていて中の電気も着いていた。入ってみると、そこは狭い四畳の和室だった。テーブルがあり、電気ストーブがあり、端っこに座布団が重なっているだけのシンプルな部屋。先に中にいた彼女は窓のカーテンを閉めて振り返った。
「この部屋は元々使ってないの。押し入れに布団が入ってるから好きにして」
え?
「泊まっていいってこと……?」
彼女の意外な対応に思わず目を丸くする。
「行く場所ないんでしょ?」
「うん、まあ……」
「助手を野宿なんてさせられないわ」
「まって清掃員どこいったの。てかいつから助手に格上げされてたの」
彼女は首を傾げた。
「タダで泊まるつもり?」
「いやいいけどさ!掃除でもおつかいでもなんでもしますよ!」
やけになったぼくを見て、彼女は一瞬目を見張って驚いた。そのあとでこくりと頷く
「戻って」
ぼくを廊下に追い出すと、電気を消して自分も廊下へと出てきて扉を閉めた。一階の店に戻ってくるなり、彼女はあるものをぼくに突き出してきた。
「これ」
彼女が今朝外出した際に使っていたカゴバッグだった。被せてあった布をめくると、中には丁寧に個包装されたパウンドケーキがいくつも入っていた。築さんが一切れ食べただけだったし当然余るわけだ。で、これがなんなわけ?
「ご近所様に分けてきて」
「え?近所?」
「ここに来る途中に通ってきたでしょ?一本道」
「うん」
温かそうな民家が向かい合って並んでいた。
「わたしの名前を言えば、すぐにわかるはずだから」
本当におつかいだった。清掃員だったら掃除をするだけで済んでいたかもしれないが、助手ならば彼女の補佐もしていかなければならない。タダで宿泊させてもらうんだしここは贅沢は言っちゃいけないだろう。しぶしぶ頷く。
「わかったよ、行ってくる」
ひんやりと肌に触れる冬の空気。寒さに震え、コートの襟元を絞め直す。ぼくこんなに寒いの苦手だったかな……、それともやっぱり今年の冬がやけに寒いだけなのか。
少々歩くと、小道が続き両脇に街灯が並んでいるのが見えてくる。一番手前の家の呼び鈴を鳴らすと、優しそうなおばあさんが出てきた。夕飯の香りが漂ってきてぼくの鼻と腹をくすぐった。
「あらこんばんは。どうしたの?」
おばあさんはぼくのことを上から下までいって、また上まで見た。
「あ、あの、ええと……。そこの家から、ケーキのお裾分けに……」
たどたどしくお伽の家を指差して言うと、おばあさんはぱっと顔を明るくさせた。
「涼子ちゃんから?まあいつも嬉しいわ。ちょっと待っててね」
個包装のケーキを一つ渡すと、おばあさんはぱたぱたと中へと引っ込んで行った。名前出しただけで本当に通じたよ、あの女まじで何者だ。
数秒後に戻ってきたおばあさんは、じゃがいもがごろごろと詰まったレジ袋をぼくの手に握らせてきた。思わず「げっ」と顔を引き攣らせる。
「はいこれ涼子ちゃんに。芽が出そうだから早めに食べてって伝えてちょうだいね。それにしても彼氏がいたなんて聞いてないわ」
彼氏?
「ぼくそんなんじゃないんですけど……」
「またまた、とぼけちゃってー」
ひらひらと乙女のように手を振るおばあさん。いろいろと重い。
隣の家でも同じような扱いを受け、ホームベーカリーで焼いた食パンを丸々貰った。
向かいの家でも同じような扱いを受け、コスモスの花束を貰った。
献情屋に戻ったときには、へとへとのよろよろだった。ぼくの腕が二本しかないという状況を誰か考えてくれ。
「お疲れのようね」
エプロンをつけた彼女は、玄関にへばりこんだぼくを他人事のように見下ろした。その手にはフライ返し。さっきまではしなかった和食っぽいダシの香りが、かすかに店内に広がっているような気がした。
「誰のせいだと思ってるんだよ……」
彼女はぼくのすぐ真ん前にしゃがみ込むと、ぼくの手からコスモスの花束を抜き取り、いろんな角度から眺めていた。
「何件回ってきたの?」
「十件。しかも全部からなにかしら貰うんだから、荷車でも押していけばよかった」
「うちにそんなハイテクなものなんてないわ」
「作れよ」
「むり」
彼女は立ち上がり、他のいただきものも運び始めた。
「いつもこうなの?」
「うん。昔からそう」
てっきり近所とは関わりを絶っているもんだとばかり思っていた。この家だけ少しだけ離れているし、やけに目立つし。だが全くの真逆で、彼女はどうやら大好評らしい。でもそんな彼女が献情屋なんて摩訶不思議な店を開いていることを、当然あの人たちは知らないんだろう。……というか。
「……もしかしてこうなることを見越してぼくに頼んだ?」
「わたし腕が二本しかないから」
「ぼくだって二本しかねえよ!」
やっぱり荷車作れよ、手伝うからさあ。
……それでも少しだけ安心したんだ。人当たりの良い優しい近所に囲まれ、彼女がひとりきりじゃないという事実に。
水を張った花瓶にコスモスをつける彼女を見ながら、自然と笑みがこぼれた。