唯一無二の重さ
彼が出て行ってから一時間後、築さんの迎えが来た。黒いクーペから出てきたのは黒髪の白衣の青年……いや、見ようによっては二十代後半っぽい。そんな細身な医者は、外に出てきたぼくらを見ると爽やかに笑ってみせた。
「おや、今日のお客様は幽体離脱でもしてるのかい?もう献情は済んでるんじゃなかった?」
幽体離脱?医者はぼくをまじまじと見てきた。
「この人はただの清掃員よ」
………けっきょくなにも言い返せない。ぐっと堪える。
「清掃員?へえ、珍しい。埃に弱そうな顔してるのにね」
「どこをどう見たらそう思ったんですか」
「なんとなくね。はたきで叩きながらぼーっとしてたり、箒に跨ってぼーっとしてたり」
「……それ清掃員勤まらないと思いますけど」
「あれ、本当に清掃員だったの?」
怒りに震えた拳を握り締める。……耐えろ耐えろ。医者はぼくを見ながら、わははっと愉快気に笑った。
「きみ面白いねえ。涼子こんな子どこで見つけてきたんだい」
「ここで見つけた」
「え?ここ?」
医者が首を傾げて地面を指差す。彼女も頷き返して地面を指差した。
「深夜にここにいたから」
「なんだって?もしかしてスト」「おいちょっと待て!誤解です誤解」
彼女を庇うように背に回した医者に、ぼくは慌てて抗議する。「たしかに深夜にここにいたのは間違いないですけど!でも店のことも彼女のこともなにも知らなかったわけでっ、それでっ……」
「なに熱くなってるの?」
医者の後ろで彼女が首を傾げていた。こいつ……!
「あっはっは、気に入った!ごめんよ、からかっただけだ。ちゃんとわかってるよ」
ぽんぽんと肩を叩いてくる。……なんなんだこの人。じっとりとした目を向けてみるが、変わらず、けらけらと笑っているだけだった。
「あ、涼子。後ろに差し入れ詰んであるから貰って行ってね」
思い出したように振り向く。彼女はかすかに眉を寄せたあと、素直に車の後ろに回って行った。
「ところできみ、名前は?」
顔を合わせてくる。黙っていれば爽やかな青年なのに、どうしてこう中身はひん曲がっているのだ。
「蒼です」
「私は久慈だ。もう何年も前から献情屋のお客さんを預かって面倒を診ているよ。言わば献情屋の専属医師みたいなものだね」
差し出された手を握り返す。医者らしく細長く固い手だった。
「預かるって、家には返さないんですか?」
「もちろん返すよ。でも感情抽出を仕立てのときは精神的に不安定な状態の人も度々いてね、ご家族に許可を得てから預かっているよ。逆に自分から戻ってくる人もいたりしてね、どうしても不安になるんだろうね」
「でも感情抽出をした記憶がないんでしょ?」
「うん、ないよ。だから私は献情屋のことをお客さんに話してもいいんじゃないかとは思うんだけどね、涼子が許さないからね」
苦笑し、熱心に差し入れを物色している彼女の横顔を見た。お客様の今後のことは一切責任をとらないと言っていた彼女。
「まああの差し入れはお客さんから涼子宛てのものなんだけどね」
「え?お客様は彼女の存在を忘れるんじゃ……?」
「それは抽出する側、自らの意思で献情屋へと赴いたお客さんのほうだ。献情される側、つまり感情を受け取る側のほうのお客さんは大半が彼女の存在を知っているんだよ」
久慈さんの説明を聞いて、ぼくは納得した。
「……そうか、その受け取った感情には“献情屋に行って感情抽出をした意思や記憶”も入っているから、受け取る側は自然と彼女の存在を知ってしまう……」
久慈さんは頷いた。
「そう。それにいくらお客さんからの要望だとしても、感情を無理矢理受け渡すなんて無粋なことはできないだろう?こうこうこういう旨で献情させてもらいますってちゃんと断るんだ」
突然やってきた綺麗な女の子に、あなた宛の感情があるということを伝えられる。
「それ、受け取る側って辛くないですか……」
最初は驚いてなにがなんだかかもしれないが、献情屋の意味を知ってしまえば、その本質が移植に近いものだと知ってしまえば……ぼくだったら元の持ち主の意思なんて汲み取れずに逃げ出したくなるだろう。表情に出ていたのか、久慈さんがぼくを見ながらふっと笑った。
「蒼くんは優しいね」
そんな言葉を優しい目と声で言われる。
「そう、自分は欠落していた感情を手に入れられるけど、代わりに感情を失くした人がいる。つまり自分と同じようになった人がいる。その真実を知ってしまうのはたしかに酷だよ」
真実を知ってしまったお客様はどんな反応をするんだろう?逃げ出すだろうか?泣き出すだろうか?
「それでもみんな前へと進んでいくんだ。それは、こんな力を持ってしまった彼女へのせめてもの報いなのかもしれないね」
寂しそうに微笑んだ久慈さん。彼女の存在そのものが、お客様にとっては一番辛い真実なのかもしれないと思った。
「久慈」
車の後ろから彼女が顔を覗かせて呼んだ。それに手を上げて応える。
「はいはい、今運ぶよ」
白衣の裾をはためかせながら駆けて行った。
久慈さんは築さんを抱き上げて彼女の寝室から外へと運び出し、車の後部座席へと寝かせた。シートベルトと毛布をかけ、そのまま扉を閉める。ふうっと息を吐いた。
「軽いねえ」
「それ半分セクハラに聞こえるんですけど」
「あはは、やめてよ蒼くんちがうよ」
久慈さんは大袈裟に手を振って見せた。
「感情一つ失くなっただけなのにね、なんだか妙に軽く感じるんだ」
それは、築さんの中で一番大きな感情が失くなったからではないか……?まるで築さんにとって“誰かを想う感情”が重荷だったとでもいうように……なんてそんな考えが一瞬頭をよぎったことに嫌気がさした。ちがう、重荷なわけがない、誰かを想うことが重荷になんてなるわけがない。築さんの瞳に浮かんだあの綺麗な涙は本物だった、感情に重さなんてものがあってはいけないんだ。
頭を振りやり、窓ガラス越しの築さんの顔をしかと自分の目に焼き付ける。忘れちゃいけない。こんな世界が存在したということを。
「いつもありがとう」
突然背後から聞こえてきた礼の言葉に、ぼくはびっくりして振り向いた。今こいつ、ありがとうって言ったぞ……?だがその顔はありがとうの顔なんかじゃないのである。もちろん口調だってまるで感謝のこもっていない棒読みだった。だが、そんな彼女を見て久慈さんは笑った。
「なに?いつもかっこいいって?」「だれも言ってねえよそんなこと」「うわあ、蒼くん意外ときついねえ」
愉快気に笑った医者。
「たまには様子を見に来て欲しいね、先日結婚した患者がいたというのに」
「お客様の新しい人生にわたしの存在は必要ないわ」
「はいはい」
つっけんどんな彼女に呆れたように返事をし、久慈さんはぼくを見た。
「きみも彼女に予約をしたのかな?」
「え、よくわかりましたね」
「最初から顔にはっきり書いてあったよ、だれが清掃員だこらって」
けらけらと笑われる。わかってたならからかわないでくださいよ。
「予約と言っても仮ってとこです。見てから決めようかと」
「そうかい。でもその様子じゃあ、どうやら断りそうだね」
……え?……どうしてわかったんだ……。
そう、感情抽出をするかしないか中間で曖昧に揺れていたメーターは、彼女や築さんの一部始終を見ているうちに次第に“しない”のほうに大きく傾いていたのだ。
久慈さんは優しく微笑んで見せた。
「それでいいんだよ。どんなに醜くても汚くても殺してしまいたいと願っても、きみの中にしかない世界でただ一つしか存在しない感情なんだ。手放すのは惜しいと思うんだがね、私は」
「世界でただ一つ……」ぼくの中にしか存在しない感情。ぼくの中でしか生まれない感情。
「久慈。余計な小言吹き込まないで」
「はいはい」
彼女の鋭い指摘に、久慈さんはひらひらと手を振った。
「それじゃあ受け取ったよ」
爽やかにぼくらに笑いかけると、そのまま車に乗りってゆっくりと走らせて行った。車が平原を真っ直ぐに走り去っていくのを見送った頃、彼女は隣で言った。
「不安が消えないなら見舞いに行けばいいわ。ここからそう遠くはないから」
「考えておくよ」
そう答えると、彼女は髪をひるがえして先に中へと戻って行った。ぼくも、一度なにもない平原を見渡したあとで戻る。
「次のお客様は明後日の十二時」
「まだまだ先じゃないか」
靴を抜きながら指折り数える。明日は予約無しか。休みの日は彼女はなにをするんだろうか?というかぼくはなにをすればいいんだろうか。
「また掃除すればいい?」
「もういい。あなたがし足りないならどうぞお好きに」
「いやしないけど」誰がするか。
「それじゃあ、明日着いてくる?」
彼女が後ろに手を組んで振り向いた。
「どこに」
「面会」
……面会……?