感情抽出
感情の抽出には約一時間、人によっては半日かかるんだそう。築さんの場合はたったの三十分で済むそうだった。意外とすぐできるものらしくて驚いた。
築さんの“誰かを想う感情”の意思がとても強く居座っているために全く手がかからないんだそう。逆に、曖昧な意思のお客様の感情はまるで迷子そのものらしく抜くのが大変らしい。要は嘘はつけないってことだ。彼女には誰も彼もの感情の意思が読み取れる。
てっきり簡易の病室のような場所で行うのかと思ったが、「うちにそんな悪趣味な場所なんてないわ」と突っぱねられた。
彼女は麻酔で眠った築さんを椅子の一つに座らせた。というか、麻酔は悪趣味じゃないのかよ。
「倒れないように支えててあげて」
彼女はぼくにそう命ずると、一度暖簾の奥へと引っ込んだ。かっくりと垂れ下がった築さんの頭を優しく支えてやる。近くで見てわかったがひどい隈だった。化粧はしているものの顔色が悪い。そのせいもあってか、麻酔で眠っているだけのはずなのにまるでもう死んでいるかのような錯覚を覚えた。……死んでない死んでない。これから生きるんだ築さんは。
それにしてもどこかで見たことある顔なんだよな……どこでだったっけかな……。記憶の中の記憶を引っ張りだそうとするが、なかなかはっきりとは出てこない。うんうん唸っているあいだに彼女が戻ってきた。その手には、手のひらサイズの木箱。
「なにそれ」
開けて見せてくれた。かすかに漂う木の香り。中は空だった。
「受け渡しまで感情を保管しておく場所」
「普通の箱?」
「そう。なんにも手の加えられていない、邪念もない、天然素材のままの箱」
本当に“ただの木箱”としか言いようのないくらいただの木箱だった。彼女はその木箱を傍らのテーブルに置くと、築さんの瞳や首に手を当てて眠り具合を確かめた。
「このまんま抽出するの?」
「うん」
「なんかチューブとかそういうの通すのを想像してた」点滴みたいな感じで。
「化学療法じゃないの。言ったでしょ、わたしの力だって」
「だけどファンタジーじゃないんだからさあ。目に見えて出てきたりするわけ?」
睨まれた。
「いいから黙って見てて」
彼女の威圧に思わず口を引き結ぶ。たぶんぼくにできることは築さんの頭を支えてあげることだけだけれど、その分じっくりと間近で見ることができるだろう。
彼女は一度深呼吸をすると、築さんの胸に、心臓があるであろう場所にそっと手を当てた。しばらくそのままだった。けれど、やがてゆっくりと……その胸と手の間が淡く光りだした。ぼくが大袈裟に身を乗り出して凝視しても彼女は集中し続けたままだった。
──それは確かな光だった。優しい優しい真珠みたいだった光は、次第に大きな眩い光となっていく。
ぼくはその光に見とれた。陽光でもない、月光でもない、もちろん電灯でもない。なぜかそこの空間だけが光っているのだ。純粋な光としか言えない光。彼女の顔が照らされていく、おそらくぼくの顔もだろう。その輝きは室内全体にまで行き届き、きっと窓をすり抜けて外にまでも漏れている。いや、もしかしたらこの街全体にまで届いているかもしれない。ひたすら眩しいはずなのに、不思議と目をかっ開いたまま直視できていた。
光がこれ以上大きくはならない頃になると、彼女はようやく顔を上げてぼくを見た。
「もう手を離していい」
「いやいいよ、このまま支えてるよ」
正直腕が疲れてきていた。でも彼女のほうが、築さんのほうが、もっとずっと頑張っている。なんでもいいからぼくだってなにかできることをしたかったのだ。彼女はぼくを見たまま一瞬だけ静止したが、やがてまた光に目を戻して集中し出した。
壁掛け時計の針がぴったり一を指す頃、その光に色がつき始めた。真っ白だった光がだんだんと仄かな赤色に染まっていく。彼女は一番眩しい光の中心の下にそっと手のひらを差し出し、水をすくうみたいにして両手ですくい上げた。そのままテーブルの上の木箱にそうっと移し入れる。蓋を閉めると──幻想が終わった。
「……魔法……」
最初にそんな言葉がぼくの口からついて出た。魔法だった。そんな感想しか出てこなかった。
「これが感情の抽出」
やりきった彼女は額をぬぐった。
「……これで終わり?」
「うん。次目覚めた築様には“誰かを想う感情”が無い」
はっきりと言い切った。感情を抜き取って箱にしまった。すごく物理的なことだけれど、でも今たしかにこの目で見たのだから信じざるを得ない。夢でもなんでもない、間違いなく現実なのだ。たしかにここに『献情屋』は存在していた。
ふと見ると、築さんの顔色が少しだけ良くなっている気がした。原因だった感情が失くなったからだろうか?なかったことになった、とも言える。
彼女は築さんに毛布をかけてやり、タオルで顔と髪の毛をぽんぽんと優しく拭いてあげていた。
「そういえばさっき築さんに忠告するときさ、どうせ意味がなくなってしまうって言ってたけど……どういうことか訊いてもいい?」
ちょっとだけ気がかりだった。彼女は拭く手を止めるなり、切なそうに目を伏せた。答えたくないことならべつに答えてくれなくてもよかったのだが……質問にはちゃんと答えるのが彼女なのだ。築さんの感情の入った木箱に手を伸ばすと、優しく撫でながら答えてくれた。
「ここに来たこと、感情を抜くという決断をしたこと、その全てが彼を想ってのこと。つまり“誰かを想う感情”からきてるものだから、彼女はこの店に来たことも同意にサインしたことも忘れる」
「それってつまり、あんたのことも……?」
「うん」
なんか寂しい気もした。金をとらないのもそういう理由からだろうか。それじゃあ彼女の存在ってなんなんだろうか?献情屋オーナーの存在って、なんなんだろうか……?
「あと」
悶々とした頭のまま目を上げると、ばったりと目が合った。
「その、あんたってやめて。名前言ったでしょ」
「なまえ?」突然の発言すぎて驚いた。そういえば無意識に呼んでたな。
「えっと……涼子さん?」
「やっぱりやめて」
「なんなんだよ!」この女、もしかして弄んでる気か!?
「あなたの名前は?」
「ぼく?言ってなかったっけ?」
彼女が頷く。正直、自分の名前は好きなほうではないからあまり名乗りたくはなかった。でたらめな偽名でも考えようとも思ったが、でもこんなにもすごい魔法を見せてもらったわけだし名乗らないのもなんだか失礼だなと思い気が引けた。ここは素直に答えよう。
「蒼。蒼いって書く」
「それでそらって読むの?」
彼女はかすかに目を見開いて驚いた。やっぱりみんな最初は同じような反応だ。
「空みたいにでっかくて、いろんな色や形の心を持った人間になれるようにとか、そんな意味らしいけど」
まるで他人事のように補足してみると、彼女は意外なことを口にした。
「それで蒼にしたってことは、なにかもっと違う意味があるんじゃないの?」
彼女の真っ直ぐな瞳にぼくは驚いた。だって、そんなことを訊かれるのは初めてだったから。……なんだかむず痒くなってきて視線を逸らす。
「どうだろうね。……でもどうでもいいよ、そんなこと」
ふいに頭の隅に両親のことがよぎったのが嫌になって、思わず話題を断ち切った。そんなぼくの態度に気づいたのか、彼女もそれ以上は言及してこなかった。
「それで、このあと築さんをどうするの?」
彼女は木箱を両手で大事そうに持ち上げた。
「知り合いの診療所に届けるわ。彼女はそこで目を覚まして新しい人生を歩んで行く」
ぴくりとも動かない築さん。今は転生前とも言える。
「不安?」
じっと見ていたせいか、彼女は訊いてきた。
「大丈夫よ。そこの医者もうちの店のことはよく知ってる。お客様が自立するまでは支援してくれるわ」
「ならいいけど……」
どっかに野放しとかされたりするよりは全然ましだろう。そういう意味ではちゃんと責任をとっているのに、彼女はどうしてこうも冷たいんだろうか。なにが冷たいかって訊かれれば上手く答えられないけれど、でもそう感じるんだ。
「次のお客様を迎える準備をしましょ」
そう言った彼女は髪の毛をひるがえし、暖簾の奥へと行ってしまった。