盲腸線
逃亡者もいいところだった。
家からも逃げ、バイト先からも逃げ、こんな深夜にぼくは一体なにをしているんだろうか。
かすかに白ずく息が冬の始まりを報せる。冷えてかじかむ指先をコートのポケットに突っ込んで温めた。
──志望動機なんてものは単純だった。誰も彼もの心の内側を簡単に知れれば世の中楽に生きれるだろうという単純馬鹿な考えで心理学の道に進むことを決めた。たぶん昔から人の心に興味があったのだ。
小学生の頃、友達と隣町までこっそり出かけた。初めて切符を買って電車に乗って初めて見た景色。ぼくは「思ってたよりもずっと広い」と感じた。だが友達は「思ってたよりもずっと狭い」と感じたそうだ。同じものを見て同じことを感じるなんてのは極々稀なことなんだとその時初めて気づいた。
それが興味の発端だった。だがどうだ、そんな興味があったにも関わらず、高校を卒業してから二年も経つというのに未だにぶらぶらしているのだ。諦めもせずいいかげん働きもしないぼくにしびれを切らし、両親も一切構ってこなくなった。それでよかった。そのほうがもっと自由に生きれると思った。
……けれど自由になればなるほど、本当の自由というものがわからなくなってきていた。自分の思いのままに生きることが自由だとするならば、その自分の思いのままにやりたいことが何一つ思い浮かばなかった。つまりは、生きる目的も目標もなかった。
だから、ただ他人の目からぶらぶらしていると思われたくない理由だけで始めたバイトも、もちろんどれも長続きするはずがなかった。
結氷した水溜まりをわざとらしく踏みしめる。パキッともミシッとも言わず、シュッと空気の抜けるようなつまらない音だけが鳴り響いた。
初めて通る道。
家とは逆方向ということもあり、通ることもなかった。けれど今日は気分的に遠回りをしたかった。なんというか、子供心のように未知の道を冒険してみたくなったのだ。シャレじゃなくて。
帰ったってどうせなにも無いのだから、少しでも時間を潰していきたい。いや、少しどころかこの先何十年分もの時間を今ここで潰していきたい。そんな想いは、次第にぼくの足の歩の速さを遅めていった。
民家が立ち並ぶ一本道はだんだんと灯りの数が目に見えて減っていき、やがてなにもない平原へと続いていた。看板なども見当たらないので特に売地というわけでもないみたいだ。こんなにもの広い土地なんてすぐに買い取りがつきそうな気もするが、やはりみんな発展している駅前に住みたくなるんだろうか。あんなところ、ただただ気忙しくてうるさいだけだというのに。
しばらく歩いた先、また遠くにぼんやりと灯りが見えた。それは、ぽつんと建つ小さな家の灯りだった。
レンガ造りでどこかレトロちっくな雰囲気の佇まい。近づけば近づくほどそれはお伽話なんかに出てきそうな家だった。仄かな朱色の明かりが窓から漏れ、玄関にはランプが吊り下げられている。趣味のいい老夫婦でも住んでいるんだろうか?
ここで行き止まりだとわかった途端、急に気分が冷めてしまった。白いため息を一つ吐き出す。
帰ろう。踵を返したときだった──すぐ目の前に人の影があった。
「わっ!?」
鼻と鼻がぶつかりそうなほどの近い距離だった。大袈裟に飛び退いたぼくとは違い、相手は一切の微動だも見せずその場に突っ立っていた。
目を凝らしてよく見ると、全身を黒い服で包んでいた。暗闇と同化し輪郭がぼやけて見える。風に揺れる長い髪の毛が月明かりに照らされてきらきらと光っていた。……女性か?
視線を上げた先、整った美しい顔立ちがそこにあった。真珠やダイヤなんかよりも印象的な大きな瞳は、ぽかんと見とれたまま立ち尽くしているぼくをはっきりと映していた。その下の唇が小さく開く。
「今日の予約は二件だけのはず」
落ち着いた爽やかな声だった。
「……は?」予約?
「あなたが築様?」
「いや、違うけど……」
女性はむっと唇を曲げた。
「違うの?じゃあうちの前でなにしてるの?こんな時間に」
ゆっくりとした口調なので聴き取りやすかった。家主さんでしたか。
「珍しい家だなって。というかこんな時間はあんたも同じじゃない?」三時だぞ。深夜の三時。幽霊だって眠り始める時間だ。
「さりげなく私情を詮索しようとしないで」
「べつにしてませんけど!?」
なんだかとっつきにくい雰囲気だなあ、この人。
それに、なんだかこれ以上見られたくなかった。その印象深い瞳にどんどん吸い込まれていきそうな気がして胸の辺りがぐるぐると騒ぎ立てていた。恐いとか不気味とかそういう類じゃない、まるで幾多もの人の死や傷を見てきたかのような、どこかから押し寄せてくる悲しすぎる力が凝縮したような瞳なのだ。例えが下手くそすぎると自覚はしたが、それ以上の言葉では言い表せなかった。
肺の中に溜まった息を吐き出し、ぼくはその視線から逃げるようにして顔ごと背けた。そうだ、帰ろ帰ろ。妙なことに首突っ込んで面倒くさいことになりかねない。
「ただ気になっただけだって。楽しいことでも起こんないかなーとかさ。そいじゃ」
手を上げてそそくさとその場を去ろうとしたが、背中を呼び止められてしまった。
「まって」
一瞬、そのまま無視して立ち去ろうとも思った。けれど、臆病なぼくは首を後ろに回してしまう。……そうしたらもう後戻りはできなくなっていた。変わらずに無表情の彼女と、お伽の家に全身まるごと吸い込まれてしまっていた。
「楽しいことを感じて、それでどうしたいの?」
冗談でもなんでもなく、心から知りたいというような声音だった。
「どうしたいって……そりゃ生きてることに喜びを感じるんじゃないの?だから人間は率先してなにかと楽しもうとするんだろうし」
楽しみがなければ生きていても辛いだけだ。
「あなたも楽しさを欲してるの?」
「欲してるわけでもないけど……ずっと笑ってるのも疲れるしね、何事にも代償は付きものだと思う」
これだけは思ってることを真面目に答えた。そう、ぼくは次の楽しみを探すことにもう飽きていた。どうせ見つけてもけっきょくは面倒くさくなって手放すか、勝手に消え去っていってしまう。
彼女はぼくを見つめたまま立ち尽くしていた。夜風が彼女の長い髪を舞わせる。きらきらと光のような粒子も一緒になって見えたような気がしたが、おそらく錯覚だろう。
「……あのさ、なんでそんなこと訊くの?」
そんなこと普通に生きていたら考えつきもしない。疑問にすら思わない。楽しさに理由をつけたがるなんて、そんな虚しいことはしたくないはずだ。
「気になるの。そんなにたくさんの感情を抱えて生きている人間の感情が」
「……なんて?」
「感情を持っていて辛くはないの?」
「そりゃ辛いよ。感情はないほうがいいって、だいぶ前からそう思ってる」
「あなたもそうなんだ」
そうつぶやくと、やっと彼女はぼくから視線を外して足元に目を落とした。小さく嘆息ついたのも束の間、また目を上げてぼくを見ると静かに言った。
「……本当に心からそう思ってる?」
少し低くなった声。一語一句力が込められているのがわかった。顎の下から突き上げてくるような感じ。ぼくの唾を飲み下した音がやけに響いた。
「……うん、思ってるよ。僻みに近いのかもしれないけど、自分以外の他人が楽しそうに生きてるのが嫌になってくるよ。そう思わない、なににも興味を持たない、楽しさを欲しないようにはなりたいって……そう思う」
本音だった。ずっと前からぼくは“楽しさ”を忘れていた。それでもそれは完全に忘れたわけではなかった。他人が楽しんでいるのを、ああ楽しんでるんだなと心と肌で感じていた。楽しいという感情を知ってるからこそ感じれるものだった。それならいっそ、“楽しいという感情”その存在自体を忘れてしまいたかった。
「だったら……来る?」
「え?」
彼女は首を傾げていた。訊いていたのだ、ぼくに。
「来るって?」
「うちに」
「……いや、意味がわからない」
冷たい風が強く吹き、彼女は頭に着けたリボンの髪飾りをそっと手で押さえた。そのまま視線を上向けた先、雲の合間から満月がぼくらを覗き始めていた。
「うちは予約制だけど、そんなにまで感情を捨て去りたいお客様が目の前にいたとなれば……どうするべきかなんてとっくにわかっているつもりよ」
そうして、またぼくを見た。
「なに、言ってんの……?」
「来て」
困惑したままのぼくには構わず、彼女はくるりと髪の毛をひるがえしてお伽の家へ向かってゆっくりと歩き出した。階段に立つと、顔だけを振り向かせてぼくにはっきりと告げた。
「あなたの感情、抜き取ってあげるわ」
一瞬だけ涼しく感じた風が背中に吹き込んだと同時に足を一歩踏み出した。──そうしてぼくは導かれていった。彼女の言葉ではなく、たぶん彼女の存在そのものに。