山の上のオンディーヌ
私は山道を急いでいた。
黄昏が近付いていた。
この山の頂上の近くに噴水の跡があって、私はそこで人と待ち合わせているのだ。
道脇に生い茂る木々の葉は、蒸せるような緑の匂いを、生々しく発している。
初夏の湿気を帯びた空気は重く、肌に絡みついてくる。
その中を切り分けるようにして、私は山道を急いでいた。
約束の時間が、迫っていた。
私はここ三か月ほど、ふもとの町に暮らしていた。
ある商品の取引の仲介をするのが、私の仕事だった。
町から町へと渡り歩いては、そこで売れそうな商品を見繕って、客に仲介をする。
だからと云って、別に珍しいものを探している訳ではない。
どこにでもある、ありふれたものだ。
労苦は多いが、つまらぬ仕事であった。
でも生きてゆくためには、せねばならぬ仕事だった。
町にはいくつかホテルがあった。
そのうち、一番流行ってない、裏路地の安ホテルに、私は滞在していた。
私の町での生活は、単調なものだった。
朝起きて、ホテルを出て仕事をして、ホテルに帰って、寝る。
食事はすべて外で済ます。
夜はたまに気晴らしに居酒屋で一杯やったり、町にそれぞれ一軒しかない芝居小屋と映画館に行くこともある。
そんな単調な生活を送るうちに、私は一人の娘と知り合った。
私がいつも食事をする、安レストランのウェイトレスだった。
明るい栗色の髪にそばかす面のその娘は、どうやら私を気に入ったようだった。
私が食事をすると、特別にサーヴィスをしてくれるのだ。
と云っても、大したことではない。
モーニングセットのトーストを一枚余分に焼いてくれたり、昼の定食の品数を一品多くしてくれたり、夕飯と共に飲む酒を一本タダにしてくれたり、そんな程度のことだ。
そんなこんなで、私は娘と話をするようになった。
と云っても、大した話ではない。
ほんのたわいない、世間話だ。
でもそのたわいなさが、仕事でくたびれた私の心を癒してくれた。
そんなたわいない話の中でも、何となく娘の生活の一端はうかがえた。
娘は母と二人暮らしであった。
兄が一人いるが、この町よりはるかに大きい都会に出て暮らしているらしい。
地元の商業高校を出た娘は、今はレストランでアルバイトをしているが、お金を貯めて、服飾の専門学校に進むのが夢なのだそうだ。
恋人はいない。目下募集中である。
娘は決して美人ではないが、健康であり、清純無垢に感じられたし、何より屈託のない明るさが、本人が思っている以上に魅力的であった。
そして私と娘は、店の外で会う約束をした。
日時と場所は、私が指定した。
娘は喜んで承諾した。
私が指定した場所と云うのが、山の上の噴水跡であった。
そこは、山の上の廃城の、庭園の一角にあった。
庭園と云っても、廃城のそれだから、当然、廃園であった。
城にまだ城主がいた時分には、噴水にはふもとの河川から機械仕掛けの大掛かりなポンプで水が汲み上げられていた。
今はそのポンプも故障したまま放置され、噴水も水が枯れて果てたままになっている。
風景は、荒涼としている。
訪う人も、ごく少なくなっている。
私は何故そんな場所を指定したのか。
実はここは、ふもとの町の若者たちには、密やかな逢引の場になっているのだ。
ごくまれに訪う人々とは、ほとんどがそういった恋人たちなのであった。
娘は、そこに行ったことがないと云う。
母親に、禁じられているのだ。
だが私が誘うと喜んで承諾したのは、それだけ私のことを信頼した証拠であろう。
だからなおさら、娘との約束の時間に遅れてはならない。
それに私は、そろそろ仕事が片付くので、この町を立ち去るつもりであった。
娘と会う機会は、今日しかないのだ。
私は、山道を急いだ。
ようやく噴水跡に着いた時には、黄昏はだいぶ進んでいた。
もう薄暗いともまだ明るいともいえる、微妙な光加減の時刻だった。
人影はなかった。
あるのは廃城と、その前に広がる廃園の、荒涼として侘しい光景、そしてこの時刻になってもなおもねっとりと肌に絡みつく熱せられた大気、さらには蒸せるほどの緑の匂いだけであった。
大理石で出来た、豪勢な彫刻の施された水のない噴水が虚しい。
鴉が一羽、カァカァと鳴いているのが、荒涼さを助長する。
私は腕時計を見た。
娘との約束の時刻であった。
なおも五分ほど、水の枯れた噴水の前に、突っ立ったまま待った。
私が今来た道から人が来る気配も、廃園から人が現れることもない。
あるいは、廃園か廃城の中に入り込んで、迷っているのではあるまいか。
そう考えて私は、廃園の中に足を踏み入れた。
廃園とは云うものの、そこはどこか妖しいまでに、生命力が溢れていた。
植物は枯れているどころか、野放図に、大胆に、丈や枝を伸ばしまくっていた。
色とりどりの花が好き勝手に咲きまくって、生命を謳歌していた。
その周りをこれまた様々な虫が飛び交っている。
大理石のタイルを敷いた通路も、その隙間から、時にはタイルを割り、押しのけて、雑草が生えている。
人間が人工的に制御しようとした自然は、今また本来の姿を取り戻しつつあり、そして、再び自分たちのうちへ呑み込もうとしている。
しかしそのどこにも、娘の姿はなかった。
城の入口は重い扉がしっかり閉まり、鍵が掛かっていた。
娘が中にいるとは、考えにくかった。
私は枯れた噴水へと戻った。
大理石の噴水の縁に、髪の長い少女が座って、遠いまなざしを黄昏ゆく空の彼方に向けていた。
私が待っていた娘とは、似ても似つかぬ別人だった。
そして、それよりも、はるかに美しい娘であった。
肌が透けて見えるほどの薄い衣を身にまとっているだけであった。
この世ならぬ雰囲気を、その少女は醸し出しているように見えた。
私は茫然と佇んで、少女を見やった。
やがて少女は、遠いまなざしのまま、こちらを見た。
私を見ても、格別驚いた風もない。
と云うより、その美しい顔には、心ここにあらずといった様な、ぼうっとしたような表情が浮かんでいるのだった。
神秘的ではあったが、どこか、ただならぬものがある。
どこかの病院から抜け出してきた、心を病む患者であるとも見えた。
薄い絹の衣は、寝間着であるとも見える。
と、その時。
「あなたは誰?」
不意に少女が云った。
透き通った、しかし硬い声質のソプラノで、歌うように云った。
私は名乗った。そして訊いた。
「ここであなたではない娘さんと待ち合わせているのですが、見かけませんでしたか?」
すると、少女はいきなり「ホホホ」と笑い出した。そして云った。
「ああ、あの子と待ち合わせているのはあなたなのね。だったら、あの子は来ない。あの子の母親が急病になってしまったの」
「あなたは」私はさらに訊いた。「あの子の知り合いですか? あの子に頼まれてきたのですか?」
「知り合い? 違うわ」少女は云った。「私には人間の知り合いなんかいない。だって私は水の精なんですもの。精霊である私には、人間界のことは何でもお見通しよ」
私は返答に困った。
警察を呼んだほうがよさそうな事案だが、この山の上ではそうはいかない。
とりあえず、少女の話に合わせることにした。
「オンディーヌ、ですか」私は云った。「でもオンディーヌは、普通水辺に現れるはず。ここは噴水とはいえ、水はすでに枯れている。どうしてここにいるのです?」
すると、少女は突然悲しげな表情になった。そして悲しげな声で云った。
「そう。昔は確かにここは水があふれていた。でも今はこの通り。私はもう遥かに昔からこの噴水に棲みついて、ここを守っていたの。でもこの城は城主が追われ、人がいなくなった。そうしたら、噴水も水が枯れてしまった。私はここに一人取り残されてしまった」
「それは…気の毒ですね」私は云った。「どうやったら、また水の中へ戻れるのですか」
少女は悲しげな表情のまま、首を横に振った。
「でも」私は重ねて訊いた。「オンディーヌが水なくして、生き永らえられるものなのですか? 精霊に生き永らえる、という云い方が正しいかどうか知りませんが」
少女は悲しげな表情でうつむいたまま、しばらく黙っていた。
やがて、うつむいたまま云った。
「私にも、それはわからないわ。それが私の宿命なのかも知れない」
「宿命…」私は云った。「…こういうことを訊くのは何ですが、オンディーヌは、確か水辺で男を誘惑して、水中に引きずり込むのが仕事でしたね。仕事と云うのも何ですが。あなたもやはりそれが…?」
少女はうつむいていたが、やがて、顔を上げた。
憂鬱な表情になっていた。
「そうです」少女は口調も憂鬱げに云った。「それが私の…そう、仕事です」
最後のところで少女はかすかに笑ったが、またすぐに憂鬱な表情に戻った。
「でも」私はさらに訊いた。「この噴水で、男を中に引きずり込めるものなのですか? それほど底が深いようには見えないが」
少女は再びうつむいていた。
黄昏はいよいよ深まり、少女の表情はわかりにくくなってきていた。
やがて、少女はうつむいたまま云った。
「私は、この噴水で平和に楽しく暮らしていました。だから、ここで男の人を誘惑したことなんて、ありません。でもそれは、オンディーヌの世界の掟に反することなのです。その罰として、私はここにとどめ置かれているのです」
今度は私が沈黙する番だった。
私は腕時計を見た。
私は云った。
「で、どうすれば、あなたはまた水の中に戻れるのですか? …つまり、その罰が許されると?」
少女はうつむいたまま、黙っていた。
やがて、少女は顔を上げた。
その時だった。
鴉がまた、カァカァと鳴いた。
今度は一羽ではなく、二三羽が、鳴き交わしたのだった。
「まあ、嫌な鴉!」少女は怒気を露わにして云った。「あっちへ行ってちょうだい!」
しかし、鴉が飛び立つ気配はなく、代わりに樹々の間が不気味にガサガサ音を立てただけだった。
少女は忌々しげに…すっかり暗くなって、もはや表情はよくわからなかったが…その樹々の方を見やっていたが、やがて、また私の方を見た。
「そこまでオンディーヌのことがお分かりなら」少女は云った。「もうお察しでしょう。…私に与えられた罰が許されるには、水の中に男の人を引き込むか、でなければ…」
少女はそこで言葉を切った。
「でなければ…?」
私はそう云いながら、再び腕時計を見た。
「私を愛してくれる男の人を見つけなければならないのです」少女は云った。「そうすれば、私は水の精から、人間になることが出来る」
私は、ため息をついた。そして云った。
「で、その男の人は見つかりそうなんですか?」
暗い中でも、少女が呆気にとられた顔をしたのが私にはわかった。
少女はしばし呆気にとられた表情のまま沈黙したが、やがて云った。
「例えば…あなたは私を愛してはくださいませんの?」
私は、思わず笑ってしまった。
「何がおかしいのですか」
少女は憮然とした口調で云った。
私はそれには答えず、また腕時計を見た。
「さっきから…何で何度も時計を見るのです?」少女が云った。「あの子は来ないと、云ったじゃないですか」
「最近のオンディーヌは、時計なんてものを知っているんですね」私は意地悪く云った。「さあ、もう茶番はやめて、ふもとの町へ帰った方がいい」
「茶番? 何のことです?」
なおもそう云う少女に、私は云った。
「もう一度警告するよ。帰った方がいい」
「何故?」少女は噛みつくように云った。「いくら待っても、あの子は来ないわよ。だって、ここへ来たくないって云ったのは、あの子だもの」
「ああ、そうだろうね」私は云った。「君はあの子の友達だ。私が気が付かないとでも思ったかい? 君は町の芝居小屋の、コーラスガールだ。いつも大勢で、厚化粧して踊っているから、素顔を見るのは初めてだがね。なかなか別嬪さんなのは認めるよ。きっとあの子は、私に誘われたときは嬉々としてそれに応じてしまったが、後で怖気付いたんだろう。それで、友達の君に相談した。君は、やめた方がいい、いや、絶対やめるべきだ、とでも云ったのだろう。私のような、どこの馬の骨ともわからぬ男は、もしかしたら、犯罪者かも知れない、などと云ったのだろう。あの子は、それでここに来るのをやめてしまった。その代わり、君が来たという訳だ。一体どういうつもりかね。あの子にこれ以上近付くなと、説教でもしに来たか?」
「違うわ。そんなんじゃない」少女は云った。「私は…いえ、私こそ、あの子より、あなたのことが好き…いえ、あなたにふさわしいわ」
さっきまでの神秘的な、この世ならぬ雰囲気は、すっかり消え失せていた。
そこにいたのは、顔は確かにまあまあいけるが、すっかり世俗にまみれた、蓮っ葉な、尻軽な、ただの若い女であった。
「もう一度だけ云うよ。これが最後だ」私は云った。「町に帰りなさい。今すぐ」
「嫌よ」少女は牙をむくように云った。「今まで、私をソデにした男なんていなかった。あんただって、絶対モノにしてやるわ。ああもう、あんたをちょっとからかうつもりで、こんな七面倒なことをするんじゃなかった。本当は、オンディーヌのことなんてロクに知らないんですもの。あんたに問い詰められて、どう答えようか困ったわ。こんなに苦労したんだもの、絶対モノにしなきゃ、私の女が廃るわ」
そこまで少女は一気にまくしたてると、ニヤッと媚びいっぱいの笑みを浮かべた。
いや、暗くて表情はよくわからない。が、そうだと見当はついた。
少女は云った。
「ねえ、ここで抱いたっていいのよ」
私はもう一度溜息をつき、腕時計を見た。
約束の時間だった。
実は私は、例の娘との他に、もう一つ約束があった。
私の顧客との約束だ。
その約束の時刻が、今来たのだ。
私は、周囲を見回した。
すると、あちこちで鴉たちが、一斉に、不気味に、カァカァと鳴き始めた。
一体、何羽の鴉がいるものか…。
すっかり夕闇の中に沈み込んだ廃園の噴水前に、壮大な鴉の合唱が、轟き渡った。
「な、何…?」
少女が、周囲をキョトキョトと見やりながら、噴水の縁からよろよろ立ち上がる。
その途端、だった。
いつもながら、彼らの攻撃は、迅速だった。
見事なものだ。
一斉に鴉たちは樹々から飛び立ち、そして、電光石火の早業で、たちまち少女に襲い掛かった。
少女に悲鳴を上げる隙も与えない。
少女の姿は、たちまち、百羽は下らぬ鴉たちの、黒い塊の中に、埋没した。
その様子を見るたびに、私はかつて少年の頃、私を虐待し続けた両親を、同じ目に合わせた時の光景を、思い出さずにいられない。
この時私は、悪魔と契約したのだ。
その、すっかり顔なじみとなった悪魔が、いつのまにか噴水の傍らに、立っていた。
「話が違うじゃないか」悪魔は云った。「君が云っていたのは、清純な処女だ。この娘はそうじゃない」
「ちょっとした手違いだ」私は云った。「今度は上手くやるさ」
「清純な処女なら向こう一年の命を保証するところだが、これではな」悪魔はそう云いながら、ニヤついている。「今回は半年だ。半年の命を保証しよう」
暗闇の中なのに、悪魔の姿はやけにはっきり見える。
ただし、その容姿を事細かに書くことは、悪魔に禁じられているから、ここには書けない。
そのくせ、この悪魔は自分の悪逆非道な行いを書くことは、むしろ奨励するのだ。
こうして悪魔の手下である鴉たちに、若い女性という餌食を与えるのが、私の仕事だ。
その報酬として、悪魔が云う期間だけの生命が、私に保証されるのだ。
今回は半年の命しか保証されなかったから、また半年以内に、新たな餌食を見つけ出さねばならない。
労苦ばかり多い、つまらぬ仕事だ。
だが生きてゆくためには、せねばならぬ仕事だ。
やがて…と云っても、五分も経たない。
鴉たちはまた一斉に、飛び立った。
後には何も残っていない。
鴉たちは肉ばかりか内臓も、骨も、衣服さえも、食らい尽くすのだ。
あとには、見ようによっては人の形に見えなくもない、染みだけが残った。
身体から滲んだわずかな漿液が、染みを作ったのだ。
悪魔の姿は、いつの間にか消えていた。
私はまた一つため息をついた。そして腕時計を見た。
すっかり夜になった。
あれほど肌に絡みつくようだった空気は、清涼になりつつある。
清らか過ぎる空気は、私は苦手だ。
私はとぼとぼ歩きだし、山道を下って行った。
まだ今なら、町の駅の最終列車に、十分間に合うことだろう。