四章 潰えし神
寝る間際、奴と下らない話をしたせいだろうか。夢の中の私は酷く苦しんでいた。
『っはぁっ……っ……』
肺と心臓に不具合を感じる。呼吸が満足に出来ず、ベッドの上で酸素を求め荒い息を吐く。
『苦しいのね―――、もうすぐ薬が効いてくるわ。あと少しだけ我慢して』
隣で座る母親らしき女性を心配させないよう、どうにか首肯で返事をする。
『私が代わってあげられたら……』
看病期間が長いのだろうか。彼女は酷くやつれ、目は落ち窪んでいた。だが、その瞳の奥は爛々と光輝いている。――狂気、だ。
『母さん……?』
『ここにいるわ、ずっと……死なせたりなんてしない』
母親はふらふらと立ち上がり、書き物机の上から綴じ紐で纏めた製本を捲った。私の傍に戻り、熱心に書き込みを始める。
『そうよ……あなたは私の全てなんですもの……むざむざ虚無に呑ませたりするものですか』
その瞬間、一際強い痛みが心臓を貫き、私は苦鳴を上げた。
「おい!!」
「っ!!」
瞼を開けると景色は一変した。暗い寝室から眩い光に満ちた水晶宮へ。
奴は酷く動揺した様子で私の肩を掴んでいた。(やれやれ、まだ酔いが醒めてないのか)まだ顔が真っ赤だ。「痛い、放せ」
「何だよ。魘されてたから折角起こしてやったのによ、ケッ!」舌打つ。
「気遣いなどいらん。悪夢ぐらい見るさ、ここは大悪魔の封印のすぐ傍だ。影響があってもおかしくはない。尤も、私にとっては初めての事だが」
尚も放さないので、力づくで引き剥がした。一緒に貼っていたガーゼが落ちる。時間が余り経っていないのか、まだ創傷は完全に塞がっていなかった。
「替えをくれ」
黙ったまま白布をベタベタ接着し直す天使。全身から消毒薬とは異なるアルコールが発散され、正直臭い。
「ずっと傍にいたのか?」
「んな訳ねえだろ。手前の寝顔見てる程俺は酔狂に見えるか?」
途中で質問に意味は無いと悟った。見える見えない以前に、この酔い状態で立ち上がれるはずがない。
「お前、正直に言え。最近任務をしていないだろう?異教徒の事はあの馬鹿犬に任せっ放しのようだし、他に急ぎの任に就いた様子も無い。――幾らお前が先見の明が皆無の戦馬鹿でも、拙いと分かるはずだ。いいか、奴は所詮能無しだ。あんな者に頼るようでは、何れ足元を掬われるぞ」
「あぁ?手前、主人に向かって説教垂れる気か?」
「顔を近付けるな酔っ払いが」
酒の効き過ぎだ。いつもの奴ならここまで干渉してはこない。怪我が治るまでこれが続くかと思うと気が滅入る。
(リサに会いたい……)
小さな命を腕に抱いた感触を思い出し、しかし想いは血の記憶に塗り潰されそうになる。あの子の両親が流した赤に……。
(彼女を求める権利など、あるはずが無い)あの子を一人にしたのは、紛れも無くこの私だ。
「何考えてやがる人形?大方あの小娘の事だろ?」
「ああ。お前にしては察しが良いな。リサは心臓が弱いんだ、心配するのは当然だろう」
「ケッ、すっかり姉気取りかよ。牢屋にぶち込まれた親共が聞いたら憤慨物だぞ」
「だろうな」
かつて一度だけ近況を報告に行った事がある。投獄への悲嘆と絶望、責め苦の痛みで私の声など殆ど聞こえてはいなかったようだったが。
「本気で弱気が似合わねえ女だな。異教徒共に餓鬼の手術代が出せたと思うか?病院代も莫大だ、つくづく金と手間の掛かる小娘だぜ。全くよ」
「……もしかして、それでフォローしているつもりか?」
絶句。矢張りか、面倒な奴だ。思わず溜息を吐く。
「人は金だけで生きている訳ではない。両親の愛情の届かぬリサに、私如きがどんなに手を尽くそうと足りるものか」
他にもあの子を支えてくれる者が少なからずいるのは本当に幸いだ。唯一無二の親友、気に掛けてくれる彼女の友人達、片想いのクレオ殿。皆のお陰で、妹は少しずつ外への恐怖心を減らしているようだ。
「人形が愛を説くってのか?」
「お前が大真面目に言うよりは遥かにマシだ」
闘争本能のみの奴に、人間の感情の機微を説いても時間の無駄にしかならない。
「見せてやろうか?」
「何?」
「ここは全知全能の神がおわす場だぞ。下界の様子ぐらい分かる」
「しかし大父神は」
「俺を誰だと思ってやがる」
「ただの呑んだくれだ」
「ケッ!」
奴は中腰になって翼の生えた背中を向け、乗れ、と命令した。どうやら運んでくれるようだ。
ベッドから起き、両手で全身の傷の具合を確認してから身体を預ける。痛みは眠る前よりは大分マシになっていた。
通路を移動しながら、今更服を着ていない違和感を覚えた。幾ら人がいないとは言え、裸に全身ガーゼは些か寒い。そう言うと、鍛え方が足りねえんじゃねえのか?それとも恥ずかしいのか、人形のくせに――話すだけ無駄だった。
観測室は中央に黒壇の椅子があるだけの質素な部屋だ。その上に降ろされ、奴が頭上でパチン!指を鳴らした。途端、クリスタルに透けていた青空と白い雲が消え、星空のスクリーンが現れる。
「“黄の星”の……おい」「シャバムだ。北地区八十六番地」
住所を諳んじる私の声に応じ、見慣れた我が家の玄関が映し出された。
「おや、クレオ殿か」
「何やってんだあの機械小僧?」
彼と聖王ウィルベルクは、開いたドアを挟んでリサと話をしている。――どうやら私の怪我の事を説明しに来たようだ。
『そうだったんですか……ううん、それなら多分大丈夫。今までも何回かあったから』
今朝の妹は体調が良いようだ。特に風邪を引いた兆候も無く一安心。
『リサさんは一人で大丈夫ですか?心臓の具合は』
『今は平気。あの、今日はちょっと家の中が散らかってて、メンテナンスは』
『いいえ。僕は全然無傷なんです。心配掛けて済みません』
クレオ殿が手をパタパタ振ると、妹は頬を僅かに赤らめた。
『掃除の邪魔したな。行こうクレオ』
『はい。さようならリサさん』
二人が背を向けて歩き出す。と、妹はドアから一歩外へ出た。
『あの、今度はお茶でも飲んでいってね。その頃には……お姉ちゃんも戻って来ているといいな』
『ええ。その時は僕も何かお茶請けのお菓子を用意してきます』
クレオ殿の提案に、妹ははっきり頬を赤らめて喜んだ。
『嬉しい。忘れないで下さいよ?』
『勿論』
「随分惚れてるみてえだな小娘。あんななよなよしたマシーンの何処がいいんだ、ケッ!」
「止めろ。リサの好みにケチをつけるな」
にしても、私が留守の間に片づけをしてくれているとは感心感心。帰ったら何か御褒美をやらないと。新しい工具、衣服……それとも共に書店へ行き、機械工学の本を買ってやるのがいいだろうか?
閉まった玄関ドアの映像が消え、再び陽光が降り注ぐ。
「悪かったな。ベッドに戻してくれ」
赤髪を掻きつつ、タダで人形の我儘を聞いてやるなんて、俺は何て慈悲深い天使だろうな、またつまらない言葉を吐く。機嫌を損なっても余計面倒なので、ああ、お前は素晴らしい、全く感情を込めずに答えた。
また背負われて部屋を出る。壁の向こうに広がる空には、一羽の鳥も飛んではいない。水晶宮のある場は一見青空に見えるが、実際は宇宙の只中にある特殊な結界内だ。生物は基本的にいない。
「そう言えば見張りはどうした?」
数年前修理のため訪れた時は、玄関前に天使を模した二人の木偶がいた。しかし、今回はまだ姿を見ていない。
「――リストラだ。下界でもよくある話だろ?」
「何?幾ら侵入者が無く、守る機能しかないとは言え処分とは……万一があったらどうする?」
「俺に訊くなよ。消したのはお偉い神様だ」
「何だと?」
行きとは違うルートを通り、玄関に続く大広間へ差し掛かった。足を踏み入れた瞬間、そら、噂をすればだ、立場も忘れて奴が苛立ち紛れに呟く。
天使の死体が封印された水晶に両手を着き、この宇宙の創造主はうっすら微笑んでいた。但しそれは健全な青年のそれではなく、“黒の絶望”と同一の憑かれた物。
「もうすぐだ……生者と死者は同じ次元に立ち、お前もここから出てこられる……宇宙がまた一つ完全に近付くんだ。どうだ、喜んでくれるか?」
中身に寄り添うように頬を冷たいクリスタルに摺り寄せ、瞼を閉じる。
「僕はあの子より優れていなければいけないんだ。そうだろう?」
行方不明の妹を思い出し、彼は明らかに眉を顰めた。人間らしい感情と引き換えに、真の神の資質を与えられた少女を。
(今も相変わらず飄々としているのだろうな)
隣に転がる毛玉を撫で、絶えない欠伸をしつつ何処かに座り、総てを見透かす目を以って世界を概観しているに違いない。内から王者の貫禄を滲み出させて。
「何か言え。お前は僕の部下だろう?」
赤毛の天使は黙って頭を横に振り、神の横を通って足早に調整室へ進み出した。
「僕の命令を無視するな!被創造物の分際で……」
奴の舌打ち。背後の啜り泣きが段々遠のき、聞こえなくなった。
ベッドに降ろされ、ガーゼを換えられながら弱々しい横顔を思い出す。壊れた神の願いが、遠く下界の聖者様の絶望を煽ったのか?大事な者を亡くし、有り得ない希望を持つ精神が共感して。
「おい人形。手前は――俺が死んでもああはなるなよ?」
「冗談にもなっていないな。リサならともかく、乱暴者が一人くたばった所でストレスの種が消えるだけだ。却って精神衛生上良い」
「ケッ、減らず口を。訊いた俺が馬鹿だった」それは普段のこちらの台詞だ。
顔を背け、部屋を出る時に外したのとは別の点滴を打つ。それが終わると、奴は私の髪を消毒薬臭い手櫛で梳き、離れた。
「ようやく任務に就く気になったのか」
「あぁ?違えよ、野暮用。何かあったらあいつを好きに使え。しばらく留まるよう言っといたから」
同僚の眼鏡の天使の事だ。今頃本人は筋違いだろうと呆れているに違いない。
奴は腰に差した剣の柄を握り、じゃあな、と告げて出て行った。
「おかえりなさいませ、御主人様」
リサさんと別れた僕等は、ウィルネストさんのたっての希望で“碧の星”行きの宇宙船に乗った。ラプラスの花を探しに来た時と同じ船着場で降り、そのまま聖樹の森へ。執事さんは既に入口で待っていて、彼に向かって微笑んだままそう言った。
「ただいま爺」
次の瞬間、前回と同じように人家の前まで瞬間移動した。ドアを開けた聖樹さんを先頭に中へ入る。
「丁度良かった。頂いたアプリコットでタルトを焼いていたのですが、一人ではどうにも食べ切れる量ではなくて。座って少々お待ち下さい」
お爺さんは薬缶をコンロに掛け、オーブンから焼けたばかりの甘香ばしい丸型お菓子を出した。器用にナイフで金型から外し、三等分に切り分けて皿に乗せる。沸騰したお湯で三人分の紅茶を淹れ、フォークを渡された。
「美味そうだな」「頂きます」
ぱくっ、もぐもぐ……!「美味しい!」
「二百年の間にまた腕を上げたな。誰かに習ったのか?」
「ええ、時々通販で本を送って頂いて練習を。しかし、矢張り食べてくれる人がいないと上達しているか分かりづらいですね」
しばらく沈黙のまま口と手を動かす。
「……怒らないのか?ずっと音信不通だったんだぞ」
「私も誠様同様、必ず戻って来ると信じていましたから」
「流石爺。どんな罵倒より効果覿面な一言だな」
「お代わりは如何ですか?」
「ああ、今度はレモンティーを頼む」
今更ながら、リビングの寝椅子の持ち主が彼だと思い当たる。そうか、ここがこの宇宙でのウィルネストさんの家……エレミアでの彼はずっと一人暮らしだった。
「次のお帰りは何時になりますか?」
「……いつも通り、すぐだよ」はにかむ。「まーくん達が元気になったら、美味いケーキを焼いてやってくれ」
!またいなくなる気だ。しかし分かっているはずの聖樹さんの表情は柔らかい。
「ええ。御自分へはともかく、そう言う嘘なら聞いていて微笑ましい限りで御座います。ただ、一つ言わせてもらうならば」
「何だ?」
「何処へ行くにせよ御主人様の目的地は、一人で歩くには些か遠いのではありませんか?」
「確かにな。だけど悪い、誰か連れるにはかなり険しい道だ」
「そうですか。しかし、根を上げる程ではありません。待つ者の方が数十、数百倍辛いのです。御主人様に泣き言を吐く資格など」
「――ああ、分かってる、分かってるさそれぐらい……」
ウィルネストさんは手で目頭を押さえ、呻いた。
「少し言い過ぎましたね。ですが、また出掛けられる前によくお考え下さい。二百年間の重さを」
「プレッシャー掛けるなよ。俺にどうしろって言うんだ……?」
心底困惑した声を出す。
「――さて、この話はそろそろ終わりにしましょう。クレオ様、お淹れしましょうか?」
「あ、はい。お願いします」
今度はガーネットブラウンの濃い紅茶だ。一口飲んだら渋かったので、ほんの少しミルクを足す。
「聖樹さん、誠さんはよくこちらへ来るんですか?」
「ええ。彼は一時期、オリオール様とこの森で住んでいたのですよ。その頃は毎日のように三人であちこち出掛けられて、まるで仲の良い兄弟のようでした」
「オリオール君とですか」
だからあんなに苦しそうな顔を……。きっと誠さんの悲しみを一番感じ取っていたんだ。だから他の人達と違って笑えなかった。
「ええ。今度是非お越し下さいと伝えて頂けますか?これからは冷菓や氷菓の美味しい季節ですからね。彼はアイスクリームが大好きでして、特にバニラに黒蜜掛け、砕いた胡桃とドライフルーツを振り掛け、コーンフレークとスポンジケーキ、バナナと生クリームを重ねた」
「要するにパフェじゃねえか。普通店で食う物だぞ。ここで出すなよ、材料多いし大変だろ」
ウィルネストさんの突っ込みに、カフェテリアでは量が少ないそうです、育ち盛りの子供らしい感想でしょう、お爺さんは苦笑した。
「ボウル一杯食うのかあいつは。だから二百年経っても餓鬼なんだよ」
「普通にケーキ半ホールを平らげる御主人様と良い勝負です」
「食ってる内にアイスが溶けちまうだろうが」
「大体パフェとはそう言う食べ物ですよ」
それから二時間以上の和やかな会話の後、ウィルネストさんは二階に上がって服を着替えた。深藍色のジーンズとベージュのシャツ、前のと似たような色合いだ。
「じゃ、そろそろ行って来る。爺、達者でな」
「行って来ます」
「いってらっしゃいませ、クレオ様、御主人様」