3章-1
錆びかけた蝶番がきしむ、微かな音がした。
目を覚ましたテセラは、暗闇に目を慣らす暇も無く口を塞がれる。
「…………!」
誰! と叫ぶこともできないまま、見知らぬ人の手に腕を掴まれて後ろ手に紐か何かで縛られた。
その間に別の人間がテセラの頭に巻きつけてきた。視界をさえぎられ、何も見えなくなる。
今までこんな扱いを受けたことが無かったテセラは、怖くて声すら出せなくなっていた。
(何? 何なのこれ!)
テセラの腕を掴んでいるらしい人物が、腕を引っ張りながら「来い」と短く告げる。
そこで男の声だということはわかったが、テセラにとっては恐怖がいや増しただけだった。
彼らはテセラの腕を掴んで自分で歩かせていたが、静まり返った宿の階段から転げ落ちそうになると、肩に担がれた。玄関の扉だったのだろう。部屋とは違う重たげな扉が開く音と同時に、テセラは頬に外気を感じた。
数歩分、担いだ人間に揺られた後、固い椅子の上に座らされ、すぐに小さな震動と加速を感じ、車に乗せられたのだと気づく。
荒野の夜気は冷たくて、テセラは寒さで身震いした。
ようやくはっきりと周囲の状況を認識してきたテセラは、逃れようの無い状況に震える唇をかみ締めた。
人数はわからないけれど多分二人で、テセラを抱え上げるのに苦労しない腕力の持ち主が相手だ。宿から出るときに物音に誰も起き出してこなかったのは、ほとんどの人が熟睡しているような時間だからなのだろう。
そしてイサが追ってこないのは、彼がまだ宿に戻ってきていないからに違いない。
助けてくれそうなのはイサ一人だけなのに、本人が連れ出されるテセラを目撃すらしていないかもしれないならば、今後どこへ連れて行かれて何をされようと、イサは助けに来てくれないだろう。
足が震えだした。
イサに助けてもらえない。
その事がこれほどまでに自分に恐怖感を与えるとは思ってもみなかった。昨日、助け出された時からそんなにも自分は彼に頼っていたのだろうか。
目に涙がにじんだけれど、目隠しをされた布に全部吸いとられてしまう。
やがて加速がゆるみ、車のエンジン音が止まった。
また荷物のように担がれたテセラは揺られながらまだ考えていた。
イサに見つけてもらうにはどうしたらよかっただろう。
あの部屋でもっと暴れておくべきだったろうか。叫び声でも上げておくべきだったろうか。でも、叫んでその場で殺されてしまっては元も子もない。
ふと昔読んだ童話を思い出す。深い森の中へ捨てられそうになった子供が、予め拾っておいた白い石を道にいくつも落としておき、それを目印に家に帰り着いた話。
その話を読んでくれたディオが、渋い顔をして言ったのも思い出す。
『帰ってもまた捨てられるだけならいい。けど、捨てるのが難しいとわかって、眠ってる間に首を絞められるとか、そう目に合うかもしれないって考えなかったのかな』
視界を塞がれているテセラは思わず身をすくませた。今の自分では、眠っているのと同じように、誰かが首を絞めようとしてもわからない。
(や、やだ!)
だってまだディオを見つけてないのに。
また涙がにじんで目の辺りの布がいい加減湿っぽくなってきた頃、どこかの扉が開く音がした。
ふいにテセラは床に下ろされる。固い石の床だ。
テセラを担いだ本人は気まぐれなのか、気を遣って足から下りられるようにしてくれたけれど、足が震えて立てなかったテセラはその場に座り込んでしまった。
ぐいと頭を後ろの方に引かれた。
目隠しをした布をひっぱっているのだと気づいた時、視界が急に明るくなる。
まぶしさに、テセラは一度目をきつく閉じた。
瞬きを繰り返して明るさに慣れた先に、一人の老人がいた。
着古したような白衣はシワが寄っている。下に着ているシャツも茶のズボンもよれよれだった。白い髪は全体的に多少心もとなくなっていて、目じりや口元の皺の深さは年相応といったところだろうか。めがねの奥にある細い目がじろじろとテセラを眺め回し、何かに気づいて動きが止まる。薄い唇が笑みの形に変わった。
「どうかな、ミデン博士。このお嬢さんはまちがいなくお前さんの孫かい?」
テセラの背後にいた男が訊いた。
孫でもなんでもないテセラは緊張で顔がこわばったが、ミデン博士と呼ばれた老人は彼女の想像もつかない返事をよこした。
「ああ、間違いなくうちの孫だ」
「あんた身よりはないっていったじゃないか」
男の問いにミデン博士は笑う。
「そら、わたしは敵国にいたんだしな。この子の親に手紙を送ってもなしのつぶてで、いないも同然と思っていたから」
「では、その娘は今晩一日そこから出さないように。明日には街の外へ出す」
「わかっとるよ。じゃあな」
ミデン博士が追い払うように手を振ると、男の靴音が遠ざかり、扉が閉まる音がした。
鍵をかける金属音に、思わずテセラは身震いする。
部屋の中は石造りのしっかりとしたもので、四隅や後から入れたらしい大きな机の上にランプを置いていた。窓は机の向こうにある一つきりで、小さすぎて話に聞く囚人部屋のようだ。そう思って部屋の中を見れば、続き部屋なのか左に扉が見える。それ以外は小さな寝台がおいてあるきりの、まるで生活観のない様子が気になった。
ミデン博士へ視線を戻すと、彼はまだ笑みを浮かべたままで言った。
「おまえさん、ディオの坊やとはどういう関係だ?」
「え……」
どうしてテセラとディオの繋がりを知っているのか。テセラが首をかしげると、ミデン博士は彼女の胸元を指差した。
手で触れてみて思い出す。ディオのくれたペンダントだ。
特に値打ちのあるようなものじゃない。荒野に行けばいくらでも落ちているような、灰水晶のペンデュラムだ。
いつも服の中にしまっていたのに、眠ているうちに外へ飛び出してしまったのだろう。思わず手でペンダントを掴み、ミデン博士の視界から隠す。
「どうして、知って……」
ディオがテセラに渡した物だと知っているのはなぜか。
尋ねかけたところで、もう一つの可能性に思い至った。ミデン博士はディオに会ったのかもしれない。そしてディオからテセラのことを聞いたのではないだろうか。
前線の街はディオが到着した前後には戦火に巻き込まれたのだ。なのにミデン博士がディオと話す機会があったということは、街から離れたところで会ったのだろうか? それならディオは生きてる?
「ディオに会ったんですか? どこで……」
明るさが差した表情で尋ねたテセラに、ミデン博士は笑みを引っ込めた。
「あんたは何も知らないのかね?」
「何をですか?」
テセラは首をかしげる。ミデン博士はため息をついて首を横に振った。
「期待して損をしたな……」
ミデン博士はふと口の端を上げる。
「まぁ、間違いとはいえ招待したのは私だしな。今晩中はここにいなきゃならないが、眠れそうなら隣の寝台を使うといい」
ミデン博士の申し出をテセラは断った。
博士がいるならここはシエナの軍基地だ。だけどこんなさらわれ方をした場所で、すぐに眠れようはずもない。
するとミデン博士は隅に置いた小さな丸椅子を持ってきて、テセラに座るよう促した。言われたとおりにすると、ミデン博士も机の前にあった椅子に腰掛けてテセラと向かい合う。
「私を探している人間がいると聞いたもんだから、てっきり今日が人生最高の日だと思ってね。興奮しすぎたらしくて私もどうも眠れる気分じゃない。だから、何か聞きたいことがあったら教えてあげよう」
人生最高の日とは何だろう。
よくわからないながらも、テセラは彼に知りたいことを質問した。
「ディオとは、どういう知り合いなんですか? ディオは貴方に会いに行って、前線の街で戦闘に巻き込まれたみたいなんです」
ミデン博士の言葉が終わるか終わらないかのうちにテセラは言った。
「ふむ」
彼はゆっくりとひざの上で両手の指を組みなおす。
「これは説明が長くなる質問だな。まずは私の故郷の出来事から話そうか」
ということは、ディオとミデンはずっと昔の知り合いだったのか。ディオがテセラの家に養子に入る前の。
ミデン博士はひざの上で組んだ両手の指に視線を落とした。
「ここから北に、とある国があった。科学技術が繁栄していたその国で、私は政府から依頼を受けて兵器を作っていた。そして、実験の失敗という名目で兵器のテストを行ったのだ」
イサが話してくれたものと同じだ、とテセラは思った。
ミデンは、たくさんの人を兵器の実験のために殺してしまった。
でも……と逡巡する。
そんなに多くの人命を奪う兵器があったなら、その国はとても強いはずだ。そんな国があるとは聞いたことがない。
疑問に思うあいだにもミデンの話は進む。
「実験にはもう一人、重要な役割を担う人物がいた」
通常の動作実験が失敗したとみせかけるための者。ミデンは彼と協力して実験を行ったのだという。が、その情報がどこからか流れてしまった。
「私たちは死罪になることはなかった。なぜって、政府がそう取り計らう予定だったからね」
ミデンは、彼のための特別な刑務所の中で、それからも実験を続けるはずだった。
「私は研究さえできれば、外へ出られなくともかまわなかった。しかし戦争が起こってしまった」
ミデンが作り上げた不完全な兵器をつかって、その国はかなり優位に立ったという。
彼らは戦争に勝てると思っていた。
「だから戦争の最中、私は厳重な場所で保護された。けれどどこからか私の研究成果が流出し、敵も同じ兵器を作り、戦争で私たちの国は負けてしまった」
ミデンは深く息を吸って、話を続ける。
「ただ、それで私はお役ごめんになったと思ったんだがね。とんだ勘違いだった。政府は戦争に敗北した時のことを考えて、処刑人を用意していたんだ」
「処刑人?」
「戦争に負けた後、少しでも敵国に知識などをくれてやるのが嫌だったんだろう。必ず抹殺するようにある人物へ依頼したんだ。でも私は死にたくなかった。兵器開発のために人を殺しておいて……と思うだろう?」
実際そのとおりだったので、テセラはうなずきそうになった。
「利己的だと言われてもいい。とにかく私はまだ生きたかった。だから私の協力者ともども、なんとか相手を撒いて逃げたんだ。そして途中でお互いに別れ別れになった。彼はその後どうしているかと思っていたが……」
ミデン博士は暗い眼差しのまま口端を上げた。
「ディオが、死ぬのを見てしまうなんてね」
テセラは一瞬、聞き間違えたかと思った。あまりに突然だったから? そうじゃない。その言葉を、理解したくないと自分の頭が拒否している。
「ディオって、ディオって……」
「彼は私の実験の、協力者だった」
テセラは口を開きかけ、閉じて、声を出すのを諦めて両手を握り締める。
血の気が引いたようにめまいもする。
今なんて言った? ディオがミデンの協力者?
けれどディオが自分の兄になった時、まだ十歳そこそこだったはずだ。
とても兵器開発とか、人を殺すとか、そんなことにかかわれるはずがないのに。
「ディオはね、いわゆる天才だったんだ。私が最後に彼と話したのは十歳のときだったか。それから十年、穏やかに暮らしていたようだったのに……言葉を交わす前に、ディオを処刑人が見つけてしまった」
もう、テセラは何もいえなかった。
(本当に死んだの?)
たった一言なのに、どうしても言えない。
ミデンはそんな彼女の様子にも頓着せず話を続けた。
「だから自分を探している人間がいるとわかった時、とうとう私も殺されるんだと思ったよ。きっとディオを殺した人間が、わたしの行方を捜させているんだろうとね」
テセラは息が苦しくなった。
上手く呼吸ができない。
今すぐ誰かに嘘だと言って欲しい。例えば今日眠りから覚めたら連れ去られそうになったその時から、全てが悪い夢なんだと教えてくれれば。
そうじゃなければ、一体何のために自分はここまで来たのかわからなくなる。
これからどこへ行ってどう生きていけばいいのか、わからなくなる……。
うずくまるテセラの上に、ミデンの言葉が降り注ぐ。
「君がディオとどんな関係だったかは知らない。けれど、もし君が仇を討ちたいと思うなら。きっと私を追いかけてくるから」
仇? それはディオを殺した人。
ずっと心の隅っこで、ユイエンの人達がディオを殺したのだと思った。あの銃弾の雨が降る町で。それでもディオが生きていると信じられたのは……。
イサの微笑みを思い出す。
「たすけて、くれたのに……」
でももう、ディオが生きていると信じることはむずかしくて。
助けてくれたイサのことさえ恨みたい気分になり、そんな自分が嫌で、テセラは手で顔を覆った。