1章-1
世界中に、見えない線が引かれている事をテセラは知っていた。
小さい頃は、地図の通りに赤い線が描かれているのだと考えていたものだ。
けれど隣町との境目には、どんなに探したってそんな線はなかった。代わりに延びている道を見て、高いところから見下ろしたら、これがきっと線みたいに見えるんだろうと思っていた。
十六歳になった今は、それも間違いだと知っている。
国境を表す赤い線は、きっと血の色だ。
崩れたレンガの山に寄り添って、テセラは息を整えていた。走ってばかりで酸欠になりそうだった。
目を閉じると、激しい雨が降り注いでいるような音が耳につく。
歩いて二時間の隣町へたどり着くまでに、それが銃撃戦の音だとテセラは覚えていた。
ここは、新しく塗り替えられつつある国境線の真下なのだ。
ばらばらと不規則な音が遠ざかって行く。銃撃戦の舞台がここから離れたのだろう。今のうちにもう少し街の外へ向うべきだ。
そう考えたテセラは、辺りを見回しながら路地に出た。
焦げ茶色のジャケットを着ているから、レンガの町並みの中では人の目につきにくいはずだ。大きな音さえ立てなければ、誰にも気づかれずに済むだろう。
とはいえ、その路地も急いで走っていけるような状態ではない。
道沿いの家の壁ごと深く抉れているのは、着弾した大砲のせいだ。軍用車も近くで横倒しになっている。
テセラは運良くレンガの山の陰にいたので助かったのだ。
遠くから響く銃撃音が止むと、街中は静まり返り、自分の息遣いが耳につく。
「もう、無理……」
弱音を吐きながら、建物の残骸が転がった道を歩き出す。倒れた軍用車を避けた時、足が柔らかいものを踏んだ。車にばかり意識をとられていたテセラは、足下を確認すると息を飲んだ。
地面の色にそっくりな、砂色の軍服を着た人間が転がっていた。
伸ばしたままの左腕を踏んだのだと気づいたテセラは、思わず口元を抑える。踏んだ時のやわらかな肉と硬い骨の感触を思い出して、吐き気がこみ上げた。
「も……やだ……」
泣きそうになりながらテセラは駆け出す。
やがて息が切れて、建物の陰に休憩のために座り込んだ。そうしてじっとしていると、思わず先ほどの千切れた腕のことを思い出してしまう。
ダメだ。思い出すな自分。
そう思いながら頬を叩いたけれど、想像は止まらない。
(ディオも、あんなふうになっちゃったの?)
敵国ユイエンに町が占領されたのは、ほんの一週間前のことだ。
この町に住んでいた人は、誰一人として遺体も回収できないままになっている。親戚がいたのにと泣いていた隣の家のおばさんは、遺品も捜せないと軍の人間に言われたらしい。
そして人に会いに行ったディオは、そんなことすら知らせてもらえなかった。
ミデンという人に会いに行くと言っていた。その用事から戻ったら、戦争から遠い町へ引っ越そうと言われて、荷物も全部まとめて待っていたのに。
前線から引き上げてきた兵士に取りすがって、ようやく『誰も助からなかった』という絶望的な一言を聞き出せただけだ。
唯一の肉親を失ったかもしれないと絶望したテセラに、隣のおばさんは、もっと前線から遠い町へ引っ越した方がいいと言ってきた。学校の先生にもそう勧められた。幼馴染は既に引っ越していた。
けれど、どこへ移動したらいいというのか。
親戚のあてなどない。もう孤児院へ行くような年齢でもない。
考えて考えて。
前線が隣町から移動したと聞いたテセラは、ズボンに着替え、髪を肩まで切って帽子の中に押し込んだ。そうすると年若い少年みたいに見える。身の安全を守るための方策だったが、ディオの事を思い出すと髪のことが少し気になった。
淡い栗色の長い髪を、艶があって好きだと言ってくれていたディオは、これを見たら度肝を抜かすだろう。
そうして、ディオが死んだとは信じられなかったテセラは、彼を捜しにここまできた。
けれど隣町に到着したとたん、移動していたはずの軍隊が大挙してきて、テセラは逃げ回る以外に何もできずにいた。
行方不明のディオ。
「本当に死んだかなんて、誰も確かめてない……」
自分に言い聞かせるように呟き、唇をかみしめる。
見つからないように隠れているのかもしれない。怪我をしていて、動けないだけかもしれない。
そんな風に一縷の望みを胸にここまで来たテセラだったが、戦場を目の当たりにした今は、もう分かりかけていた。
自分はただ、認めたくないだけなのだ。そんな夢みたいな話は有り得ないと。
考え事をしていたテセラの背後から、不意に銃撃音が響き渡る。
「やだ、近すぎっ!」
驚いて駆け出そうとしたテセラだったが、路地の先で大きな爆発が起き、衝撃波で砂や瓦礫と一緒に宙へ舞い上げられた。テセラは、めちゃくちゃにかき回されたような感覚の後、地面に背中を打ちつける。
数秒、息ができなくなった。
あえぐ口に頬に、体の上にもぱらぱらと砂や小石が降り注ぐ。ようやく息ができるようになると、今度は痛みに悶えなければならなかった。背中が痛い。
でも急いでここを離れなければ。
歯をくいしばって起き上がり、隠れられる場所を探して視線をさまよわせる。
右手にドアがあって、鍵が壊れているのか半開きになっていた。けれど建物の中に隠れたら、追い詰められた時に逃げ場をなくしてしまう。
逡巡している間に、彼女は見つかってしまった。
「おい、お前!」
大砲の着弾点だったのか、石畳のえぐれた道に二人の男がライフルを構えて立っている。
撃たれる!
テセラは建物の中に逃げ込み、そして息を飲んだ。