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正解圏外 – The Outside of the Answer – 灰歴外伝|ヴァルダ旅記  作者: 咲凪すず


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第一幕《灰の外へ》 第1話「残り火」

雨のあとには、匂いが残る。

火のあとには、温度が残る。

人が去ったあとには、声が残る。

見えなくても、そこにあるもの。

触れられなくても、胸に灯るもの。

夜は多くを奪っていく。

形を消し、名を沈め、灯を灰へ変える。

それでも――

灰の底には、まだ赤いものがある。

次の朝へ渡すための、残り火が。

雨の匂いが、まだ街に沈んでいた。

崩れた石壁。

焼け落ちた梁。

濡れた灰。

黒く煤けた路地。

かつて誰かの暮らしがあった場所には、もう生活の音がない。

ただ、雨粒が瓦礫の隙間を落ちる音だけが、静かに響いていた。

その片隅に、小さな影がひとつ。

アリアは膝を抱え、冷えた石の上に座っていた。

服は泥に汚れ、頬には乾いた涙の跡。

細い肩は小さく震えている。

寒い。

空腹だった。

喉も渇いている。

けれど、そんな感覚すら遠かった。

胸の中にある空白が、それよりずっと大きかったからだ。

母がいない。

その事実だけが、幼い世界の輪郭を崩していた。

目を閉じると、最後の声だけが残る。

やさしくて。

あたたかくて。

泣きそうなのに、最後まで自分を抱きしめていた声。

「あなたは、間違わないでね」

意味は分からない。

何を間違わないのか。

どう生きればいいのか。

何を選べばいいのか。

まだ、何ひとつ。

分からない。

ただ――

その声だけは、胸の奥で消えなかった。

そのとき。

ぱち。

小さく火が鳴る。

アリアはゆっくり顔を上げた。

少し離れた瓦礫の陰。

雨を避けるように囲われた場所に、小さな焚火があった。

本当に小さな火だった。

細い枝が、かすかな音を立てて燃えている。

その前に、一人の青年が座っていた。

黒い短髪。

黒い服。

黒いロングコート。

夜の中で、その姿だけが不思議なほど静かに輪郭を持っていた。

白鷺真白。

まだアリアは、その名を知らない。

青年は炎を見ていた。

何かを待つようでもなく、

何かを考えるようでもなく。

ただ、見ている。

アリアはふらつく足で火へ近づいた。

熱が頬に触れる。

凍えていた指先に、少しずつ感覚が戻る。

あたたかい。

それだけで、涙が出そうになった。

沈黙が続く。

焚火の音だけが、二人のあいだを埋めていた。

やがて、アリアの唇が小さく動く。

「……私は」

声が掠れる。

喉が痛い。

それでも、続ける。

「私は、どうすれば良いの?」

火が揺れる。

黒衣の青年はすぐには答えなかった。

しばらく炎を見つめたまま、低く、静かに言う。

「……俺の答えは使うな。」

沈黙。

アリアは顔を上げる。

意味が分からない、という顔だった。

真白の背後――

夜の黒が、ふっと一段深くなる。

そこに、在った。

人の形に近い。

けれど人ではない。

輪郭だけの黒い巨影。

闇より深く、

静かで、

揺らぎもなく、

ただそこに立っている。

炎の赤さえ吸い込むような、底の見えない黒。

幼いアリアには、それが何か分からない。

怖い、とは少し違う。

知らない。

でも、目を離せない。

その黒い輪郭は、まるで――

この夜より、ずっと深いもののように見えた。

ただ静かに。

見ている。

自分を。

そんな気がした。

風が吹く。

焚火が大きく揺れる。

火の粉が舞う。

瞬きをひとつ。

次の瞬間には、もう何もなかった。

夜だけがある。

真白は何も言わない。

振り向きもしない。

まるで、そこに何かがいたことさえ当然のように。

胸の奥で、また母の声が響く。

「あなたは、間違わないでね」

分からない。

まだ、何も分からない。

でも。

ここには小さな火がある。

あたたかい火が。

まだ、消えていない火が。

アリアは膝に手をつく。

力を入れる。

震える足で、ゆっくり立ち上がる。

小さい身体。

それでも、自分の足で。

真白が立つ。

何も言わず、歩き出す。

振り向かない。

呼ばない。

導かない。

アリアは、その背を見る。

少しだけ迷って――

一歩、踏み出す。

もう一歩。

濡れた灰の街を背にして。

消えた灯の跡を越えて。

まだ名前のない道へ。

その小さな背の奥で。

消えたはずの火が、かすかに灯っていた。

残り火のように。

静かに。

確かに。


第1話「残り火」了

火は、燃え盛るときだけ火ではない。

消えかけた赤にも、明日へ渡る熱がある。

声は、届くときだけ声ではない。

胸の奥に沈んで、長く灯り続ける。

夜は深い。

けれど深い夜ほど、小さな火はよく見える。

その火を抱いて、人は歩き出す。

答えではなく、ぬくもりを頼りに。

灰の底で、火はまだ生きている。

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