会社 飲み会 後編 ~告白
ポケットの中で、スマホが震える。
現実に引き戻される。
画面を開くと、誠からのメッセージ。
《ここ。二階な》
店への地図が添付されている。
大樹は小さく息を吐く。
今なら、このまま帰れる。
さっきの手を振る仕草だけを持ち帰って、静かな夜のまま終わらせる事もできる。
・・・いや。
それはない。
「行かないとダメだよな」
誰に言うでもなく呟く。
付き合いの良さは、ほとんど病気だ。自覚はあるし、そう印象づけているふしもある。
仕方ない。
踵を返す。
ネオンの路地を抜け、地図の示すビルへ。
二階のバーは、思ったより落ち着いた照明だった。
ドアを開けると、すぐに声が飛ぶ。
「おっ、戻ってこないかと思ってたぞ」
誠が笑いながらグラスを掲げる。
紫音も振り向く。
「意外と早かったっすね」
カウンター席の端で、葵がちらりと見る。ほんの少しだけ、口元がふくれている。
わかりやすい。
大樹はいつもの調子で歩み寄る。
「そんな事しませんよ」
軽く笑って。
そのまま葵の隣に腰を下ろす。
「ね、葵さん」
少しだけ声を柔らかくする。
機嫌を取るみたいに。
葵は視線をグラスに落としたまま言う。
「別に、怒ってないですけど」
「顔に出てますよ」
「出てません」
誠が吹き出す。
「ほらな」
紫音が面白そうに頬杖をつく。
「大樹さん、送るだけで満足しちゃうタイプなんすか?」
「何それ」
「戻ってこないって、顔してましたよ」
一瞬だけ、言葉に詰まる。図星だ。
バーテンダーに視線を向ける。
「同じのください」
グラスが置かれる。縁を指でなぞる。
氷が、かすかに鳴る。
送るだけのはずだった。間違いない。それ以上は踏み込まない。
軽くて、きれいな距離。それが一番、波風が立たない。
わかっている。
なのに。
バス停の灯りの下で、あの背中が少し遠ざかった時。
胸の奥が、冷えた。あれは、送っただけの男の感情じゃない。少しだけ・・・違った。
戻ってこない顔。
あのまま、もう少し引き止めていたらどうなっていたか。
そんなことを考えた時点で、もう十分だ。
自覚はある。
あるからこそ、黙っている。
誠も、紫音も、葵も。たぶん、気づいている。茶化し半分の言葉。測るような視線。
それでも、誰も踏み込まない。
自分が踏み込まない限り、ただのよくある夜で済むからだ。
それでいい。
今はまだ。
誰かに取られるかも。
あの男みたいに、何時どんな顔で近づいてくるかしれない、という発想がよぎる。その瞬間、胸の奥がわずかに熱を持つ。
自分のものでもないのに。
おかしい。
でも、その熱は消えない。
グラスを傾ける。
「ちゃんと戻ってきたろ?」
いつも通りの声。
人当たりのいい男の顔。
隣で葵が静かに見る。
誠は笑っている。
紫音は面白そうに目を細めている。
全員、わかっている。
それでも。
誰も何も言わない。
言われない限り、これはまだ『始まっていない』。始める気もない・・・はずだ。
グラスの氷が音を立てる。
あの小さく振られた手が、頭から離れない。
ただ送っただけ。たったそれだけで。もう、十分すぎる。
肩をすくめる。
氷がまた静かに鳴る。
さっきまで胸の奥にあった静かな熱は、少し形を変えて残っている。
葵が横目で見る。
「・・・楽しかったですか?」
「何が?」
「バス停まで」
大樹はグラスを持ち上げる。
少しだけ笑う。
「普通だよ」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
グラスを傾けながら、窓の外の夜を思い出す。小さく手を振る姿。
それだけで、今日は十分だった。
熱は消えていない。ただ、奥底に沈んだだけだ。
ふと気づくと、葵の視線はもう外れていた。
誠と向かい合い、スマホを覗き込んでいる。
「来月さ、あそこ行かない? 新しくできたとこ」
「いいですね。紫音くんも来る?」
「俺、バイトなければ」
大樹はグラスを傾けながら、そのやり取りを横で聞く。
いつの間にか話題は、遊びの予定から昔話へと流れていた。
「そういえばさ、百万石まつりってもうすぐだよな」
誠がグラスを傾けながら言う。
店内のざわめきが、ほんの少しだけ地元の匂いを帯びた気がした。
「あー、懐かしい」
葵がすぐに反応する。頬がゆるむ。
「子どもの頃は行ったな~。親に連れて行ってって、ねだってさ」
「私も行きましたよ」
紫音が頷く。
「屋台目当てでしたけど」
「わかるわかる。綿あめとか、型抜きとか。普段ない屋台とか出てるの。今でもあるかな」
「くじ引きとかな。絶っ対、当たらないやつ」
「風船もね」
葵が笑う。
「買ってて言って、やっと買ってもらったんだけど、離して飛ばしちゃってさ、お母さんにえらい怒られた~」
「今じゃ絶っ対、家から出ないけどな」
誠が即答する。
「市内交通規制、面倒」
「それ、私もわかります」
葵が強く同意する。
「車動かないし、人多いし」
三人のテンポは軽い。重ならないのに、途切れない。
地元の共通言語。
俺は氷をくるりと回す。カラン、と小さく鳴る。輪の中にはいる。ちゃんと笑える。でも、どこか一歩外側に立っている感覚が抜けない。
「俺、東京なんで。まだ一回も見た事ないんだよな」
少し間があく。
「あ、そっか」
葵が思い出したように言う。
「転勤でしたもんね。よく一緒に飲むから、忘れてましたよ」
「こっちに来る前に、地元ネタ探しで一応ググったけど」
「それじゃ足りないっすよ」
紫音がにやりとする。
「現地は人の密度が違います」
「勧めてんの、それ?」
誠が噴き出し笑う。
その笑いの向こうで、誠がちらりと俺を見る。
さっき、交差点から戻ってきたときの俺の顔。
あの、隠せていなかった熱。
何も言わない。
けど、忘れていない目だ。
大樹は氷を口に含む。溶けかけの冷たさが、舌の奥に残る。
さっきの熱は、まだ沈んでいる。
会話は続く。
笑いもある。
予定も増える。
それでも。
ふと、思う。
溶けかけの氷の冷たさが、熱の残る喉を静める。
百万石まつり。人混み。交通規制。渋滞。
正直、面倒だと思う。今までなら、間違いなく避ける側だった。
でも。
もし、あの人が「行ってみたい」と言ったら。
頭に浮かぶのは、黒いロングカーディガンが夜風に揺れる姿。
人波の中で、隣に立つ横顔。
交通規制? どうでもいい。人混み? 構わない。
多分、俺は、即答する。行きましょうって。
想像した自分があまりに単純で、思わず苦笑が漏れる。
氷がカランと鳴る。
表面はいつも通り。
笑って、軽口を返して、地元ネタに相槌を打つ。
でも心の奥では、もうとっくに答えが出ている。
● ●
誠が「先、払っとくわ」と伝票をつまんで立ち上がる。
葵は「ちょっとお手洗い」と小さく手を振った。
カウンターに残るのは、大樹と紫音。
照明は低く、ボトルの影が壁に長く伸びている。
スピーカーから流れるジャズは、会話の隙間を埋める程度の音量だ。
紫音が氷の溶けたグラスをくるりと回す。
「大樹さんって」
「ん?」
「人のこと、わりと平気でさわりますよね」
唐突すぎて、笑いそうになる。
「悪い?」
「いや」
口元だけで笑う。
「俺も肩組まれましたし」
「お前デカいから組みにくいんだよ」
「そこじゃなくて」
紫音は視線を上げる。店の灯りが瞳に細く反射する。
「今日、さわらなかったですよね」
その一言で、時間が僅かに滞る。
大樹の手が止まる。グラスの縁にかけた指先が、冷えたガラスに吸いついたみたいに動かない。僅かに冷える。
「・・・」
名前は出ない。出さない。
でも、わかる。
あの時、隣に並んだ横顔。頭に中で繰り返す、ありがとうの声。
「・・・仕事だろ」
自分でも、薄い言い訳だと思う。
「だから?」
紫音は間を置かない。
責めるでもなく、ただ次の石を置く。
短い沈黙。
音楽が遠い。氷の溶ける音だけが、やけに大きい。
「大樹さんって、距離近いのがデフォじゃないですか」
否定はしない。できない。
肩を組む。肘を引く。手を繋ぐ。頭を軽く叩く。
それは俺にとって、呼吸みたいなものだ。男女も、年齢も区別はしない。
「でも今日、並んで歩いても、ちゃんと隙間ありましたよ」
視線が上がる。
紫音は笑っていない。
「送る時も、さわらなかった」
脳裏に浮かぶ。
ドームの灯りの下、数センチの空白。
伸ばせば届く距離。
でも、伸ばさなかった手。
大樹はグラスを傾ける。氷はもうほどんど形を失っている。
「さわる必要なかっただけだ」
自分で口に出した瞬間、嘘くさい言い訳だと思う。
必要はあった。
ふれたかった。
でも。
「へえ」
紫音が小さく息を漏らす。
「大事にしてる時って、さわらない人いるらしいですよ」
大樹の胸の奥が、ざらつく。
「どこ情報だよ」
「美大情報。俺ら観察眼って大事なんで」
小さく笑う。
冗談の体裁。でも、目は笑っていない。
「形にしちゃうと、壊れそうなやつってあるじゃないですか」
言葉が、静かに落ちる。
「距離、詰めすぎると、自分のものみたいになるでしょ。でも本気の時って、それが怖くてできない」
怖い。
その単語が、内側のどこかに引っかかる。
確かに、あの数センチは怖かった。
ふれたら、戻れなくなる気がした。軽口も、冗談も、今までの立ち位置も。
「俺、ちょっと意外でした」
「何が」
紫音は少しだけ考える素振りをして、言葉を選ぶように言う。
「大樹さん、短い付き合いですけど、ずっと取る側の人だと思ってたんで」
紫音は淡々と言う。
取る。何を、とは聞かない。
確かに、そうやってきた。取るつもりなんてなくても、結果的にそうなった事もある。そうしても、深くなる前に笑って終わらせる。
「でも今日、守る側の顔してた」
喉が鳴る。
取る。
守る。
その言葉が妙に重い。
どっちでもないふりをしてきた。
本気じゃない顔で、全部やり過ごしてきた。
「大樹さんにも、そういう顔あるんだなって」
大樹は視線を落とす。自分の顔なんて、自分では見えない。
「どんな顔だよ」
紫音は即答しない。少し考えてから言う。
「取られたくない人の顔」
静かな声だった。
責めてもいない。からかいも優越感もない。ただ、事実を置くみたいに。
胸の奥に、音もなく染み込む。
大樹は小さく笑う。
「十九に言われる筋合いないな」
「十九だから言えるんですよ。恥ずかしい台詞も、遅れてきた厨二病って事で大目に見てください」
一瞬だけ空気が緩む。でも紫音はすぐに続ける
「大人って、余裕あるふりうまいですけど。今日の大樹さん、余裕なかったですよ」
図星だ。
交差点を走った時から、ずっと。
紫音はグラスを置く。
「さわらなかったんじゃなくて、さわれなかったんですよね」
静かに言う。
「壊したくないから」
言葉が、まっすぐ胸に入る。
否定が出てこない。
いつもなら軽口で、冗談交じりに切り返す事なんて簡単だ。今もできるはず。でも、否定する言葉を自分の口から出したくなかった。
その沈黙こそが、答えだと自分でわかる。
会話はそこで途切れる。
ちょうど誠が戻ってくる。
けれど。
取られたくない。
その言葉が、胸の奥に落ちる。否定しなかった自分に一番驚いているのは、自分だ。
大樹は空になったグラスをただ見つめた。
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