第九話 古い地図
あの後――
私はこの説明のつかない異常な現象をスマホで調べ続けた。
原因さえ分かれば、何か解決の糸口が見つかるのではないか。そんな、縋るような気持ちが指を動かす。
『声』がしたり、『音』がしたり、『匂い』がしたり。
これは所謂、オカルトという類の話だ。
マンションにおいて似たような話は沢山あった。
その殆どが以前に人が死んでいる場所――
『事故物件』に該当する場所で起こっている。
でもここは新築。
これまで、そもそも人が住んでいない。
「買ったばかりのマンションなのよ……?」
失意のあまり、口からは独り言が漏れた。
ページを開ける度に落胆しつつも、私は似たような事例を探し続ける。
その時、ふと『土地が土地だからな』と言った島田さんの言葉が脳裏をよぎった。
「もしかして……『土地』に何かある?」
検索エンジンに戻り、この地域について思いつくキーワードを片っ端から検索欄に突っ込んでいく。
そこで検索欄に気になる単語を見つけた。
『○○地区 郷土資料館』
沢山ある関連キーワードの下にそっと置かれたこの言葉。
引き寄せられるようにそのページを開ける。
地元の郷土史を研究している施設だという事は分かったが、詳しい事は殆ど載っていない。
次の日、私は悠人をベビーカーに乗せて正午前に家を出た。
重苦しい鼠色の雲が空を覆っている中、ベビーカーの上の悠人はご機嫌にオモチャをしゃぶっている。
ベビーカーを押しバスを乗り継いで訪れたのは、街の外れにある郷土資料館。
元は白い建物だったのだろう。黄ばんだ外装は、所々灰色にくすんでいる。
重たいガラスの戸を開けて中に入った。
中に入ってすぐの所で私を出迎えたのは、この街の公式マスコットキャラクターの大きなパネル。その横のホワイトボードには、施設の概要が書かれた黄ばんだ紙が貼ってある。
見渡せるほどの狭い館内。
イベントホールとしても使われているのだろうか。
中央の開けた空間にベンチがいくつか置かれていた。
館内に人はまばらで、暑さから逃げてきたのであろう町内の老人がちらほらと席に座っている。
そこを囲むように所狭しと並べられた展示物は、時代ごとに分かれていた。遺跡から発掘された土器の破片から昔の農具や生活用品まで、展示物も幅広い。
案内板に従って、人のいる事務室を横切り、衝立で区切られた資料コーナーに入った。
ネットには、資料タイトルの一覧だけがあった。
その中から幾つか、この地域の歴史に関するものだけを事前にピックアップしておいたのだ。
書籍としては世間に発行されていないのであろう資料や本を古い本棚から抜き出し、本棚に前にあったテーブルに積み上げる。
ここに来る道中で眠ってしまった悠人を起こさないよう、パイプ椅子をそっと引いて腰掛けた。
でも――
地域の歴史を辿っても、なんの手がかりも見つけられない。
ただ時間だけがすぎていく。
諦めようとした時、紛れ込むように挟み込まれた一つの古い地図を見つけた。
手書きの地図を印刷したものだろう。滑らかとは言えない線で駅周辺の道がざっくりと書き込まれている。
地図記号もないその簡素な地図の中には一つだけ文字が入っていた。
【共有地】
聞いたことのない単語。
スマホをすぐに取り出し、現在のマップと見比べながらマンションの立っている場所を特定する。
一部分だけ、“共有地”にマンションがかかってる?
「共有地って何かしら」
白と黒で印刷されたその地図は、その共用地だけが赤い斜線で塗りつぶされていた。
共用地とは何か検索しようと、スマホで検索欄をタップする。
「何か調べ物ですか?」
突然耳に届いた声に顔を上げると、一人の男性が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
白髪の沢山混じった初老の男性。その胸には職員であることを示す名札がついている。
「あっ……お邪魔しています」
「公共施設ですから、畏まらなくて大丈夫ですよ。お探しの資料は見つかりましたか?」
「あ……その」
言い淀む私に、彼の視線がテーブルに置いたの資料の山に移った。ただそれだけで、彼は納得したように「ああ」と声を漏らす。
「もしかして、駅の近くにできたマンションを買おうと思っているのかな?」
「そう……ですね、そんな感じです」
彼は穏やかな空気を崩さないまま「それほど緊張されなくても大丈夫ですよ」と私の向かい側の席へと座った。
彼は資料の山から幾つかの資料を手に取って口を開く。
「マンションを購入する前に、その土地で起こった災害を調べに来られる方が何人かいるんです。水害なんかは特にね」
彼はこの地区に流れている川についての資料を抜き出し手前に積みあげる。私は、その彼の前に手元の地図をそっと押し出した。
「あの……古い地図を見つけたんですが、この共有地って何ですか?」
その言葉に、彼の頬がぴくりと反応した。
すぐに穏やかな笑みへと戻った彼は「あー」と濁すような声を出す。
「共有地は特定の個人ではなく、集落のコミュニティ全体で所有、管理してきた土地の事です」
途切れた言葉の隙間で、彼はベビーカーに乗った悠人に視線を向けた。言葉を選ぶような短い沈黙。
「この土地の共有地は、マンションが建つ際に売却されたんですよ」
「そうですか……ありがとうございます」
引っ掛かりを覚えながらも、私は笑顔を向ける。
彼は「他に何かわからないことがあればお声がけください」と席を立った。
テーブルに広げた古い地図。
その地図に記載された赤い斜線の周りをそっとなぞった。ざっくりとした地図なので確かではないが、私達の部屋がある付近じゃないだろうか。
「ん……うーっ……」
「あ、起きちゃったか。ごめんね、もう帰るね」
寝起きでぐずる悠人をベビーカーから抱き上げて、片手だけで本を元の場所に戻していく。
オムツを替えて、ミルクもあげて、帰りにスーパーにも寄らなくちゃ。
頭の中でやるべき事をまとめながら、全ての資料を片付けた事を確認し、資料コーナーを出た。
「あの辺りのマンションは買わんほうがいいよ」
「えっ……?」
ぽつりと呟いたのは、資料コーナー前のベンチに座っていた老人だった。
缶コーヒーを隣に置いて、彼は杖に両手を乗せじっとこちらを見つめている。
「どういう意味ですか?」
ぐずる悠人をあやしながら、ゆっくりと彼に近づいた。
彼は深い皺が刻まれた目を細めて、虚空を見つめたまま口を開く。
「よく、あんなところに住むよねぇ」
独り言のように吐き出された言葉。
ドクン、胸の中で心臓が跳ねた。
背骨に冷たい水を流されたような悪寒がする。
点在するベンチ。そこに座る他の老人達の目が、いつのまにかこちらに集まっていた。
でも、誰も何も言わない。
嫌な予感が胸をよぎり、指先が震える。
なんとか抑えようと、悠人を抱く手にグッと力が入った。
「ちょっとちょっと! 山下さん!」
事務室から飛び出してきたのは先程の職員。「変な事を教えないでくださいよ」と穏やかな笑顔を顔に貼り付け、山下さんと呼ばれた老人に歩みを進める。
山下さんは職員の言葉に返事を返すことなく、黙って缶コーヒーに口をつけた。
周囲の老人達はそっと視線を逸らし、自分達の世界に還っていく。
まるで何も無かったみたいに。
私はそっとその場を離れた。
重いガラス戸を開けて外に出る。
「何があるの……?」
ポツリと呟いた声は、曇天に吸い込まれていった。
悠人が限界だというように、声を張り上げながら泣き始める。
「ごめん……ごめんね……オムツも、ミルクもできてないよね」
それでも室内に戻りたいとはどうしても思えなくて、ベビーカーを片手で押しながら、私は急いでその場を離れた。




