第八話 見えない糸口
向かい合わせに座った私と紗奈ちゃん。
私達の間には、このマンションのパンフレットが置かれた。
開かれたページには、私達の部屋と同じ3LDKの間取りが載っている。
「まず、何がどこで起こってるのか教えてくれる?」
私は赤色のペンを紗奈ちゃんに差し出した。
「恵理さん……信じてくれるんですか?」
紗奈ちゃんの震える唇から声が絞り出される。
その瞳は不安に揺れていた。
私はゆっくりと頷く。
信じてもらえない事の心細さが、誰よりもわかるから。
紗奈ちゃんの溢れた涙はポタポタとパンフレットの端にシミを作った。
「怖いと感じた場所だけでもいい。印をつけてみて」
ペンを受け取った紗奈ちゃんの目が、パンフレットの上に落ちた。
震えるペン先が滑るように移動する。
左側の洋室に一つ。
お風呂場に一つ。
キッチンに一つ。
赤い丸はどんどん小さくなり、増えていった。
「紗奈……ちゃん?」
紗奈ちゃんの手は止まらない。
次々と赤い丸を生み出し、ペン先が紙を掻く音はどんどん大きくなる。
「ねえ、紗奈ちゃん!」
ガリガリと抉るような音。
紗奈ちゃんの目は、ただ真っ直ぐに間取りを捉えていた。
そして最後に、リビングとその隣の部屋に跨って大きな丸が幾重にも書き込まれる。
「……っ!!!」
咄嗟に紗奈ちゃんの手を掴んだ。
その瞬間、ビクリと肩を震わせた紗奈ちゃんは叫び声をあげる。
パンフレットの間取りは、血痕のように赤で満たされていた。
糸口なんて見えなかった。
紗奈ちゃんはパニック状態で母親に電話を掛け「結愛を連れて帰りたい」と泣き叫ぶ。
その時、紗奈ちゃんは610号室で起こる異変についても話してしまった。電話先から聞こえる母親の心配する声は、次第に疑いへと変わっていく。
『紗奈……貴女、産後うつってやつじゃないの?』
「そんなんじゃない! 本当に、部屋に何かいるの!」
『大輝さんは何してるの?』
「だから! 大輝もおかしいんだって!!」
「気のせいよ」「疲れてるのよ」と必死に宥めようとする母親との応酬は、まるであの時の私と健人のようだ。
『大体、貴女がこっちに来たとして、大輝さんはどうするの?』
「大輝は……仕事辞めてもらって、そっちに連れていく」
『何馬鹿なこと言ってるの!』
叱咤する声に、紗奈ちゃんは言葉を詰まらせた。
母親としての自覚とか、甘いという言葉の雨がスピーカーから聞こえてくる。
『近々様子を見にいくから、甘えずに頑張りなさい。ほら、結愛が泣いてるわよ』
その言葉を残して、電話はプツリと切れた。
紗奈ちゃんは項垂れたまま、力無くスマホを置く。
その視線は、ただ虚空を見つめていた。
気づいた時には、酷い泣き声が部屋を包んでいた。
顔を真っ赤にした結愛ちゃんが、必死に紗奈ちゃんを呼んでいる。
冷たい空気を纏うように、ゆっくりと立ち上がった紗奈ちゃんは、ベビーベッドから結愛ちゃんを抱き上げた。
涙の痕と充血した眼球。瞳は黒く濁っていて、かける言葉が見つからない。
「産後うつ……なのかな。私がおかしいのかな」
「そんな……」
そんな訳ない。
でも、その言葉を紡ぐことはできなかった。
誰にも理解してもらえない、この不可解な現象の数々。
簡単に肯定も否定もできない。
紗奈ちゃんはお世話セットを詰め込んだマザーズバックを手に持ち、重い足取りで玄関へと向かう。
「恵理さん、沢山甘えちゃってすいません」
「大丈夫だよ。本当、いつでも来ていいから」
いかないで。
そう願った私の想いは、彼女に届かなかった――
「うん……でも、ちょっと自分で頑張ってみます」
明確に引かれた一線。
ゆっくりと閉まる扉の後に残されたのは、重たくのしかかるような静寂だった。
【3LDK 67㎡ Eタイプ間取り】




