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【事故物件】の隣に住んでいます  作者: 白波さめち


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第七話 匂い


「こんなに臭いのに? 何か、何か腐ってるんだ……何かが部屋で腐ってる……」


 彼は再び壁に向き直り、ガリガリと音を立てて壁紙を爪で削り始めた。

 真新しい壁紙が逆立ち、傷がついていく。


「大輝! やめて!」


「うるさい! 匂いの元を断たないと、結愛が病気になるだろうが! どこから、どこから匂うんだ」


 紗奈ちゃんが張り詰めた声で叫ぶが、大輝さんは止まらない。紗奈ちゃんは私にそっと結愛ちゃんを渡して、大輝さんへと詰め寄った。


 背後から襟を掴み、思いっきり引くと、大輝さんはどさりとその場で尻餅をつく。


「いい加減にして! 先に片付けてよ! ほら、部屋見て?!」


 目を瞬かせた大輝さんは、荒れた部屋を見渡した。


「……ごめん」


 でもその顔に罪悪感などは微塵も感じない。

 

 ゆらりと立ち上がった彼は、酷く荒れた部屋から出てきた。結愛(ゆあ)ちゃんや私に一瞥も暮れず、何度も名残惜しそうに洋室の扉を振り返りながらリビングへと戻っていく。


 部屋から出てきた紗奈ちゃん。

 その後ろにある荒れた部屋は、やけに暗く見えた。


 そっと扉が閉じられる。

 バタンと閉じた扉から漏れ出た空気。

 それはやけに冷たくて――


 酸っぱい、腐ったような香りがした。

 

「……恵理さんありがとうございます。そろそろ戻らないと悠人君が」


 私の腕からそっと結愛ちゃんを抱き上げた彼女に促され、610号室の外に出た。

 

 外の冷たい空気が、今度は身体を入れ替えるように包んでいく。振り返ると、610号室の中はまるで外と切り離されているように(よど)んで薄暗く見えた。

 

 その中で床に散らばった物をよろよろと集める大輝さん。窓の光が逆光となり、一瞬、腰の酷く曲がった老人のシルエットが浮かび上がる。

 

 声をあげそうになって、すぐに視線を逸らした。

 

 違う。見間違いだ。ただの、見間違い。

 自分に強く言い聞かせながら、震える意識を全て紗奈ちゃんにだけ向ける。


「来てくださってありがとうございました。本当に……」

 

 結愛ちゃんを抱いたまま、私を見送る紗奈ちゃんの手は微かに震えていた。


「紗奈ちゃん」


 名前を呼んで、唇を結んだ。


 私はただの隣人。


 余計な事を言うべきじゃないと健人にも言われた。


 でも――

 どうしても放置しておくなんてできなかった。

 

「もし……部屋にいるのが嫌だと思ったら……うちにいつでもきて。迷惑なんて思わなくてもいい。深夜でも……いいから」


 紗奈ちゃんは、どうしてと言いたげな表情で私を見る。


 この言葉が正解かは分からない。

 不審に思われたかもしれない。


 私は静かに彼女の答えを待つ。


 紗奈ちゃんは一瞬後ろを振り返った。

 描いていた幸せな未来に裏切られた彼女の痛みが、その横顔から伝わってくる。彼女の抱く結愛ちゃんの服に、深く皺が寄った。


 その顔が再びこちらを向いた時、紗奈ちゃんの瞳には小さな諦めが灯っていた。


「恵理さん……ありがとうございます」


「頼ってね、約束だよ」


 結愛ちゃんを抱く手に、そっと自分の手を重ねる。


 軽く手を振って609号室へと戻った私は、扉の内側で小さな決心をした。

 

 健人には相談できない。

 彼は全部気のせいだと思ってる。

 私の行動を介入しすぎだと責めるだろう。


 私だけで、できる事を考えるんだ。


 『隣人』の私は、あの610号室から二人を逃した。

 

 毎日のようにメッセージを送り、声を掛けることで、我が家に二人を招く。


 紗奈ちゃんは何も言わなかったが、たびたび我が家を訪れた。


 大輝さんは仕事に行ったりはできているようだ。

 しかし家に帰るとやはり『匂い』の元を探すという。

 彼女の表情は徐々に暗く、重たくなった。

 そして、悠人がずり這いを始めた頃――


「恵理さん……あのね」


 時計の針が正午を周り、眠った結愛ちゃんをベビーベッドに置いた紗奈ちゃんは、こちらに視線を向けないままに呟いた。


「おかしい事、言ってもいいですか?」


「どうしたの?」


 紗奈ちゃんは弱々しい笑みを浮かべる。

 その指先は、眠る結愛ちゃんの頬をそっと撫でた。


「部屋の中で……視線を感じるんです。まるで、誰かに見られてるみたいな」


「視線?」


 聞き返すと、紗奈ちゃんはこくりと頷いた。


「ふとした時にね。振り返っても誰もいないんですけど、ずっと見られてる気がする」


 ベッドの柵に置かれた手。

 赤ちゃんが産まれたからとネイルを辞めた彼女の爪先は白くなっていた。


「あと、笑い声がするの。どこから聞こえてるのか分からない……子供の笑い声」


 彼女は結愛ちゃんを眺めながら、違和感をかき集めるように目を細め小さく首を振る。


「結愛の声じゃないの。別の部屋からでもない。同じ空間から聞こえるんです。その声がしたらね、床が軋むの」


 顔を上げた彼女は、左を向いた。


 それは610号室と面するリビングの壁。


「――()()()()()()()()()


 沈黙が落ちる。

 

 無音の中、浮かび上がるのはアナログ時計の針の音と――

 それに混じった、子供の『声』と『足音』だ。


「あっ……悠人!!」


 私のそばでおもちゃを口に入れていた悠人は、それを投げ出し地面を這う。

 何かに引き寄せられるように、声を上げながらその小さな手を壁に伸ばした。


「ダメっ……!!!」


 私は咄嗟にその手を捕まえた。

 もがこうと足をばたつかせ、不満の声を漏らしながら手を伸ばす悠人を引き寄せ、ギュッと抱きしめる。


 悠人の小さな身体に、私の心臓の音が響いた。


 


 

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