第六話 不穏の再燃
紗奈ちゃんから『里帰りから帰った』というメッセージを受け取った私は「昼食を食べに来ない?」と部屋に招待した。
母が帰った後、一人で日中悠人を見ることの大変さを痛感したからこそのお誘い。
自分のお昼を用意することすら赤ちゃんがいると一苦労なのだ。
首が座った悠人を抱っこ紐で背負って、手早く簡単にパスタを作る。
ちょうど出来上がった頃、紗奈ちゃんが我が家のチャイムをおした。
「紗奈ちゃん久しぶり。そして結愛ちゃん、はじめまして」
紗奈ちゃんの腕に抱かれる、まだふにゃふにゃの小さな赤ちゃんに顔を近づける。悠人からはもう薄れてしまった赤ちゃんの優しい香りがした。
紗奈ちゃんと結愛ちゃんをリビングに案内し、ベビーベッドにいる悠人の隣に結愛ちゃんを寝かす。
月齢は数ヶ月しか離れていないはずなのに、大きさが全然違って思わず笑みが溢れた。
毎日見ていると分からないけど、悠人はどんどん大きくなっているんだと実感する。
ダイニングテーブルに出来立てのパスタを置いて、向かい合わせに座り二人で手を合わせた。
一口食べた紗奈ちゃんは「美味しい」と口元を綻ばす。
「お昼まで頂いちゃってすいません」
「大丈夫だよ。お昼を準備するのも大変でしょう?」
「まあ……結愛は比較的よく寝てくれるんですけど……」
結愛ちゃんに視線を向けた紗奈ちゃんの顔にふと影が落ちた。
「どうしたの?」
来た時から少し元気がないように感じていたのだが、寝不足だと思っていた私は首を傾げる。
「大輝が……」
お皿にフォークを置く微かな金属の音。
俯いたことで、前髪が目にかかる。
「部屋でずっと匂いを辿ってるんです。帰ってきたら、家がめちゃくちゃで」
「匂いを……?」
首をこくりと縦に振った紗奈ちゃん。
前髪から覗く瞳は揺れていた。
「実は、今日大輝が休みで……さっきまで喧嘩してたんです。めちゃくちゃにした部屋を片付けてって言って」
苦しげな笑みを浮かべながら「匂いなんてどこからもしてないのに……」と呟いた。
様子のおかしくなった家族。
それが霧島さんのお母さんから聞いた話とリンクしているようで、心臓が警告のように早くなる。
「恵理さん、本当に匂いがするか一度確かめに来てくれませんか? 私がいくら匂いなんてしないって言っても、大輝は聞いてくれなくて」
悪寒が全身に広がった。
いくら自分に言い聞かせても、本能が告げている。
行っちゃダメ。危険だよって。
本当は近寄りたくなんかない。
でも、目の前で悩む紗奈ちゃんと産まれてすぐの結愛ちゃんの二人を放っておくなんてできなかった。
「うん、役に立てるか分からないけど……」
紗奈ちゃんは「ありがとうございます」と小さく礼をして、残りのパスタをゆっくりと口に運ぶ。
時計の音に金属の合わさる音が組み合わさり、不協な和音を奏でていた。
「悠人君は置いていくんですか?」
結愛ちゃんを抱いた紗奈ちゃんが、玄関で私を振り返って尋ねた。
「眠ってるから、少しなら大丈夫」
本当は大丈夫なんかじゃない。
目を離すなんて普段なら絶対にしないことだ。
でも、あの部屋に悠人を連れていく事はできない。
靴を履いて扉を開けると、冷たい風が頬を刺した。
隣まで十歩も歩かない。先導する紗奈ちゃんは610号室の扉の前で一度立ち止まり、私に視線を向ける。
「散らかってるんですけど」
片手でゆっくりとドアノブを引く。
ガチャリという音。
開かれたドアから見えたのは、左側の部屋から飛び出した雑多な荷物だった。
その奥に見えるリビングも荒れている。
床には物が散らかり、観葉植物は倒れ、土が溢れている。一目見て分かる異様な荒れ具合。
ごくりと唾を飲み込んだ。
澱んだ空気に混じって、ほんの微かに酸っぱい匂いが鼻をつく。
「上がってください……変な匂いしますか?」
一瞬嗅いだ、酸味のある香り。
紗奈ちゃんが声を掛けた時にはすでに消えていた。
変な匂いというほどでもないし、その家特有のものと言われれば納得してしまうほどの微かな匂いだった。
私は緩く首を振る。
靴を脱いだ紗奈ちゃんに続いて、廊下に入った。
紗奈ちゃんが言っていた「左側の部屋」で、すぐに異様な大輝さんの姿が目に入る。
「……ない。どこだ。どこからだ」
私たちが部屋に入ったことにも気づかない様子で、大輝さんは四つん這いになり壁際に鼻を押し付けている。
まるで何かを探しているみたいに。
「大輝、恵理さんが来てくれたよ?」
紗奈ちゃんの声は、どこか諦めたように乾いていた。
ゆっくりと振り返る大輝さん。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
入院中に見かけた青年の面影はどこにもない。
目の周りは黒く落ち込み、その首筋や腕には、自分の爪で掻きむしったような真っ赤な筋が幾重にも走っていた。
「ああ……恵理さん……この部屋、臭くないですか?」
「え……?」
私は首を振る。
大輝さんは眉間に皺を寄せ、穴が開くほど私をじっと見た。
その瞳は、やけにギラギラと嫌な光を纏っていて私は思わず一歩後ろに下がる。
消し去ったはずの不安が、確かな形となって再び私の胸を焼いた。




