第五話 入居
平日の夕方に響いたチャイムの音。
扉を開けると、入院中に仲良くなった紗奈ちゃんが立っていた。
「恵理さん?!」
目を丸くしながら、私と表札を見比べる彼女。
そのお腹は大きく膨らみ、臨月である事はすぐにわかる。
「え、紗奈ちゃん?! どうして?!」
「隣に越してきたんです! すっごい偶然ですね!」
廊下に出て隣を見ると、開け放たれた610号室に引越し業者が荷物を運び込んでいる。
ざわりと胸が波立った。
喉が鳴り、心臓がドクンと強く跳ねる。
「恵理さんから◯◯駅辺りの話を聞いて、いいなって思って候補に入れたんです。そろそろ決めなきゃって時に、このマンションの部屋が安く売りに出てて。運命かな? と思ってすぐ大輝に契約してもらったんですよ」
両家が頭金を少しずつ負担してくれたことで、なんとかペアローンを組むことができたと紗奈ちゃんは嬉しそうに語った。
しかしその言葉は、頭が真っ白になった私の耳を静かに通過していく。
明るい髪色の大輝と呼ばれた若い男性は、はしゃぐ紗奈ちゃんを見て苦笑いを浮かべた。
「ほら、紗奈。そろそろ片付けに戻らないと」
「あっ、そうだね! 恵理さんがお隣なんてとても嬉しい! これからよろしくお願いしますね!」
紗奈ちゃんは紙袋を私に渡して、手を振った。
大きなお腹に手を当てて「お家を片付けるまで待ってね」と優しく語りかける彼女を見ながら、そっとドアを閉じる。
嘘でしょ……?
閉じたドアにもたれ掛かり、激しく鼓動する心臓を上から押さえつけた。
ドアの音に驚いたのか、目覚めた悠人が泣き、私を呼ぶ。
抱き上げなきゃいけないのに――。
嫌な予感に支配され、身体が動かない。
ドアに触れたままの指先に、冷たい無機質な温度が移る。
どうしよう。
どうしたらいい?
自殺未遂をした霧島さん。
電車に飛び込んだ夫の晴道さん。
娘の幸せが失われ、崩れ落ちた女性の泣き顔が脳裏をよぎった。
♦︎ ♦︎ ♦︎
「大丈夫だって」
帰宅した健人に不安を漏らすと、彼は軽い調子でそう答えた。
「健人は分かってない! 健人だって暴れる旦那さんの声を聞いたでしょ?!」
「鬱かなんかだろ。俺だって、恵理に何かあったら思い詰めてたと思うもん」
スーツから部屋着に着替えた健人は「パパが帰ってきましたよー」と甘い声を出しながら、ベビーベッドから悠人を抱き上げた。
最近笑うようになった悠人は、健人の顔に焦点を当てながらニコニコとご機嫌だ。
「事故物件でもあるまいし。心配しすぎだよ」
「でも……」
健人は聞こえてないから笑えるんだ。
あの部屋には何かいる。
言葉を飲み込んだ私に、健人は「恵理は心配性だなぁ」と肩をすくめた。
「それより良かったじゃん。入院中、沖田さんと仲が良かったろ? 上手く付き合えるといいな」
健人に悪気はないと分かってる。
古い訳あり物件ならまだしも、新築マンションを買ったからこその謎の安心感。
以前の私も当然同じように思っていた。
新築という安心感そのものが、私達を縛り付けているみたいだ。
手早くオムツを変えた健人は、俯く私を見て笑みを漏らした。
「恵理は気にしすぎ。不幸な事があったから無理はないと思うけど、沖田さんに変な事言うなよ?」
ローンを組んで部屋を買ってしまった以上、簡単に引越しもできないんだ。
それはどちらの家も同じ。
健人の言う通り何も起こらなければ……
ただ悪戯に紗奈ちゃんを不安にさせてしまうだけになる。
「分かってる……」
「うん。それよりさ、動物園っていつから行けるかな?」
「あはは……まだ早いよ」
健人は「早くおでかけもしたいな」とオムツを変え終わった悠人を抱き上げた。
「成長が楽しみだね」
「そうだね。保育園のこととかも調べ始めなきゃ」
「え、早くない?!まだ首も座ってないよ?!」
「一歳までは家にいるけど、保活だっけ。早く動いた方がいいんだってさ」
生活にゆとりはない。
健人の職場と私の職場には距離があったため、結婚を期に退職してしまったのだ。
その上マンションを購入したから、現状月々の収支はマイナスになる月の方が多い。今は独身時代にお互いが貯めていたお金を少しずつ切り崩して、マイナスを補っている。
2年くらいは何とかなると健人はいうけれど……。
貯金ができない生活を続ける訳にはいかないもの。
頬をパチンと両手で叩いた。
違う事を考えよう。
やらなきゃいけない事は沢山ある。
「すぐご飯にするね」
悠人が産まれてから、なかなか思うようにご飯が作れてない。荒れたままのキッチンに私は急いで戻った。
♦︎ ♦︎ ♦︎
時間は忙しなくも穏やかに過ぎていく。
610号室に向ける緊張感は、少しずつ凪いでいった。
それは、冬が終わり春の暖かさを感じるようになってからも、お隣になった紗奈ちゃんが笑顔だったから。
午前中、私は悠人を連れて短い散歩をする。
それを知った紗奈ちゃんは「一緒に行きたい」と付いて来るようになった。
悠人を抱っこし、二人でマンションの周りを歩く。
これまでに見つけたオススメのお店や近所の情報を紗奈ちゃんに教えた。
今日の話題は引越し後の片付けについてだ。
「屈めないのって不便ですよね。でも、産まれたら赤ちゃんに手一杯になっちゃうって聞くから今のうちに片付けないと」
「あはは、そうだね。悠人に振り回されてるおかげで夕食を作るのも手一杯だよ」
この時「手伝いに行こうか」という言葉を私は飲み込んだ。
健人が休みの日なら、悠人をみてもらって手伝うことはできる。
でも、あの扉の内側に入る勇気はまだ持てない。
紗奈ちゃんは特にそんな言葉を期待している様子もなく、部屋の使い方に話を広げた。
「そうだ、恵理さんの部屋って寝室はどこにしてるんですか?」
「玄関入って左側の部屋にしたよ。ウォークインクローゼットがあるから、そこが将来的に夫婦の寝室かな。今は三人で寝てるけど」
「うちは右側の部屋にしたんです。リビングの隣を間仕切りって寝室にしても良かったんですけど、大輝は夜勤もあるから眠れないかなって。でも、隣り合っちゃいましたね」
紗奈ちゃんは「夜泣きがうるさかったらごめんなさい」と苦笑いした。
「私も左側の部屋が良かったなぁ。大輝が左側の部屋で何か変な匂いがするって言うんだもん」
「変な匂い?」
「そう。私はわからないんですけど……消臭剤撒いても取れないらしくて。エアコンかなぁ……」
心臓がぎゅっと縮こまる。
大丈夫、違うはずだと自分に言い聞かせながら口を開いた。
「……紗奈ちゃん。部屋でさ、おかしな事とかない?」
「おかしな事?」
紗奈ちゃんは「んー」と小さく唸りながら視線を空に向けた。なるべく平静を装って、私は彼女の言葉を待つ。
「匂い以外は特にないかな。まあ、築浅とはいえ中古ですからね」
私はホッと息を吐いた。
この様子なら、きっと何もない。
だから大丈夫。
祈るような気持ちを込めて「そっか」と微笑みを返した。
紗奈ちゃんはその後すぐ、陣痛が来て無事出産した。
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