第四話 新しい家族
空室となった610号室。
それなのに『声』と『音』は続いた――
毎日、正午を回ってしばらく経つと聞こえてくる。
隣にはもう、誰もいないはずなのに。
610号室と接するリビングの壁がずっと怖くて、部屋の中の小さな物音にまで過剰に反応してしまう。
だから、日中はなるべく外に出た。
お金を使うことはできないから、当てもなくうろうろと外を歩き回ったり、公園のベンチや図書館で過ごす日が続いた。
そのせいかもしれない。
次の妊婦健診で切迫早産の診断が出た私は、そのまま入院することになった。
正直、入院することになって少しホッとしている自分がいる。
買ったばかりの新築マンションの一室。
それが怖くなったなんて、健人には言えない。
安静を守り、ただベッド上で過ごす時間は、あの部屋に比べれば苦痛に感じなかった。
週に三日は健人が来てくれたし、似たような理由で入院していた他の妊婦と仲良くなれたから。
『無事に出産できるのか』という不安を抱えながらも、明るく振る舞う妊婦仲間達。
新しい家族との未来を守ろうとするその空気は、あの部屋で起こった出来事を静かに上書きしてくれた。
入院して三ヶ月後。
秋の終わりに、私は“悠人”を出産した。
少し早めの出産にはなったが、元気な男の子。
退院する日、私は元いた部屋の仲間達のところへ、悠人と健人を連れて挨拶に向かう。
「恵理さん! 退院して落ち着いたら、今度は子供を連れて会いましょうね!」
寂しげな表情を全面に出しハイタッチを求めたのは、入院中に仲良くなった沖田紗奈さん。
付き合った彼氏との間に子供ができ、結婚や新居の用意が整う前に入院が決まったらしい。ベッドの上で結婚の書類を揃えたり、新居について調べる頑張り屋さんだ。
私より7つ年下の21歳。明るく楽しい彼女は、いつも私の気持ちを上向きにさせてくれる存在だった。
「紗奈ちゃんも、退院したら教えてね」
別れを告げて、数ヶ月ぶりにあのマンションへと戻った。
玄関に足を踏み入れた瞬間、懐かしい『我が家の匂い』が温かく私を出迎える。
「ほら、ここが悠人のお家だよ」
悠人を抱きながら、健人はご機嫌でリビングに入る。
後に続くと、部屋が様変わりしていた。
低い位置にあった細々とした物が綺麗に片付けられている。
コンセントの差し込み口にはキャップが嵌め込まれ、テーブルの角にもゴム製のカバーがついていた。
まだ絵本の入っていない可愛らしい小さな本棚。
その横には、開封されていないオムツの箱。
「ベビーベッドは、ここで良かったかな?」
一人で組み立てたのだろう。
リビングと隣り合った洋室にベビーベッドが置いてあった。本当に家族が増えたんだと、胸が満たされていく。
「うん……ありがとう健人」
「育休取れなかったから、これくらいはな」
「十分だよ。お母さんも明日から来てくれるし」
「今日は俺が全部やるから。とりあえずお昼ご飯食べよっか」
悠人を私に預けた健人はキッチンに向かった。
時計を見ると、ちょうど正午を回ったところ。
心臓が小さく跳ねた。
嫌でも神経が張り詰め、耳に意識を集めてしまう。
そして聞こえてきた『音』
ぴくりと身体が反応した。
あの壁に自然と視線が向かう。
「……恵理、どうかした?」
キッチンからの呼びかけ。
「ねぇ、音……聞こえるよね?」
キャッキャ――
はしゃぐ甲高い声。
トトトトトッ――
軽やかな足音。
微かな音だが、ずっと壁の向こう側から響いてる。
健人を見ると、彼は首を傾げていた。
ジャーッと、お鍋に水を入れる音がキッチンから流れてくる。音は混ざり合うことも、掻き消されることもなく、二つとも確かに存在していた。
「……いや? 何も聞こえないよ?」
血液が氷のように冷たくなり全身を駆け巡る。
「本当に? 健人……本当に聞こえないの?」
縋るように問いかけたが、健人はお鍋に水を入れながら「気にしすぎだよ」と笑っただけだった。
知っている世界から切り離されたように、足元が揺ぐ。
見えない何かが私を絡め取って、そちら側へと引きずりこもうとしているような。
心臓の音が静かに秒針の速度を追い越した。
足音が移動する。
まるで重力がないかのように、床からすぐ隣の壁に這い上がっていった。
「う……うわぁぁあん」
駆け上がる音と共に、腕の中の悠人が突然火がついたように泣き出した。
今まで聞いたことのない、恐怖に引き攣ったような叫び声。
きっと『コレ』が霧島さん一家を壊したんだ。
『足音』は――
嘲笑うように。
誘うように。
壁面を歩き続ける。
健人は慌てて鍋を置き「どうした?!」と駆け寄ってきた。
私は泣き叫ぶ悠人の背中を優しく撫でながら、壁を睨みつけた。声に出さず、心の中で叫ぶ。
この子は、私が守る。
指一本触れさせない。
こっちに入ってこないで!
その途端、ぴたりと音が止んだ。
張り詰めていた部屋の空気が少し柔いだ気がして、安堵の息を吐く。冷たくなった指先は、悠人の背中の熱をようやく感じ取った。
柔らかい頬にそっと頬を重ね抱きしめる。
心地の良い、ミルクのような優しい香りが私を包み込んだ。
「オムツかな? それともお腹が空いたの?」
泣き声を上げ続ける悠人にそっと尋ねて、笑みを漏らす。
大丈夫。
貴方は絶対、私が守るから。




