第三話 空室
次の日の朝。
コーヒータイムの前に着替えた健人が、霧島さんの様子を見に行った。非常識な時間の訪問だが、昨日の騒ぎを考えれば仕方ない。
しかしチャイムを鳴らしても霧島さんは出てこなかった。
「……やっぱり家にいないのかな」
「どうだろう……。DVだとしたら、怪我を見られたくなくて出てこないのかも」
険しい顔をした健人は、コーヒーを傾けながらスマホで調べ物をしていた。騒音トラブルやDVに関する不穏な単語が、画面の端から少しだけ見える。
「警察の相談専用電話っていうのがあるんだって。また暴れる音が聞こえたり、霧島さんを見かけない日が続くなら相談してみてもいいかもしれないな」
「うん……」
真剣に家庭内暴力を心配する健人には言えなかった。
私の不安は霧島さんの安否とは別の方向に向かっているって。
また昼になればあの『声』と『足音』がするのだろうか。
昨日の声は本当に旦那さんのものだったのか。
考えるだけで得体の知れない不安が胸を黒く侵食していく。私の不安を察したように、健人は少し表情を緩めた。
「昼間、少し出かけてきたら? ランチでもしてさ」
マンションの購入と妊娠が重なって、少し家計は苦しい。だからランチなんて殆ど行くことがなかったけれど、健人の提案に私は頷いた。
気持ちを切り替えなきゃ。
きっと妊娠で不安定になっているからだと自分に言い聞かせる。
健人が家を出て、ある程度の家事を済ませた後。
時計の針が12時を指す前に家を出た。
長時間いられるように、読みかけの文庫本が鞄には入っている。
共用部の廊下をエレベーターに向かって歩いていると、酷く顔を青くした初老の夫婦とすれ違った。
切羽詰まった彼らの表情に思わず振り返ると、夫婦は610号室の前で止まり、鍵を開けて中に入っていく。
……霧島さんの親戚?
どちらにせよ、鍵を持つ誰かだ。
私はそっと息を吐き、扉が開いたままのエレベーターに乗り込んだ。
その数日後。
騒がしくするので、と菓子折りと共に訪れた初老の夫婦が610号室……霧島さんの引っ越しを私に告げた。
その夫婦は、先日廊下ですれ違った二人だった。
「霧島さん……引っ越しされるんですか?」
表情の固い女性にそう尋ねると、彼女は涙を浮かべ唇を震わせた。
「娘の……夫が亡くなってしまって」
その言葉と共に、彼女は声を上げて泣き始め、玄関前に崩れ落ちた。
二人は霧島さんのご両親だった。
彼女の夫なのであろう男性は、慰めるように彼女の背中に手を当てる。しかし、張り詰めた糸が切れたかのように泣き続ける女性は立ち上がる気配を一向に見せない。
男性は、困惑を浮かべて引っ越し作業が進む610号室に視線を向けた。
「あの……作業が終わるまで、こちらで休んでください」
「いえ……そんなご迷惑をお掛けするわけには」
「霧島さんには短い間でしたが、お世話になっていたんです。ですから……」
恐縮しつつも男性は彼女を私に預けた。
彼女の肩を支え、部屋に招いた私は温かいお茶を淹れて彼女の前にそっと置く。
先程よりは落ち着いた様子だったが、彼女はまだ静かに涙を流していた。
「霧島さんのご主人に……なにがあったんですか?」
私はただの隣人。
踏み込んでいい立場じゃない。
それでも、真実を確かめたい自分を抑えることができなかった。
彼女は私の質問に少し戸惑ったが、どこかに吐き出したかったのかもしれない。
ポツリポツリと涙を流したまま静かに語り始めた。
「娘がおかしくなったんです」
「え……? 霧島さんが?」
おかしくなったのはご主人じゃ?
その言葉を私は静かに飲み込んだ。
「最初……孫の晴太が部屋でおかしな行動を取るようになったと娘から連絡がありました。誰もいない所に向かって話しかけていたり、突然走り出したり、ベランダに勝手に出たりするって」
その時を思い返すように、彼女はお茶の入った湯呑みを見つめたまま言葉を重ねる。
「晴太がバルコニーをよじ登って、危うく下に落ちそうになったと連絡があった時に、私は娘を怒鳴りつけたんです」
その事件があったのは、私が実家に帰ってすぐのこと。
1ヶ月以上前の話だ。
息子から目を離すべきじゃない。
何かあってからでは遅いのよ。
祖母として至極真っ当な事を、彼女は霧島さんに電話で注意したそうだ。
ただ――
そこで私は一つ疑問が浮かんだ。
掃き出し窓から見えるバルコニーに視線を向ける。
「霧島さんの部屋は、バルコニーの下に何か踏み台になるような物を置いていたんですか?」
バルコニーにある手すり壁は高い。
足をかける場所もない、つるりとした材質は『小さな子供が乗り越えるのを防ぐため』だと販売業者から説明を受けた事を思い出す。
ファミリー向けだからこそ、子供の安全に配慮した作りになっているのが、このマンションの売りだった。
「……どうだったかしら。前見た時はなかったと思うけど」
沈んだ瞳のまま女性は声を震わせた。
晴太君は三歳。彼が椅子でも持ち出さない限りは手すり壁をよじ登るなんて不可能だ。
誰かが晴太君を押し上げた。
それしか考えられない。
背中に冷たい汗が伝い、肌が泡立つ。
震えそうになる腕をそっと掌で押さえた。
「その後から……娘はおかしくなっていきました。晴太が知らない子供に見えると言ってみたり、部屋の中に誰かいると叫びながら深夜に電話をしてきたことも」
彼女の口からカチカチと歯が打ち合う音が聞こえた。
ただ一点を見つめる瞳は、ここでないどこかを映しているみたいだ。
掠れるような声で「もっと真剣に向き合っていれば良かったのかも」と顔を歪め唇を結ぶ。
ふと顔を上げた彼女は、610号室と同じ作りの我が家を見渡した。
その視線が最後に向かったのは、リビングにある脱衣所への扉だった。
「娘はその後、お風呂場で自殺未遂を図りました」
「えっ……」
「幸い、夫の晴道さんが早く帰ってきたので命は助かりましたが、今も様子がおかしくて精神科の病院に入院しています。晴太は私たちが預かっていて」
上手く言葉が出てこない。
それが本当なら、610号室に昼間は誰もいなかった事になる。
じゃあ、あの『声』は?
あの『足音』は……誰のもの?
「夫の晴道さんは、仕事もあるのでこちらに残ったのですが、先日仕事に向かう途中に駅で電車に飛び込んだんです」
日付を尋ねると、それはあの騒音騒ぎがあった翌日のことだった。
「その……亡くなり方も異常で……。乗った駅でも、降りる駅でもなかったのに、止まった駅で突然席を立ち上がり向かいのホームを通過する特急電車に飛び込んだと」
運ばれた時、まだ微かに息があったご主人は「赦して下さい」と呟き続け息を引き取ったという。
私が彼らとすれ違ったのは、病院から連絡を受けて死んだご主人の保険証を取りに来たタイミングだった。
迫り上がる胃液に抗えず、私は席を立ってトイレに駆け込んだ。
朝食の残渣が便器の中を汚す。
屈んだ私の体勢に不平を漏らすように、お腹の中で赤ちゃんがぐにゃりと動いた。
その後、引越し業者が610号室の荷物を全てトラックに積み終えたのを見届け、彼女の夫が迎えにきた。
彼らは何度も私にお礼を言う。
家財は全て、一度霧島さんの実家へと運ぶそうだ。
「あの……娘から、何か聞いていませんでしたか?」
霧島さんの母親は、最後に縋るような視線を向けて私に尋ねた。
壁を一枚隔てた610号室の『音』と『声』が脳裏をよぎり、ごくりと喉が鳴る。
静まり返った共用部の廊下。
視界の端に見える610号室のドアが、静かに私の言葉を待っているような気がした。
私は出てきそうになる言葉を全て飲み込む。
視線を伏せて「ごめんなさい」と小さく首を振った。




