第二十七話 澱み続ける土地
帰りの電車の中、私は佐藤先輩にメッセージを送った。
正気を疑わず、話を聞いてほしかったのかもしれない。
どうすればいいかを一緒に考える相手が欲しかった。
あんな風におかしくなった彼を置いて逃げ出しておいて、今さら都合の良いことを言っているのは分かってた。
でも、この『異常』を共有できる相手がもう彼しかいなかったんだ。
『家にいる』
駅の改札を抜ける頃、短い返信があった。
私の謝罪も、祖母に話しを聞きに行ったことも全て無視した上での言葉。
胸にチリリとした引っ掛かりを覚えながらも、道の先にそびえ立つマンションを見上げた。
お母さんから丸一日、目を離してしまってる。
絶対『匂い』の元を探さないでと言い含めてはきたけれど。
画面に表示されたままのメッセージに視線を向けた。
待っているとも取れるメッセージに「少しだけ」と自分に言い聞かせる。
エレベーターに乗り込み『6』のボタンを押した。
鈍い振動音と共に5階を通り過ぎ扉が開く。
自宅と全く同じ距離を歩けば、目の前には610号室の扉。
意を決してチャイムを押す。
でも、誰も出てこない。
メッセージを送ってみるが、既読もつかなかった。
どうして……?
吸い込まれるようにドアノブを握った私は、ゆっくりとその扉を引く――
ガチャリ。
開いてしまった扉に息を呑む。
勝手に入るのも……いやでも家にいると言ったのは佐藤先輩だ。
そんな言い訳を心の中で反芻しながら、玄関で靴を脱ぎ廊下に踏み込んだ。
ヒヤリとした得体の知れない空気が頬を撫でる。
「佐藤先輩……?」
暗い廊下に私の声が響く。
返事はない。ただ、白い壁紙の廊下が酷く長く感じた。
突き当たりに見えるリビングへの扉。
磨りガラスから、小さな光が漏れている。
「入りますよ?」
一歩、一歩廊下を進み、リビングの扉に手をかける。
開いたそこには、何もなかった。
ほとんど生活感のない新居同然の空間。
開け放たれた間仕切り。隣の洋室には家具一つない。
閉じられた遮光カーテンの隙間からは、外の茜色が真っ直ぐに部屋に差し込んでいた。
広いリビングには不釣り合いなローテーブルが一つだけ。
その上にはコードが飛び出した小さな箱とカメラが置いてあった。
これが例の定点カメラ?
カメラの前に座ると、レンズの横に小さなライトが灯っていた。
まだ動いてる。
導かれるようにそのカメラを手に取った。
カメラの横にあるカバーを外すと、SDカードが刺さってる。
「何か……映ってるかも」
カメラの隣にあった小箱を漁ると、カードリーダーが入っていた。それを自分のスマホと接続し、取り出したSDカードを差し込む。
読み込みが遅い。
はやる気持ちを抑えきれず、ただひたすらにスマホを睨みつけた。
その時――
画面が一瞬暗転し、鏡のようになったディスプレイに自分の顔が映り込んだ。
その後ろに、あるはずもない黒い影。
「……っ!!」
悲鳴を押し殺して振り返るが、そこには誰もいない。
室内は相変わらず、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
掌は嫌な汗でぐっしょりと濡れ、蒸し返るような熱気の中で、背筋だけが氷を押し当てられたように冷え切っていた。
「佐藤先輩?」
小さく呼びかけるが、返事はない。
画面に視線を戻して、表示ボタンを押すとカードが読み込まれてる。
フォルダを開くと数日分の動画がずらりと並んだ。
その中から迷わず、先輩と別れたあの日の動画をタップする。
映像の中の610号室は、今のこの部屋と同じ無音の空間だった。
夜が明けても先輩はリビングに姿を現さない。
もしかして、ずっと外を転々としていたのだろうか。
完全に陽が落ちた頃、佐藤先輩は姿を現した。
ただ――様子がおかしい。
首が完全に折れたかのように下を向いてる。
一歩踏み出すごとに、ぐらりぐらりと振り子のように頭が揺れた。
まるで操り人形みたいに。
リビングを彷徨う彼の肩から、ずるりと鞄が落下する。
後ろを振り返ると、現実の床と同じ場所にその鞄が転がっていた。
佐藤先輩は家の中をただ彷徨い歩いた。
フレームから消えては現れ、消えては現れを繰り返す。
それと同時に、音がスピーカーから漏れた。
足音。
咀嚼音。
何かを引っ掻くような音。
何かを引きずるような音。
「なに? なんなのこれ」
明らかに画面の中を彷徨い歩く佐藤先輩から発せられた音じゃない。
マイクのすぐそばで撮ったようにしか聞こえない。
目に見えない何かが、マイクのそばで蠢いてる。
その静かな音の洪水に混ざるのはスマホの通知音や着信音。
鞄から鳴っているのだろうか。
音がする度に画面端の鞄が僅かに震えた。
頻回に鳴り響いていた着信音は、日を追うごとに回数が減っていく。
佐藤先輩は、リビングに現れても鞄に視線を向けることも、手に取ることもない。
指は次々と動画を再生する。
最大速度で再生される狂った映像。
同じ動画をずっと再生しているみたいに、佐藤先輩は不気味な音が響き続ける部屋を彷徨っていた。
「あと……3つ……」
朝の光が部屋に差し込んだのを最後に、佐藤先輩は姿を消した。
ガタガタガタと音が響き渡る。
そこからは静寂だけが映し出されていた。
部屋に差し込む光だけが時間を示しているだけ。
最後の動画。日付は今日。
茜色が室内に差し込んだところで、再生速度を元に戻す。
しばらくすると画面の中の鞄が震え通知音が響いた。
縋るような願いを込めながら、私は画面をじっと見つめる。
佐藤先輩が鞄からスマホを取り出してくれるはずなんだ。
『家にいる』と短い返信を返すために。
それなのに、彼は現れなかった。
代わりに響いたのは、リビングの扉が独りでに閉まる音。
その直後、玄関のドアの開閉音がスピーカーから響く。
『佐藤先輩?』『入りますよ?』
私の声が、スマホのスピーカーから聞こえる。
おかしい。
あのメッセージは誰が送ったの?
なんで、独りでに扉が閉まったの?
誰が――私を出迎えに行ったの?
ガチャリと開かれるリビングのドア。
映し出されたのは私じゃない。
人の形でもない。
真っ黒な塊だった。
「イヤッ……!!!」
スマホを投げ捨て、床を這うようにずりずりと後ずさる。
黒い塊からは手が生えてた。
足が生えてた。
それも幾数本。
それがうぞうぞと蠢いて。
早くなる呼吸。
今にも飛び出しそうな心臓。
それでも足が動かない。
へたり込む私の周りで床が軋んだ。
パタパタ
トットットッ
子供のような、いくつもの足音。
「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ」
足音は、床からも、壁からも、天井からも響き始める。
こんなの現実じゃない。
こんなこと、ありえるはずがない。
感覚のない足を無理やり動かして、何度も転びながらリビングから飛び出した。
「誰かー助けてくださーい。おーい。誰かー。来てくださーい」
廊下中に響き渡る声。
幻聴だ。だって、佐藤先輩はこんな声じゃない。
この部屋に老人なんて住んでない。
あと一歩で玄関という所で、肺を突き刺さす、強烈な腐敗臭が鼻を掠めた。
嫌だ。違う。出なくちゃ。
頭は必死にそう叫んでいるのに、引き寄せられるようにドアノブに手をかける。
ガチャリ――
開けた先の洋室にいたのは、佐藤先輩だった。
クローゼットのドアノブに向かってお辞儀をするように背中を丸め、その先にある顔はどす黒い赤紫色に変色していた。
その首とドアノブを繋いでいるのは、何重にも巻かれた安っぽいビニール紐。
数匹の蝿が彼の周りで羽音を鳴らし踊ってる。
「あ……佐藤……先輩……」
足先を、生温かい何かが濡らした。
それが佐藤先輩から流れてきた体液だと気づいた時には、私の身体は佐藤先輩の死体の隣に引き摺り込まれていた。
胃の奥のモノが一気に喉元まで逆流する。
口の中に苦く酸っぱい粘液が溢れ出し、私はたまらず全てを吐き出した。
「嫌……っ。嘘……こんなの……嘘」
私の口から吐き出されたのは胃液じゃなかった。
黒くてドロリとした何か。
その中で、小さな虫が死んでる。
ピンク色や茶色い何かが蠢いてる。
「嫌…………イヤァァァア」
ひとりでに閉まる扉。
身体を包み込む腐敗臭。
助けを求める誰かの声。
どれに当たったんや?
祖母の声が脳裏をよぎった。
黒く塗りつぶされていく視界の中で――
湿った、冷たい指が、私の首を優しくなぞった。
了
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