第二十六話 禁忌
大学が夏休みに入り、私はなるべく母と過ごした。
家の中には、今にも千切れそうな糸の上を歩くような緊張感がずっと漂っている。
病院に連れて行っても、母の訴える匂いの原因は不明のままだった。
気休めの、なんの効果もない薬を出されただけ。
医者からは更年期特有の幻臭かストレスが原因なんじゃないかと軽く扱われておしまい。
家にいる時は逃げるようにひたすら酒を煽る父。
その傍らで、目を離せばすぐに『匂い』の元を探そうと這いずり回る母。
私は必死になるしかなかった。
消えかかった日常に、二人と自分を繋ぎ止めようと努力するしか。
それでも日常は静かに崩れていく。
まるで砂でできたお城みたいに、ザラザラと音を立てて。
それを元に戻す力も方法も私にはなかった。
『この土地に何かあるんじゃないか?』
佐藤先輩の言葉が呪いのように脳裏にこびりついて離れない。
気づけば、私はあの時の佐藤先輩と同じように怪異に縋ることしかできなくなっていた。
この出口のない現実から逃れるための、唯一の禁忌であることを知りながら。
何もできない暗闇の中で「原因」という名の答えを探すしか、納得ができなかったのだ。
縋るような思いで向かったのは祖母が暮らす郊外の老人ホームだった。
土地を売ったお金で祖母が入居したその施設は、まだ新しく白い壁が周囲の緑によく映えている。
大きな窓から光が降り注ぐ開放的なエントランス。
家の中の重苦しい空気とは無縁のその空間に、少し呼吸が軽くなった。
受付に面会を伝えると、スタッフが「ちょうどレクレーション中だったから」と車椅子に乗った祖母を部屋まで連れてきてくれた。
半年ほど前、家族で会いにきた時よりさらに小さくなった気がする。
「おばあちゃん、久しぶり」
屈んで声をかけると、祖母は微睡から覚めるようにゆっくりと顔を上げた。
「はて、どちらさんでしたかね」
首を傾げ、他人に向けるような微笑みを浮かべる祖母。
あの古い家で過ごした私との日々は、祖母の記憶から消えていた。
それが金を使って祖母を切り捨てた罰のように思えて、ギュッと胸が痛む。
「おばあちゃん、真緒だよ」
「真緒……?」
名前を言っても分からない。
本当に……忘れちゃったんだ。
「ごめんね……」
枯れ木のように細い手をギュッと握って、膝に頭を預けた。
祖母は「あらあら」と驚きながらも反対の手で私の頭を撫でてくれる。
「おばあちゃん。あのね、教えて欲しいことがあるの。私の家も一部持ってた『共有地』って何?」
私の頭を撫でていた祖母の手がぴたりと止まった。
一瞬の静寂のあと、髪と一緒に頭皮がぐいと引っ張られる。
無理やり頭を上げられた私の目の前にあったのは、先日の父と同じ、嫌悪感を滲ませた祖母の顔。
「あんた。そこに行ったんか?」
「いたっ……痛いよおばあちゃん。離して……っ」
「あそこは行ったらあかん言うたやろ!! 入ってもあかん。触ってもあかん。あの土地はな、未来永劫、泥を被せたままそっとしとけ!」
ぶちぶちと髪が抜ける音が耳に届く。
それでも祖母の手が緩むことはない。
「あそこに関わると頭が狂うんや! ずっとそう教えてきたやろ!」
祖母の白く濁った瞳が、至近距離で私を射抜く。
口から飛び散った生温かい唾液が容赦なく顔面に降りかかった。
「何が見える? 何が聞こえるんや?! 疱瘡が見えるんか? それとも間引きした子供か?! 腐った匂いはしとらんか?!」
騒ぎを聞きつけたスタッフたちが「どうしたんですか!」「島田さん、離してください!」と駆け寄ってくる。
「虫を食いたくなるか? どれに当たったんや?! 」
数人がかりで引き剥がされてもなお暴れる祖母の口から、どろりとした唾液が溢れた。
車椅子の上でのけぞりながら、祖母は絞りだすような叫び声を上げ続ける。
「あかんのや、あそこはなんもしたら! 絶対に入るな! 何もするな!」
「一度処置室に!」
スタッフが車椅子を押して祖母と私を引き離した。
廊下の突き当たりまで遠ざかっても、祖母の喉を掻き切るような絶叫は止まらない。
その叫び声を聞きながら、私は床にへたり込んだ。
抜けた髪が散らばる床をただ呆然と見つめる。
鈍い痛みが走る頭皮。
頬にこびりついて乾き始めた、温い唾液の不快な感触。
喉の奥から上がってくる嗚咽を必死に飲み込む。
おばあちゃん……もう遅いんだよ。
私達、今そこに住んでるんだよ。
掘り返され、人が住むための大きな箱ができてしまった。
沢山の柵に縛られた私達は容易に出ていくことすらできないんだ。




