第二十五話 壊れゆく日常
身体の震えを必死に抑え込みながら家路を急いだ。
喉元に残る指の感触を、記憶の隅へ追い出そうと必死に足を動かす。
早く安心したかった。
鍵のかかる家に入り、さっきの出来事はすべて「病んでいる人の突発的な凶行」だったのだと思い込みたかった。
エレベーターを降り、早足で廊下を進むと聞き慣れた声が耳に届く。
お父さんだ。
ただその声は、聞いた事もないほど険しく荒ぶっていた。
弾かれたように扉を開けると、はっきりと聞き取れなかった父の怒号が津波のように押し寄せる。
「匂いなんてどこからもしないって言ってるだろ!!」
靴を乱暴に脱ぎ捨て、すぐそばにある左側の部屋に駆け込んだ。飛び込んできたのは、目を疑うような酷い惨状。
空き巣でも入ったのかと思うほどに、全てのものが引き出され床に散らばっている。
壁紙はズタズタに切り裂かれ、床に鉛色の包丁が転がっていた。
その惨状の真ん中で、母は床にへたり込み、赤く腫れた頬を押さえて震えている。
母の目の前には、真っ赤な顔をして拳を振り上げる父が立っていた。
「お父さんやめて!! どうしたの?! 何があったの?!」
父の腕にしがみついた私は、必死にその動きを止めた。
交互に2人の顔を見る。
母はただ怯えていた。涙を流すこともできずに、ガタガタと身体を震わせている。
一方、父の肩は激しく上下し、その瞳にはこれまでに見たこともないような嫌悪と苛立ちが渦巻いていた。
「真緒……こいつ、ずっと訳のわからんことを言ってるんだ。腐った匂いがする、死体がある、壁の裏に何かが詰まってるって……!!」
父の言葉に、全身の血が引いていくのを感じた。
腐った匂い……?
佐藤先輩も……そんな事を言っていた。
いや違う。
それは関係ない。
だって、私には匂いなんて全くしないんだから。
私はゆっくりと2人の間に滑り込み、お母さんに向かって腰を下ろした。
頬を押さえる彼女の手をそっと上から包み込む。
「お母さん、病院行ったの?」
お母さんは静かに首を振る。
怯え切ったその瞳は静かに部屋の惨状を映していた。
「赦して……ください」
どきりと跳ねる心臓。
私は震える母を壊れ物を扱うように抱きしめた。
違う。やめて。
お願いだから、重ならないで。
どうしても誰かに否定して欲しくて、母を抱きしめたままゆっくり振り返る。
荒い息を吐きながら、父は冷酷な眼差しのまま私達を見下ろしていた。
「お父さん。共有地って何?」
「なんで……お前がそれを」
「教えて……お願い」
お父さんは息を飲み込んで、信じられないとばかりに私を見る。
乱れた呼吸。ぐらりと父の心が揺れたのが分かった。
「何もない。土地は土地だ」
「お父さんっ……!」
短い葛藤の末、その言葉を吐き出した父は私達に背を向けた。
何も見たくないというように、後ろ手で乱暴に閉じられた扉。
重たい静寂の中、緊張の糸が途切れた母の静かな嗚咽だけが響いていた。
「お母さん、一緒に片付けるから……」
私は真っ先に、床に落ちていた包丁を拾い上げた。
切り裂かれた壁紙。
そこから覗く石膏ボードにも深い傷がついている。
これはどうやって直せばいいのだろう。
そう思いながら、誘われるように裂かれた壁に手を伸ばした。
――ぬちゃり。
壁に触れたとは思えない生温かく粘り気のある感触。
反射的に手を引っ込めた。
指先を見るが、何もついていない。
濡れてもいない。
でも、確かに温度と湿り気があった。
人の粘膜に触れたようなその感触に、背筋が再び凍りつく。
「違う。何もない」
震える声で自分に言い聞かせながら、恐る恐る、もう一度だけ指先を壁に近づける。
さらりとした紙のような質感が指に届いて、安堵の息を吐いた。
だけど、私の指先はあの生々しい温かな感触を鮮明に残ししたままだった。
服に擦り付けても消えてくれない。
気のせいだ。
思い込みだ。
ただ、そう願う事しかできなかった。




