第二十四話 共有地
「って……ダメですね。すぐ思い込もうとしちゃう」
私はブンブンと首を振り、息を大きく吸った。
確かに不幸が続いた。
でも沖田家の奥さんはすごく若かったし、慣れない育児でノイローゼになることだってあるだろう。
そもそも奥さんが子供をお風呂に沈めたって話も、その現場を誰かが見た訳じゃない。
お父さんが610号室に行った時に、溺れた子供の救急処置を行なっていた。
その後、奥さんが急に駆け出したり泣き出したりしたから、お父さんが勝手にそう思っただけ。
子供の鬼ごっこすら、瀬戸一家の子供の名前が出たから不気味に感じてしまっただけだ。
子供が起こすトラブルなら他にも沢山あった。
廊下で走り回る子供がいるとエントランスに注意書きがされていたし、上の階から子供が虫の死骸を投げ捨てて遊んでたなんて話も前聞いた気がする。
客観的に状況を把握しなきゃ。
一度ペンを置いて飲み物を手に取った私は、それを一気に飲み干した。
その向かいの席で、佐藤先輩は書き込まれた紙を手に取り険しい表情を浮かべている。
「これさ……部屋に何かあるんじゃなくて、この土地に何かあるんじゃないか?」
どうしても何かしらの因果関係を見つけ出そうとする、彼の執念の籠った指先がマンションの平面図を指で囲った。
「このマンションってさ、建つ前には何があったんだ?」
「田んぼと空き地と数軒家が建ってたくらいです」
「そうなのか?」
「私はここが地元ですから。再開発が決まってマンションが建つ時に、家と田んぼを手放して新しく建ったあのマンションに引っ越したんですよ」
当時、お父さんは大興奮だった。
細々と続けていた小さな田んぼ、古くなった家と土地が高値で売れるのだ。
祖母を老人ホームに入れるお金すらなくて、自宅介護を覚悟していた母も肩の荷が降りたと安堵していた。
『奨学金なんて借りなくても父ちゃんが大学に行かせてやる』
そう言って私の頭をワシワシと撫でた父の誇らしげな顔を覚えてる。
佐藤先輩はため息を吐きながら私に視線を向けた。
「そういう事は……早く教えてくれよ」
「お金の話になるからつい」
私は鞄から、両親の寝室で拝借してきた古い地図を取り出した。
マンション建設時の自治会資料に紛れ込んでいた、当時の土地の所有者を示す地図だ。
「ここに書いてある苗字が、当時の土地の所有者ですね。ここが線路で、こっちが駅、この太線が道路です」
手書きで書かれた『島田』の名前。
路線も近くて、今でいえばマンション内でも安い区画になっている。そう思うと我が家の土地はそれほど大きくない。
この地図で見る限り、マンション建設業者は複数人の所有者から土地を買った事になる。
「ここは? 共有地って書いてあるけど……。ちょうど俺たちの部屋の真下にかかってるよな」
先輩が指差したのは、赤い斜線が引かれた不自然な形の土地だった。枠線はあるが、所有者の名前ではなく、真ん中にただ『共有地』とだけ記載されている。
「そこは元々空き地でした。田んぼを辞めた家が放置してるとばかり思っていたんですけれど……複数人で所有していたので田んぼにできなかったんですかね」
よく見ると、島田家もその土地の権利を一部を所有していた。
あの空き地が自分家の土地だったなんて、誰からも聞いた事がなくて私はふと首を傾げる。
その時――
ふと昔の事を思い出した。
マンション建設の説明会から帰ってきたお父さんと、それを迎えたお婆ちゃんが大喧嘩がしたんだ。
『あの土地に何もするな!』
普段口数も少ないお婆ちゃんの絞り出すような怒号は、自室にいた私の部屋まで響いてきた。
何の話をしているのかと、こっそり自室から出て聞き耳を立てに行ったっけ。
当時は、お婆ちゃんが細々とやっていた畑や、先祖代々受け継いだあの小さな田んぼを売るのが嫌なのかと思っていたけれど……。
ガタリ
突然揺れ動いたテーブルに、ふと横を見た。
立ち上がった佐藤先輩が、まるで這い回る虫を追い払うような手つきで、自分の首や頬をペタペタと指で触っている。
「赦してください」
「え……?」
「赦してください。赦してください。赦してください」
虚空を見つめる先輩の瞳には、私の姿は映っていないようだった。
壊れた機械のように同じ言葉を繰り返しながら、彼はスカーフの下の皮膚を、顔を、爪が食い込むほどの力で掻き毟り始める。
「ちょ……ちょっと! 佐藤先輩?!」
爪の隙間に、じわりと赤黒い血が滲み出す。
それでもなお肉を削ろうとするその手を、私は咄嗟に掴んで止めた。
その瞬間、虚空を彷徨っていた彼の瞳がギョロリと動き、私を射抜く。
「なあ、疱瘡出とるか? 出とらんよなぁ?」
先輩の声は、先ほどまでの怯えた大学生のものじゃない。
何年も声を使っていなかった老人のような、枯れた響き。
「先輩……何言って……きゃっ」
佐藤先輩の手は、彼の全体重と共に真っ直ぐ私に伸びた。
バランスを崩した私は、そのままソファーの上に仰向けに倒れ込む。
逃げる間もなく、その上に跨った佐藤先輩の指が、私の喉に深く食い込んだ。
「うっ……あっ……」
気道が塞がれ息ができない。
目の前に迫る彼の顔。先ほどまで掻き毟っていた頬から血が滴り、私の上着を汚していく。
「俺の事も殺す気なんか? 出とらんって言え。出とらんやろ」
視界の端が白く点滅し、肺の空気が搾り出される。
抵抗する指先も……もう力が入らない。
このままじゃ、殺される。
最後の力を足に集め、彼の腹部を思いっきり蹴り飛ばした。
彼は小さな呻き声を上げ、私の上から転げ落ちる。
彼の身体はテーブルに激突し、ドリンクのグラスや筆記用具、広げた資料が宙を舞った。
大きな音と共に床に転がり落ちた先輩は、頭を打ち付けたのか一瞬動きを止めた。
起き上がった私は、鞄だけを引っ掴み出口に向かって一直線に走る。
冷静さなんてかけらも残っていなかった。
私を見下ろす、黒く濁った彼の瞳が脳内にこびりついてる。
怖い――
ただその感情だけが頭を支配していた。
【土地台帳付属地図 写し】




