第二十三話 定点カメラ
かなり参っているのだろう。
佐藤先輩は片手で顔を覆い、静かに俯いた。
「どこからか分からないんだけど、部屋中が臭いんだよ。寝室が特に匂うんだ。腐敗臭っていうのかな。動物の死骸が何日も放置されてるみたいな……窓を開けても薄まらなくて」
廊下にある左右の洋室の窓は小さい。共用部の廊下に面して一つしかないから、風が通り抜ける事はない。
佐藤先輩はあまりの匂いに寝室を廊下の左側の洋室から、向かいの部屋に変えたらしい。
その話を聞いて、訝しげな顔をしていたみたい。
佐藤先輩の話は、次第に異常な熱がこもりはじめた。
「絶対あの部屋には何かいる。何かいるんだ。ほら、これ見て」
震える手で差し出されたのはスマホの画面。
映っているのは、無人のリビングだった。
「定点カメラ、本当に付けたんですね」
「そうだよ。それらしいものが撮れればと思ったんだ。この時は本当に……」
佐藤先輩は震える指先で動画を再生した。
ただの室内が画面には表示され続ける。
「先輩……一体何が」
「ここだよ、ほら見て」
正午過ぎ。画面の端でカーテンが揺れて、太陽の光が断続的に部屋に差し込んだ。
パタパタパタ
トットットッ
小さな小さな乾いた音。
「……聞こえるだろ? 人の足音だ」
足音と言われれば、そう聞こえないこともない。
でもそれだけ。それだけなのだ。
後は、配線の接触不良を思わせる小さなノイズくらいだろうか。
「これが……幽霊か何かだって言いたいんですか? 私にはノイズと家鳴りのようにしか……」
「真緒ちゃん」
先輩は真剣な瞳で真っ直ぐに私を見た。
彼の指先は、画面にある一点を指している。
それは画面の端で揺れるカーテンだった。
「これさ、窓開いてないんだ。換気扇もついてない。それなのに、何故か毎日揺れてるんだよ。まるで誰かがこの近くで動き回ってるみたいに」
ごくりと唾を飲み込んだ。
断続的な光は、しばらくすると何事もなかったように消失した。
カーテンの揺れがおさまったのだ。
それと同時に、あの家鳴りも。
説明のできない不可解な現象。まさにそれだった。
「じゃあ……引っ越したらどうですか? 知り合いの頼みなら、事情を話せば分かってくれるはずです」
しかし佐藤先輩は顔を横に振った。
苦虫を噛み潰すように眉間に皺を寄せ「できないんだよ」と消え入りそうな声で呟く。
「俺……一度留年して奨学金を打ち切られてるんだ。謝礼金は、もう前期の学費に使ったんだよ。引っ越せば今度は後期の学費が払えない」
人脈もあって陽キャなイメージしかなかった佐藤先輩。
スマートに人生を謳歌しているように見えていた彼は、学費という重い鎖に繋がれた、ただの追い詰められた学生だった。
「……わかりました」
「真緒ちゃん?」
「私には、これが本当に先輩の言う『何か』なのかは分かりません。心理学を学んでいる人間としては、認知の歪みによって齎されたものなんじゃないかという認識です」
「そんなこと……!!」
反論しようとする先輩の言葉を、右手を挙げて静止する。
「だから、ちゃんと調査しましょう。この部屋で何が起こったのか。何が起きているのか。その正体を暴くんです」
私の提案に、佐藤先輩は呆然と目を見開いた。
認知の歪みを正したい。
この連続した不幸はただの偶然だったのだと安心したい。
それは、今この怪異を信じてしまいそうになっている私の願いでもあった。
♦︎ ♦︎ ♦︎
数日後――
佐藤先輩と近所のカラオケボックスで待ち合わせした。
近所とは言っても、マンションの最寄り駅から二駅の場所にある。
大学のカフェテリアで話すわけにもいかないしね。
大きめのトートバックには、実家から持ってきた資料やノートや筆記用具を入れてきた。
今日はそれぞれが集めた情報を共有する日。
佐藤先輩は依頼を受けたという不動産屋から情報を集め、私はお母さんを通じてマンション内の情報を集めた。
要はマンション内で交わされる噂話の類を。
通された小さな個室。
入ってすぐにスピーカーから流れる音量を最小にした。
テーブルに広げるのはマンションの間取りや平面図だ。
「まずさ……住民の入れ替わりが激しいのは610号室だけじゃなかった」
佐藤先輩は広げた白紙のノートにペンを走らせていく。
「908号室、410号室は一度住民が入れ替わってる。あと210号室が不動産情報のサイトに載ってた。住民はまだ住んでるけど売却するつもりらしい」
「そうみたいですね。あと、1211号室と309号室の住民が亡くなっているそうです」
「え……?」
「あと……子供が不登校とか、家族が入院中だとか住民に関する噂がいくつか……」
これは前年度まで自治会役員をやっていた母から聞いた話だ。
不登校や入院の話は、ご婦人達の井戸端会議で話題に上がった「らしい」で語られる曖昧な内容。
結局どうなったのかも分からない、時系列さえあやふやな信憑性のない噂話。
亡くなった住民に関しても、病気だったり事故だったり、部屋で亡くなっている訳じゃない。
200邸以上ある巨大なマンションだ。
だから年間一人二人が亡くなることは確率的にあり得る話。
でも……まとめてみると、この区画にだけ多すぎる気がする。
どの階においても8号室から12号室に不幸が密集しているのだ。
「なんだこれ。どういうことだよ」
わなわなと震える声で佐藤先輩はつぶやいた。
数日間かけて、お母さんから少しずつ聞き出した情報をまとめた時、私も目を疑った。
ただ、話はこれだけじゃない。
前回、610号室に住んでいた元住民について、彼に聞かれた時に話さなかったことだ。
これから告げなくてはいけない話に、ごくりと唾を飲み込んだ。
「実は610号室に最初に住んでいた霧島さん……旦那さんが自殺を図る前に、奥さんが救急車で運ばれているようです。自殺未遂の噂もあるって」
「自殺未遂……?」
救急隊に運ばれる担架と、半狂乱になりながら「どうして」を連呼する旦那さんの姿を見た人がいる。
「あと、その次に引っ越してきた沖田さん。旦那さんが自殺する前に、彼の奥さんが育児ノイローゼになって生後幼い娘をお風呂で溺死させかけたって……丁度お父さんが現場にいたそうです」
「ちょ……ちょっと待って待って!! それ本当?」
私は唇を噛み締め、静かに頷いた。
沖田家の父親の飛び降り騒動の後。
我が家に警察がやってきて、お父さんが事情を聞かれていたのでよく覚えている。
「あと……マンション内で奇妙な鬼ごっこが流行ってるらしいんですよ」
「鬼ごっこ?」
「鬼に捕まったら、死ぬんですって。『殺された』『死んだ』と子供達が物騒な言葉を使って遊ぶから……広めてる子は誰だ? って一時問題になったらしくて」
実際、マンションのすぐ隣にある公園に行くと、今も子供達がこの遊びをやっている。
鬼役の子が他の子を捕まえて「これで死んだね」と笑って告げるのだ。
捕まった子は一箇所に集められ、最後の一人が捕まるまで終わらない。
鬼役の交代もない、復活もない鬼ごっこ。
「それをみんなに教えていたのが、失踪した瀬戸家の娘さん愛菜ちゃんだったみたいです」




