第二話 霧島さん
健人はいつもより少し早めに、ケーキを買って家に帰ってきた。ただ冷蔵庫は差し入れ用に買った惣菜やゼリーが詰まっていて、ケーキを冷やしておく隙間すらない。
私達は急いで夕食を平らげることにした。
「霧島さん、会えなかったんだよね。夜も行ったんだけど……」
食後の食器をシンクの中に置いたまま、健人が買ってきてくれた可愛らしいケーキを一口食べて呟いた。
「まだ霧島さんを気にしてるのかよ」
「あっ……ごめん」
性別が分かって、明らかにお祝いムードの健人。
その気分に水を差してしまった事を咄嗟に謝った。
でも、あの声と足音がどうしても頭から離れない。
考えれば考えるほど違和感ばかりが募る。
「隣から音はしてたの。だから家にいるはずなんだけど」
「風邪をうつさないように出なかっただけじゃないの? 連絡してみた?」
「実は連絡先、まだ交換してなくて」
テーブルに置いたスマホに視線を向ける。
長い付き合いになるから、と距離感を模索していたんだ。
「じゃあ、恵理が何かやったんじゃないの?」
おどけるように茶化す健人。
ギロリと睨みつけると、彼は誤魔化すように笑って、残ったケーキを平らげた。
席を立った健人は、キッチンではなくバルコニーに向かって歩き出す。
「本当にいないのか、見てみればいいじゃん」
「え? どうやって?」
掃き出し窓からバルコニーに出た健人は、手すり壁に身を乗り出し、610号室を覗くように顔を出した。
「ちょ! ちょっと健人! ダメだよ!!!」
慌てて駆け寄って、健人を連れ戻す。
健人は悪びれもせず、愉快そうに笑ったままだ。
「電気ついてなかったよ。この時間家にいないって事は、実家にでも帰ってるんじゃない?」
「……じゃあ昼間の音は?」
「恵理の勘違いじゃないの?」
茶化す健人の腕を叩くと、彼は声を上げて笑った。
「そういえばさ、旦那さんは? そもそも何してる人だっけ」
「中学校の先生って言ってた。朝も早いし、夜も遅いんだってさ」
「学校の先生は大変だろうなぁ……」
まるで探偵にでもなったように、健人は右手を顎に当てながらもったいぶって話し出す。
「やはり晴太くんを一人でみるのが大変で、実家に帰った説が濃厚だな。音は上の階のものが反響でもしたんだろ」
そんなことない。
あの音と声は、壁のすぐ向こう側で響いてた。
でも宥めるように「大丈夫だって」と私の頭を撫でる健人は、この話をもう終わりにしたがってる。
私は渋々「そうだよね」と頷くしかなかった。
その日の深夜――
空気の震えと、不穏な物音に目を覚ました。
「ねぇ、健人……なにか聞こえない?」
隣で眠っている健人の腕に手を当て、揺すり起こす。
健人は唸り声を上げ、少し機嫌が悪そうに「何?」と尋ねた。
「ちょっと……ついて来てよ」
彼を無理矢理叩き起こした私は、まだ眠た気な健人を連れてリビングに向かう。
部屋には時計の針の音に混じって、ぐもった音が不規則に響いていた。ようやく音を掴んだ健人は、眉間に皺を寄せてリビングを歩き回る。
「え、何これどこから聞こえてんの?」
その瞬間――
ドン!という大きな音と共に、610号室と接する壁が僅かに振動した。
「……隣だよね? 霧島さんの部屋」
咄嗟に健人のそばに寄った私は、彼の腕を掴んで顔を見上げた。健人は険しい表情のまま「だよな」と小さな声で返事をする。
「ちょっと……見てくるわ」
「こんな時間に?!」
「チャイムは鳴らさないよ。外から見るだけ」
掃き出し窓からバルコニーに出た健人は、先程と同じように隣を覗いてすぐに顔を引っ込める。
「旦那さんが叫んでるみたいだ」
「旦那さん?」
「うん。電気もついてた。なんか叫びながら物を投げてるっぽい」
健人の口から語られる異常な状況に、顔が一瞬で強張った。心臓の鼓動が一気に早くなり、それに呼応するようにお腹の中の子供がグネグネと動き出す。
入居時に挨拶に来てくれた霧島さん一家。
少し年上の、とても感じのいい旦那さんだった。
もしかしてDV?
でも、霧島さんと話す中でそんな気配は一度もなかった。
休みの日、晴太くんを後ろの座席に乗せてママチャリで出かける旦那さんを見たこともある。
ジャージにTシャツという格好で眠っていた健人は、自分の姿を鏡で確認すると玄関に向かって歩き出した。
「ちょっと……玄関のチャイム押してみる。夫婦喧嘩なら明らかにやりすぎだ。霧島さん妊娠してるんだろ?」
「待って! 私も行く!」
椅子にかけたままのカーディガンを急いで羽織り、健人の後を追って共用部の廊下に出た。
すぐ隣の610号室の前には、すでに先客がいる。
体格のいい強面の男性だ。
年齢は私達より二回りほど上だろうか。
健人が軽く会釈をすると、彼も同じように会釈を返した。
共用部の廊下には、610号室のドアの奥からもっと生々しい大声と暴れるような乾いた音が響いている。
おかしいなんて一言では片付けられないほどの荒ぶった声。人が大暴れする現場なんてこれまで見たことがない。
背筋が冷えていくのを感じて、健人の腕にしがみついた。
「下の階の島田です。お宅にも響いてますか? 全くこんな時間に非常識ですよね」
「隣の橘です。物音で目が覚めて……」
島田さんのドスの効いた低い声は不機嫌さを隠そうともせず、彼は610号室のドアを睨みつけた。
「1時間くらい前からドタバタドタバタ煩いんですわ。ホンマこんな時間に……」
ブツブツと呟きながら、彼は健人や私の言葉を待たずにチャイムを押す。
ピンポンという機械音。
その途端――ぴたりと音が止んだ。
顔を見合わせた私達。
しばらく待っても、インターホンから声が返ってくる気配はない。
610号室のドアは無音に包まれていて、中で人が動く気配もなくなった。
島田さんはため息を吐いてドアを直接叩く。
「すいません、下の階の島田ですけど。ちょっと静かにしてもらえません? 何時だと思ってるんですか?」
威圧的な島田さんの声が廊下に響く。
脈打つ胸を抑えながらその様子を見守った。
「赦してください」
少し間を置いて、ぐもった平坦な声がドアから響く。
島田さんは「マジかよ」と小さく舌打ちをして、扉に拳を置いたまま凄むように睨みつけた。
「深夜だってこと……考えてくださいね」
それだけ言うと、島田さんはエレベーターに踵を返す。
背中を向けた彼から「まあ、土地が土地だからな……仕方ない」と小さな呟きが聞こえた。
土地が土地だから?
どういう……こと?
その言葉の意味を問おうとした。
でも島田さんの背中は酷く怯えているようにも見えた上、小さな違和感に気づいてしまった私は、声をかけることができなかった。
「恵理、戻ろ」
私の肩をそっと抱き、健人はドアを開けて部屋へと促した。
ドアが閉まった瞬間「霧島さんと晴太くん、大丈夫だといいけど」と呟きながら靴を脱ぐ。
私は玄関に立ち尽くしたまま動けずにいた。
心臓はまだバクバクと音を立ててる。
「ねぇ健人……」
「何?」
「足音って聞こえた?」
「……足音?」
声はインターホンからでなくドアからした。
玄関のドアまで、旦那さんが歩いてきたと言うことだ。
でも、その足音が全く聞こえなかった。
声だけがドアから響いて来たのだ。
「赦してください」と謝るぐもった声。
霧島さんの旦那さんはあんな低い声だったろうか?
考えれば考えるほど、背筋が氷のように冷たくなり手が震えた。
「大丈夫だよ。俺、朝になったら霧島さんの様子見てくるから」
玄関へと戻って来た健人は、震える私の手を取ってそっと引いた。その顔には私への心配が滲んでいる。
「赤ちゃんにも悪いから、もう寝よう? な?」
「うん……そうだね」
胸につかえる違和感を無理矢理飲み込んで、ベッドへと戻った。昂った神経は、暫くの間小さな物音ひとつ逃さないと張り詰めている。
でも音は消えたまま時間は過ぎ、私はいつのまにか眠ってしまった。
その後――
私も健人も二度と霧島さんと会う事はなかった。




