第十話 狂
マンションに帰る時には、曇天の空にほんのりと茜色が挿していた。長時間のお出かけのせいで悠人の機嫌はこれ以上になく悪い。
抱っこ紐を持って来ておいてよかったと、ぐずる悠人をあやしながら家路を急ぐ。
六階に到着し、エレベーターを降りると微かな叫び声が聞こえて来た。
どこから聞こえてくるのかとあたりを見渡しながら、部屋へと進むと、その声はどんどん大きくなる。
「まさか」
ガタガタとベビーカーを揺らしながら、狭い廊下を急ぎ足で進んだ。
610号室の扉――
その内側から、泣き叫ぶような声が響いている。
急いでチャイムを連打すると、ドタドタという足音と共に、扉が勢いよく開いた。
扉の先にいた紗奈ちゃんは、部屋着のまま真っ青で涙を流してる。
「恵理さん!――結愛が!!!」
その声に弾かれるように、私はベビーカーをその場に置いて中へと入った。
先導する紗奈ちゃんは真っ直ぐに廊下を進み、開けっ放しのリビングの扉を抜けて脱衣所へと入る。
中には、ぐっしょりと服を濡らした結愛ちゃんがバスタオルの上に寝かされていた。
「私……! 大輝が夜勤だから、明るいうちに結愛とお風呂に入ろうと思って……! 電話が来て、一瞬目を離したら……お風呂に! お風呂の中に!!!」
「いいから! 救急車!」
震える紗奈の叫びが耳を通過する。
視界の端で、紗奈はその場に座り込んだ。
どうしようと連呼しながらただ頭を掻き毟っている。
その手にはスマホを持っていない。
私が電話する?
いやだめだ。
確か1秒でも早い行動が必要って本にあった。
私は悠人を抱っこしたまま、すぐに結愛ちゃんの首に手を当てながら服を脱がせた。
トクトクいってない。
胸も、お腹も動いてない。
顔色は悪く、唇は紫に染まってる。
乳首を挟んだ胸の中央。
その、ほんの少し足側を2本の指で押す。
乳児は……確か30回。
その後、2回、息を吹き込む。
育児書で読んだ朧げな内容を記憶から引っ張り出しながら、無我夢中で小さな胸を押した。
「毎日毎日何やってんだ! うるさいっていってるだろ!」
廊下に響く大きな声。
このドスの効いた低い声には聞き覚えがあった。
610号室の真下に住んでいる島田さん。
投げ出して来たベビーカーが、ドアが閉まるのを防いだのだろう。
「島田さん! 611号室の者です! 赤ちゃんが溺れたんです! 救急車を呼んでください!!」
「何?!」
脱衣所から大声をだすと、困惑した返事が聞こえた。
すぐに「すいません、救急車を――」という彼の声が微かに耳に届く。
一瞬散らした意識を、もう一度小さな身体へと戻し、指先に全部の神経を集める。
胸を30回押す。
息を2回吹き込む。
一心不乱にその動作を繰り返していると、小さな反応と共に結愛ちゃんの口から液体が漏れた。
引き金が引かれたように、大きな泣き声が脱衣所に反響する。
「……良かった」
ぺたりとお尻を地面に落として息を吐いた。
緊張から一気に解き放たれた私の心臓は、先程の緊張を取り返すように早足で脈打ち、指先が震える。
ずっと走っていたみたいに肺がただ酸素を求めた。
「恵理さん」
名前を呼ばれ振り返ると、紗奈ちゃんが笑みを浮かべていた。
「結愛、貸してください」
真っ直ぐ伸ばされた腕。開かれた掌。
あれ程にまで震えていた声はとても平坦で、温度を感じない。上がった口角は、その位置で固定されたように頬に張り付いていた。
「それか悠人君。抱っこしておきますよ」
一瞬、彼女の背後に、ありえない角度で首を曲げた『何か』が重なっているように見えた。
泣きじゃくる結愛ちゃんの声が、雑音のように背景に同化する。
抑揚のない声は一気に空気を冷やしていく。
欠けた月のように細められた瞳は、ただ真っ直ぐに子供達を捕らえていた。
紗奈ちゃんじゃない。
きっと、コレに渡してはいけない。
本能のような何かが頭の奥で強く警告を発したが、身体は凍りついたように動かない。
思うように動かない両腕に力を込め、胸の中にいる温かい身体を抱きしめた。
「ねぇ、早く子供を渡して?」
その言葉と同時に、紗奈の身体は伸びるように距離を縮めた。ぶつかった肩の衝撃で、後ろに傾いた身体は洗面台にぶつかる。
「ダメ!!!」
伸ばした左手の指先を、紗奈の服が掠った。
バスタオルの上で手足をバタつかせる無防備な結愛ちゃんの胴体を掴み上げた彼女は、そのままリビングに走る。
「行かないで! 紗奈ちゃん!」
追いかけようと立ち上がった私の前を、大きな身体が横切った。
私が脱衣所を飛び出した時には、窓枠に手をかけていた紗奈ちゃん。
その身体を島田さんが捕まえていた。
「あんた! 何やってんだ!!!」
怒号と共に、紗奈ちゃんが強制的に窓から離される。
その瞬間――
紗奈ちゃんの華奢な身体がビクリと震えた。
驚くように周囲を見渡した紗奈ちゃんは、今気づいたとばかりに泣き声を上げる腕の中に視線を落とす。
顔の筋肉はみるみる形を変え、グシャリと歪んだ。
瞳からは大粒の涙がボロボロと落ちる。
「ゆ……結愛! 結愛ぁああああ!!!!」
声を目一杯張り上げる小さな身体を強く抱きしめて、紗奈ちゃんは膝から崩れ落ちた。
「なんなんだ……大丈夫かよアンタ」
島田さんは、戸惑うようにその場にしゃがみ込み紗奈ちゃんを覗き込んだ。
ようやくホッと安堵の息を吐く。
ふと――横から視線を感じた。
目は、無意識にその視線を追い脱衣所に向かう。
先ほどまでいた脱衣所の床は、至る所に小さな溜まりができていた。
真ん中にはグチャグチャになったバスタオルがあるだけ。
あれ……?
そういえば、結愛ちゃんは寝返りを始めたばかり。
まだ、這うことも掴まり立ちすることもできない。
脱衣所と繋がっている浴室。
扉の隙間から見える湯の張られた浴槽は我が家と同じものだ。
目を離した隙に結愛ちゃんが溺れた。
その言葉が真実だとしたら、どうやって落ちたの?
ぽたりぽたりと浴室から聞こえる水滴の音。
見えない誰かが、今もそこに立っているかのように響いていた。




