第一話 609号室
609号室 橘 恵理
ダイニングテーブルの上にコーヒーを置いた。
朝だけはミルクと砂糖を少し多く入れる、健人の好む甘めのコーヒー。
健人は「ありがとう」と微笑んで、そのコーヒーに手を伸ばす。一度キッチンに戻った私は、自分用に入れたカフェインレスの紅茶を持ち、向かいの席に腰を下ろす。
ちょうどテレビから流れる「星座占い」の画面が朝8時の時刻を告げた。
健人と自分の今日の運勢をなんとなく目で追いながら、あまり美味しくない紅茶に口をつける。
朝のコーヒータイムは、夫である健人との日々の日課になっていた。
「妊婦健診、今日だっけ?」
ダイニングの上に準備しておいた母子手帳ケース。
それに視線を落としながら、健人が口を開く。
覚えていてくれた嬉しさに少し口元が綻んだ。
「うん、そろそろ性別が分かるかな。散々焦らされたんだもん。そろそろ分かってほしいよ」
「どっちだろうね? 平日じゃなければ一緒に行きたかったな」
「土曜日は予約が取れなくてさ。分かったら、すぐに連絡するから」
「楽しみだな。連絡が気になって、午前中は仕事にならないかも」
健人は笑ってコーヒーを飲み干し、空のマグカップを持ってキッチンへと向かった。
シンクに置いた空のカップに水を入れる音がリビングに響く。
テレビの向こう側で「夏の疲れが出やすい時期ですが……」と女性アナウンサーの明るい声がした。
窓の外は、雲一つない青空。
でも、8月に比べれば日差しは少し和らいだだろうか。
夏休みも……とうに終わっている頃だよね。
「そういやさ。お隣の奥さん、最近見た?」
「ん? 610号室の? そういや最近見てないな?」
準備しておいた弁当をキッチンから持ち出し、通勤リュックに入れながら健人は答えた。
マンションの前に近所の幼稚園バスが止まるのが8時20分頃。
その時間に部屋を出る健人は、幼稚園バスを待つ霧島さんと晴太君の二人とよく顔を会わせていた。
「夏風邪じゃない? 最近また流行ってるんだろ?」
「暫く実家に帰ってたのもあるけど、二週間近く見かけてないんだよ?」
「家族内で順番に感染したのかもね。恵理も、電車乗る時はマスクしろよ?」
「うん……」
健人は心配をこちらに向けた。
頷いた私は、一度言葉を切って無言の壁に視線を向ける。
「……昼間にね、子供がはしゃぐような声がするの」
610号室と面しているリビングの壁。
朝の忙しい時間帯だと思うけど、なんの物音も聞こえない。賃貸で借りていたマンションとは違って、作り自体が良い物なのだろう。
しかし正午を過ぎた時間帯からだろうか。
ここ最近、毎日音がする。
気づいたのは数日前のこと。
テレビを切ったまま、キッチンの掃除に精を出していた時だった。
――甲高い子供の声と走り回る足音。
一度気になってしまったからなのか、時間が経つに従って音はどんどん大きくなっている気がする。
壁に激突でもするようなドンという音と共に、振動まで響いてくる始末だ。
「子供は熱を出しても元気っていうからね。俺もそうだったなぁ……霧島さんが寝込んでるなら、晴太君の食事を用意するのも大変だろうし何か買っていってあげたらどう?」
「……そうだね」
確かにそうかもしれない。
晴太君だけが回復していて、元気を持て余しているのかも。
二人は敷地内にある公園の常連だった。
「元気すぎて、部屋ではみきれなくて」と霧島さんはよく苦笑いを浮かべていたっけ。
私は、健人が読み終えた新聞から駅前にできたスーパーのチラシを引き抜いた。
――この駅近の新築マンションに入居したのは今年の3月。
県境に位置するこの場所は、アクセスが非常に良いにも関わらず、これまで人気がなかった地域だ。
駅前は古い家と田んぼばかりで、商業施設がなかったのが理由だとマンションの販売業者から聞いた。
近年のマンション需要に伴い、都市の再開発と共にマンションの建設ラッシュが行われた◯◯駅周辺。
市内のマンションに比べて、魅力的な価格設定だった。
商業施設はまだ少ないが、将来性だってある。
親からの頭金の援助と、健人の名義だけでギリギリローンが組めたというのが購入の決定打となり、新しい生活が幕を開けた。
お隣となった霧島さんは、この土地で初めてできた知り合い。
ご主人と、4歳になる晴太君の三人家族。
朗らかな人柄にお互い妊婦だという事もあり、私達はすぐに打ち解けた。
「じゃあ行ってくるよ」
通勤リュックを背負い、靴を履いた健人を玄関まで見送る。健人は屈んで「パパ、お仕事頑張ってくるからね」と膨らんだお腹に手を当て話しかけた。
「もし、霧島さんを見かけたら連絡くれる?」
「わかった。見かけたらね」
健人を見送り、食器を片付け、簡単にメイクをした。
時間ギリギリまで掃除をして家を出る。
線路沿いの道を歩いたら、◯◯駅まで10分もかからない。
電車に乗って、二つ隣の栄えた駅で降りた私は、真っ直ぐに産婦人科へと向かう。
お腹の子供は男の子だった。
『男の子確定だって!!』
待合室で真っ先に健人へメッセージを送った。胸の高まりをそのまま文字に乗せ、はしゃぐスタンプを連打する。
会計を済ませ、受け取った母子手帳を見つめた。
橘 恵理
橘 健人
並んだ二つの名前の下には、空白の『子の氏名』欄がある。
そこに新しい家族の名前を書き込む日が、また一歩近づいた気がした。
帰り道、最寄り駅の前にあるスーパーで、温めるだけで食べられる惣菜やゼリーなんかを買ってマンションに戻った。
結局、健人からは何の連絡も入ってない。やはり、霧島さんは寝込んでいるんだと半ば確信していた。
お隣の610号室。
ドア横のインターフォンを押して暫く待つ。
しかし、なんの反応もない。
病院にでも行ったのだろうか。
要冷蔵の食材もあるから、ドアノブにかけておくわけにもいかない。
後でもう一度持って行こう、とすぐ隣の自分の部屋に入った。
扉を開けただけで、すでに我が家だと思える匂いが私を優しく迎え入れる。
静まり返ったリビングには、アナログ時計の秒針の音だけが響いていた。
「あ、しまった。自分のお昼、買ってくるの忘れちゃった」
独り言を呟きながら、冷蔵庫を開けて要冷蔵の物を入れていく。
お昼をどうしようかと考えていたその時――
ドン。
小さな振動がリビングの壁を揺らした。
跳び上がる心臓。
それと同時に、子供がはしゃぐ声が聞こえる。
「晴太君……?」
冷蔵庫を閉めて壁に近づく。
良くないことだとは分かっているが、抑えきれない違和感が胸を駆り立てる。盗み聞きをするように壁にそっと耳を当て、神経を集中させた。
聞こえてくるのは足音と子供の声だけ。
こちらまで響いてくるのだ。結構大きな音だと思うが、霧島さんの注意するような声は聞こえない。
ただ、そこで違和感に気づいた。
声がする方向と足音がする方向が違うのだ。
足音のリズムから、子供が駆け回る足音だと思っていたが、子供の声は別方向から聞こえる。
まるで複数人の子供が壁の向こう側で走り回っているみたいな。そして、楽しげな声とは裏腹に、足音はどこか逃げ惑っているような切迫感を帯びている気がする。
可能性がいくつか頭をよぎるが、違和感だけが残る。
私はもう一度冷蔵庫から荷物を出し、玄関へと向かった。
お隣の610号室。
そのチャイムを鳴らす。
先ほどの物音など嘘だったかのように、ただ時間だけが過ぎていった。
【3LDK 67㎡ Eタイプ間取り】
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