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第5話:99.8%のパラドックス

 旧市街区での夜から数日が過ぎた。


 アルコールの熱はとうに冷め、四ツよつや かいの日常は再び、灰色の重力圏へと引き戻されていた。


 オフィスの空気は淀んでいる。壁一面の吸音材が、海のため息さえも逃さず貪り食う。


 顧客リストは相変わらず「成約見込み:低」の赤いフラグで埋め尽くされ、首元の『アウトシステム(OS)』は、主人の焦燥を燃料にするかのように、今日もウィーンと低く唸っていた。


「……いらっしゃいませ」


 予約客の入室を告げるチャイムに、海は緩慢な動作で顔を上げた。


 期待はしていなかった。どうせまた、冷やかしの「適合者」だろう。「時代遅れの骨董品を見に来た」という観光客気分の相手に、魂を削って「自由」を説く徒労感が、海を椅子に縛り付けていた。


 だが、入ってきた男を見て、海はわずかに眉を動かした。


「あ、あの……ここが、アウトシステムの事務所でしょうか」


 男の名は、田中たなか さとる。二十代半ば。


 服装は汎用AIハルシオンが推奨する標準的なスタイルだが、どこか着こなしがぎこちない。何より、その瞳が揺れていた。


 以前訪れた内田のような「完璧な軽やかさ」がない。視線は定まらず、指先は所在なげにジャケットの裾を弄っている。


 それは、この世界では絶滅危惧種とも言える、「不安」という感情の表出だった。


「はい、そうです。……どうぞ、お掛けください」


 海の声に、田中はビクリと肩を震わせ、逃げ込むようにパイプ椅子に座った。


 彼は海を見ない。海が首から下げている、無骨な黒い鉄塊――『OS』を、食い入るように見つめていた。その眼差しには、怯えと同時に、奇妙な「憧憬」が混じっていた。


「あの、僕……ずっと、おかしいと思ってたんです」


 田中は、挨拶もそこそこに切り出した。切羽詰まった声だった。


「この世界は、何かが変だ。みんなニコニコして、幸せそうで……でも、それって本当に『自分』で選んだ幸せなのかなって。AIに言われた通りの服を着て、言われた通りのものを食べて、言われた通りの人と結婚して……それって、飼われているのと何が違うんだろうって」


 海の心臓が、早鐘を打った。


(……共感者か?)


 れん以外の、初めての同志。この男もまた、自分と同じ「重力」を感じ、窒息しそうな空気に喘いでいるのではないか。


 海は、手元の『OS』を操作し、田中の解析スキャンを開始した。期待と共に、彼の内面データを覗き込む。


「その通りです、田中さん。あなたが感じている違和感こそが、人間として正常な反応なんです」


 海は熱を込めて語りかけながら、表示されるパラメータを確認した。だが、そこに表示されたサーモグラフィーを見て、海は言葉を詰まらせた。


 脳のヒートマップ。


 前頭葉――思考や判断を司る部位――が、死体のように冷たく青ざめている。対照的に、聴覚野と視覚野の「受信エリア」だけが、異常なほど真っ赤に活性化していた。


『自律思考レベル:E-(測定不能)』 『依存深度:S+(重度)』 『精神状態:主従関係の喪失によるパニック』


(……なんだ、この数値は?)


 海が語る「自由」への渇望とは真逆の、徹底的な「奴隷精神」を示すデータ。言葉と本音が、完全に乖離している。口では「檻から出たい」と言いながら、脳波は「ご主人様はどこ?」と泣き叫んでいる。


「ハルシオンが与えるのは『80点の正解』に過ぎません。……ですが、この『OS』を使えば、檻の外に出られます」


 海は疑念を押し殺し、テストするように契約書と電子ペンを差し出した。


「150点……自分の頭で、考える……」


 田中は夢を見るような目で反芻し、震える手でペンを取った。しかし。署名欄にペン先が触れる直前、田中の身体に「異変」が起きた。


「……ッ、あ、ぐ……っ!?」


 田中が喉を抑えて呻き声を上げた。ペンが手から滑り落ちる。カラン、と乾いた音が響く。彼の視界には、海には見えないARウィンドウが無数に展開されているはずだ。だが、彼の眼球は痙攣したように小刻みに震え、虚空を狂ったように彷徨っている。


「どうしました!?」


「で、出ない……っ、推奨が……出ない……っ!」


 田中の顔色が土気色に変わり、滝のような脂汗が吹き出す。呼吸がヒューヒューと音を立て、過呼吸に陥っている。それは単なる迷いではなかった。


 酸素ボンベを奪われたダイバーのような、あるいは麻薬を切らした中毒者のような、生命維持レベルの「禁断症状」だった。


「この契約について……AIに問い合わせても……『ユーザーの自由意志を尊重します』って……グレーアウトして……!」


 田中は自分の腕を爪で掻きむしった。「正解」を与えられないというストレスが、彼の自律神経を破壊し始めている。


「海さん……! 無理です……! 正解が分からないのに、どうやって選べばいいんですか!?」


「正解なんてないんです。あなたが選んだ道が、あなたの正解になるんです」


「そんな無責任なこと言わないでください!!」


 田中は絶叫した。白目を剥きかけながら、彼は幼児のように泣きじゃくった。


「もし……もし失敗したら!? 損をしたら!? 誰が責任を取ってくれるんですか!? AIが推奨しなかったものを買って失敗したら、補償も適用されないんですよ!?」


 海は、冷めきった目でその光景を見ていた。『OS』の解析画面には、真っ赤な警告文字が点滅している。


『警告:思考停止の限界。自我崩壊の危険あり』


 この男は、「自由」を求めてここに来たのではなかった。「飼われている」ことに疑問を持っていたのでもない。


「AIの占いだって……最近当たらないし……!」


 田中は涎を垂らしながら、恨み言を吐き出した。


「今日のラッキーカラーが赤だっていうから赤いネクタイをしてきたのに、朝のコーヒーをこぼしたんです! おかしいじゃないですか! もっと精度の高い、僕を絶対に幸せにしてくれるシステムがあるはずだと思って、ここに来たのに……!」


 海は、深いため息をついた。違った。この男は、檻から出たがっているのではない。「檻の空調が、期待したほど完璧ではない」ことに癇癪を起こしているだけだ。

 彼が求めていたのは「自由」ではなく、「より強力で、より完璧に自分を管理してくれる、新しいご主人様」だったのだ。


「……ハルシオン」


 田中は、譫言うわごとのように呟いた。そして、痙攣する指で、必死に虚空のARウィンドウを連打し始めた。


「ハルシオン、助けて……推奨を……ガイドラインを……!」


「僕に命令してくれ……!」


 彼の指先が、緊急メンタルケアのアイコンを叩く。


 その瞬間。


 田中の身体から、憑き物が落ちたように力が抜けた。


「……あ」


 強張っていた筋肉が弛緩し、荒い呼吸が整い、瞳に安らかな光が戻ってくる。脳内に快楽物質が投与されたかのような、絶対的な「安堵」の表情。まるで、母親の胎内に戻った赤子のような顔だった。


「……ああ、よかった」


 田中は、恍惚とした笑みを浮かべて言った。


「『直ちに帰宅し、温かいハーブティーを飲んで休息すること』が推奨されました。……そうですよね、僕は疲れてるんだ。変な気を起こして、間違いを犯すところだった」


 彼は立ち上がり、深々と頭を下げた。


 そこにはもう、迷いも恐怖もない。あるのは、思考を放棄した者だけが得られる、無敵の「軽やかさ」だけだった。


「すみません、変なことを言って。やっぱり、AIが決めた方が間違いがないですね。……かわいそうに、あなたも早く『こっち』に戻れるといいですね」


 田中は、以前の内田と同じ言葉を残し、軽快な足取りで去っていった。ドアが閉まる。海は、机の上に転がった電子ペンを見つめたまま、動けなかった。


 海は、震える指で『OS』を操作し、都市全体の統計データを呼び出した。網膜に、残酷な数字が浮かび上がる。


『適合者率(ハルシオン依存):99.8%』

異端者率アウトシステム:0.2%』


 これが、「99.8%のパラドックス」。


 自由を渇望する言葉を吐く人間でさえ、その骨の髄まで「依存」に浸食されている。彼らにとって、「自分で選ぶ」という行為は、権利ではなく、肉体を破壊するほどの猛毒なのだ。


「……重いな」


 海は、首元の『OS』を握りしめた。その熱が、今日はやけに冷たく感じられた自分と、蓮。


 この世界で「重力」に耐えうる人間は、本当に、0.2%しかいないのかもしれない。窓の外では、灰色の空が、何も語らずに街を覆っていた。


ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。

もっと重厚な異世界ファンタジー戦略戦を楽しみたい方は、2025/12/18に完結するこちらの長編もぜひ!→ 『異世界の司令塔』

https://ncode.syosetu.com/n6833ll/


死に戻る勇者×記憶保持の聖女。セーブポイントとなった聖女の悲恋が読みたい方はこちらもぜひ!→『セーブポイントの聖女は、勇者の「死に癖」を許さない』

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