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第4話:旧市街の夜

「ひどい顔だな、かい


 灰色の廃墟と化した街角で、相葉あいば れんは愉快そうに笑っていた。


 システムから「ノイズ」として消去され、誰にも認識されなくなった海を、彼だけが真っ直ぐに見ている。


 その瞳には、憐れみも困惑もない。あるのは、退屈な授業中に面白い落書きを見つけた子供のような、純粋な「好奇心」だけだ。


「……蓮。お前、見えてるのか?」


「ああ。お前のその無様で人間くさい姿も、このクソみたいに殺風景なコンクリートの街もな。……最高じゃないか」


 蓮は、完璧に仕立てられたスーツの襟を緩めながら、剥き出しになった灰色のビル群を見上げた。彼の視界もまた、管理者権限バックドアによってARの虚飾が剥がされているのだ。


 だが、海のように無骨な鉄塊を首から下げているわけではない。彼のうなじには、さらに小型化され、違法改造されたインプラントチップが埋め込まれている。スマートで、目立たない「脱獄ジェイルブレイク」。


「こっちだ。ここは空気が『軽』すぎて酔う」


 蓮はそう言うと、踵を返して路地裏へと歩き出した。海は、縋るようにその背中を追った。


 二人が入ったのは、旧市街区の地下深くにある会員制のバーだった。重い鉄扉を開けた瞬間、紫煙とアルコールの臭いが鼻をつく。


 壁は吸音材ではなく、剥き出しの煉瓦。空調は効きすぎているか、止まっているかのどちらかだ。グラスの氷がカランと溶ける音。低い話し声。ここには、地上の「無菌室」にはない、湿った重力があった。


「乾杯。俺たちの『重たい』現実に」


 蓮がグラスを掲げる。琥珀色の液体が揺れる。安物のウイスキーだ。だが、この喉を焼く刺激こそが、今の海には必要だった。


 海は、震える手でグラスを煽った。胃の腑が焼ける。生きている実感が戻ってくる。


「……助かったよ。あそこで一人だったら、発狂してたかもしれない」


「ハハッ、大げさだな。だが、傑作だったぜ。あのカップルの横で、お前が必死に叫んでる姿。滑稽で、無様で、そして何より『人間』だった」


 蓮は、海を馬鹿にしているのではない。心から楽しんでいるのだ。彼は、海とは対極にいる。


 大手都市開発デベロッパーのエリート。昼間は「適合者」の仮面を完璧に被り、誰よりもスマートに、誰よりも効率的に「80点の正解」を叩き出し続けている。だが、その瞳の奥には常に深い「退屈」が巣食っている。彼にとって、この薄汚れた地下室だけが、息ができる場所なのだ。


 ふと、蓮の視線が海の首元に止まった。そこには、朝、ケーブルが食い込んでできた赤い痣が残っている。


「おい海、その首の跡……お前まさか、寝る時もそれ(OS)を着けてるのか?」


 蓮が呆れたように指差す。海は無意識に首元の鉄塊を触った。未だに熱を帯びている、無骨な相棒。


「……ああ。外せないんだ」


「外せない? 呪いか何かか?」


「似たようなもんだ。……外すと、目覚めた瞬間の無防備な脳に、ハルシオンが生成した『極彩色の夢(AR)』がダイレクトに流れ込んでくる。思考が覚醒する前に、あの甘美な嘘に癒やされてしまうのが、生理的に無理なんだよ」


 海にとって、それは恐怖だった。朝起きて、窓の外が美しい花畑に見えてしまったら。その美しさに「綺麗だ」と心から安堵してしまったら。その瞬間、四ツ谷 海という個人の輪郭は溶け出し、システムの一部になってしまう気がした。だから、痛みと重みで自分を縛り付けておくしかない。


 海の説明を聞いた蓮は、数秒の沈黙の後、腹を抱えて笑い出した。


「ククッ……ハハハハ! お前、イカれてるよ! 最高だ!」


「笑うなよ。俺は必死なんだ」


「いや、悪い。潔癖すぎるだろ、それは。そこまでして『重力』が欲しいか?」


 蓮は涙を拭いながら、愛おしそうに海を見た。その視線は、珍しい昆虫や、絶滅危惧種を見るコレクターの目に似ていた。


「俺は逆だぜ、海。俺は、この『灰色』の現実が美しくてたまらない」


 蓮は、グラス越しに店内の薄暗い照明を見つめた。


「表の世界を見てみろ。誰もが笑顔で、誰もが正解を選び、誰も傷つかない。ツルツルしてて、引っかかりがなくて、吐き気がするほど清潔だ。……だが、ここはどうだ?」


 蓮の声が、熱を帯びる。


「汚くて、不合理で、誰もが何かに飢えている。失敗すれば転げ落ちるし、間違えれば死ぬかもしれない。……スリルがあるだろう? 俺は、このヒリつくような『可能性』に興奮するんだよ」


 海は、蓮の横顔を見つめた。二人は同じ「現実」を見ている。だが、その捉え方は決定的に違っていた。


 海にとって、現実は「耐え難いが、背負わなければならない十字架」だ。だが蓮にとって、現実は「退屈な日常を壊してくれる、スリリングな遊園地」なのだ。


 その時、テーブルの上に置かれた蓮の端末が、不快な電子音と共に振動した。会話の余韻を断ち切る、無機質な通知音。蓮の表情から一瞬で笑みが消え、能面のような冷たさが張り付く。


「……チッ」


 蓮は端末を乱暴に手繰り寄せた。ホログラム・ディスプレイに、無機質な警告文が浮かび上がる。


『送信者:真島 執行役員』

『警告:生体モニタリングにより、非効率な心拍数の上昇を検知。明日のプレゼンにおけるパフォーマンス低下のリスクあり。直ちにアルコール摂取を中断し、休息することを推奨する』


 それは、完璧な「正論」による管理だった。蓮の健康を気遣う善意と、組織の歯車としての効率を求める冷徹さが、完全に同居している。


「……これだ」


 蓮は、画面を叩き割るような勢いで通知を消去した。


「心拍数まで管理されちゃ、興奮することさえ許されない。どんなに画期的なプランを出しても、あの『ミスター80点』が、ハルシオンの推奨データを盾に却下してくる。リスクがある、前例がない、非効率だ……」


 蓮の指が、グラスに強く押し付けられ、白くなっている。彼のエリートとしての翼は、この「優しすぎる檻」には大きすぎるのだ。


「俺は、俺の能力を試したいんだ。AIが弾き出した安全な正解じゃなく、俺自身が考え、俺自身が選び取った『150点の最高解』を、あの世界に叩きつけてやりたい」


 傲慢な願い。だが、それは海が売り歩いている「自由」そのものでもあった。


「……そのインプラントじゃ、無理なのか?」


 海は尋ねた。


「無理だ」


 蓮は首を振った。


「こいつはスマートだが、安全装置リミッターが外せない。脳内に埋め込んでいる以上、排熱の問題があるからな。思考速度を上げすぎると、脳が物理的に茹だって死ぬ。……だから、ハルシオンの監視下でしか動けない」


 蓮は、飢えた獣のような目で、海の胸元を見た。


「だが、お前のアレは違う」


 海は、自分の胸にある『OS』を握りしめた。無骨な空冷ファン。剥き出しのヒートシンク。


「外付けの、強制冷却機構。……これなら、脳が焼けるギリギリまで回せる」


 この鉄塊は、単なるノイズキャンセラーではない。脳の安全装置を物理的に解除し、演算能力を極限まで引き上げるための、危険な加速装置だ。


 もし、蓮がこれを使えば。彼のような優秀な人間が、本気でこれを使えば、本当に世界を変えられるのかもしれない。あるいは、彼自身を焼き尽くしてしまうとしても。


「……蓮」


 海は、静かに口を開いた。


「なら、もっと深く潜ってみるか?」


「何?」


「俺の『OS』だ。お前のインプラントより、もっと深く、もっと鋭く、システムの深層まで潜れる。……真島どころか、ハルシオンの予測さえも凌駕できるかもしれない」


 それは、悪魔の提案だった。海は知っている。このデバイスがもたらす負荷ヒートが、どれほど人間を蝕むか。だが、目の前の親友は、その「毒」を何よりも欲しているように見えた。


 そして何より、海自身が欲していたのだ。この重力を、孤独を、共有できる「共犯者」を。


 蓮は、海の胸元の鉄塊を見た。無骨で、熱く、重たい、黒い塊。それを手にするということは、海と同じ「重力」の世界に、完全に堕ちることを意味する。


 蓮の唇が、歪んだ。それは、火薬庫の中でマッチを見つけた子供のような、無邪気で、残酷な笑みだった。


「……いいな。寄越せよ、海。その『武器』を」


 海は、首から『OS』を外した。ウィーンというファンの音が、心なしか大きく聞こえる。海はそれをテーブルの中央に置いた。ゴツリ、と重たい音が、店内のBGMを一瞬かき消す。


 蓮が手を伸ばす。その指が鉄塊に触れようとした瞬間、海は咄嗟に蓮の手首を掴んだ。


「……待て」


「あ?」


「ただの機械じゃない。これは脳を焼くぞ。一度接続したら、もう二度と、あの『80点の安らぎ』には戻れないかもしれない。……それでもいいのか?」


 それは、地獄への片道切符を渡す者としての、最後のためらいだった。だが、蓮は海の手を軽く払い除けた。


「戻る? バカ言え」


 蓮は、両手で『OS』を包み込むようにして持ち上げた。その熱と重さに、一瞬だけ顔をしかめ、すぐに恍惚とした表情へと変わる。


「俺は、最初からあんな場所(80点)にはいなかったんだよ」


 蓮は、熱に浮かされたような瞳で、海を見た。


「これで、俺は王様になれるか?」


 海は答えなかった。ただ、親友がその「重力」を、自ら望んで抱きしめる様を、静かな戦慄と共に見守っていた。


 賽は投げられた。これが、すべての終わりの始まりだった。


ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。

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