第3話:『ノイズ・キャンセリング』
オフィスを出た四ツ谷 海は、呼吸の仕方を忘れた魚のように、通りで口をパクパクと動かしていた。内田という青年が残していった言葉が、鼓膜の裏に張り付いて取れない。
『罰ゲーム』。
海が必死に抱えている「重力(信念)」を、彼はそう呼んだ。悪意など欠片もない、純度100%の憐れみ。それが、海の内側にある何かを決定的に削り取っていた。
「……クソッ」
海は、酸素を求めて大通り沿いのオープンテラスへ足を向けた。そこは、ガイドブックにも載っている人気のカフェエリアだ。あたたかな陽光、石畳の舗装、色とりどりの花が咲き乱れるプランター。マホガニー調のシックなテーブルセットでは、着飾った人々が優雅にティータイムを楽しんでいる。
どこを見ても、絵画のように美しい光景。だが、海の目には、そのあまりの「完璧さ」が、不気味な書き割りのように映った。光の当たり方が均一すぎる。花の揺れ方が規則的すぎる。ここは現実ではない。高度に演算された「背景データ」だ。
海は、空いている席――ではなく、植え込みの縁石に腰を下ろした。周囲の人々は、楽しげに談笑している。
「この紅茶、香りが最高ね」
「景色もいいし、本当に癒やされるよ」
彼らの笑顔。彼らの軽やかさ。それが、今の海には耐え難いほどの「ノイズ」に感じられた。彼らは何を見ている? 何を飲んでいる?
海は、胸元の『アウトシステム(OS)』を鷲掴みにした。熱い。放熱フィンが掌を焦がす。この痛みだけが、海に「嘘を暴け」と命令していた。
(……見せてやる)
誰にかは分からない。内田にか、自分にか、あるいはこの世界そのものにか。海は、震える指で『OS』の出力レベルを最大まで引き上げた。そして、首元のケーブルを、『アルシオーネ』の外部入力端子に乱暴に接続した。
『――Force Override: Reality Layer.』
脳髄を万力で締め上げられるような激痛。視界が明滅し、極彩色の世界に亀裂が走る。AR(拡張現実)のレイヤーが、腐った皮膚が剥がれ落ちるように崩壊していく。
「……っ、う、あ……」
海が顔を上げた時、そこには「培養槽」のような世界が広がっていた。美しい石畳は消え、ひび割れたアスファルトが剥き出しになっていた。咲き誇る花々はデータの残滓となって霧散し、プランターには黒ずんだ粘菌のような苔がへばりついているだけだった。植物の維持コストすら削減され、ただ湿度を保つためだけのスポンジが詰め込まれている。あたたかな陽光さえも、色彩調整フィルターが外れ、スモッグに覆われた鉛色の曇り空へと戻る。
そして、人々。彼らが手にしていた「香り高い紅茶」のカップは、成分表示だけの無機質なチューブ容器に変わった。海は『OS』の解析アイを起動し、その中身を拡大表示した。赤字の警告と共に、成分表が網膜に焼き付く。
『原材料:再生有機タンパク(下水処理由来)、合成甘味料、抗不安剤、微量の昆虫粉末……』
それは、都市の排泄物をリサイクルし、精神安定剤を添加しただけの「飼料」だった。かつて海も口にしたことがある。機械油のような臭いと、喉にまとわりつく不快な粘り気。吐き気を催す味だった。
だが彼らは、その灰色のチューブを口に咥え、薄汚れたコンクリートの塊(ベンチ代わり)に座り、曇天の下で「美味しいね」と微笑み合っている。チューブの先端から垂れた灰色の液体が、口元を汚しても、彼らは気づかない。ARがそれを「上品な紅茶の雫」に書き換えているからだ。
おぞましかった。廃墟のような世界で、薄汚れた服を着た人々が、排泄物のリサイクル品を啜りながら、見えない夢を見て恍惚としている。これが、この世界の「素顔(現実)」だった。
海は立ち上がった。胃液がこみ上げるのを無理やり飲み込む。この殺風景で醜悪な真実こそが、俺たちの生きる場所だ。お前たちが「美しい」と信じているものの正体は、ただの汚物だ。
「……おい!」
海は、目の前のカップルに向かって声を張り上げた。彼らは、コンクリートの上で、虚空のケーキを切り分ける動作をしている。
「いい加減にしろ! 何が紅茶だ! お前らが飲んでるのは汚水だぞ!」
海は叫んだ。喉が裂けるほどに。自分の見ているこの地獄を、彼らにも突きつけたかった。目を覚ませ。ここはカフェじゃない。ここはただの餌場だ。
だが。カップルは、顔を上げなかった。海の声は、空気に触れた瞬間に吸音材に吸われるように減衰し、彼らの耳には届かない。
「来週の予定、どうする?」
「ハルシオンのおすすめ通りでいいんじゃない?」
海は愕然として、一歩踏み出した。
「聞こえないのか!? 俺はここにいるぞ!」
男の肩を掴もうと手を伸ばす。しかし、その手は空を切った。男が避けたのではない。男の身体が、まるでバグを起こしたゲームキャラのように、ヌルリと不自然な軌道で平行移動し、海の手をすり抜けたのだ。
男は会話を止めず、チューブを吸う動作も止めず、ただ「海との衝突判定」だけを自動処理した。それは人間的な回避行動ではなかった。ロボット掃除機が障害物を避けるような、無機質なアルゴリズムの動き。
海は理解し、戦慄した。「視覚ブロック(ノイズ・キャンセリング)」。汎用AIは、市民の精神衛生(安寧)を乱すあらゆる要素を、リアルタイムで検閲し、削除する。ゴミ、落書き、不快な害虫。そして今、システムにとっての「異物」である四ツ谷 海は、彼らの五感から、完全に消去されたのだ。
彼らの『アルシオーネ』越しに見えている世界では、海が立っている場所には、おそらく美しい噴水か、あるいは誰もいない空間が広がっているのだろう。海の絶叫は、環境ノイズとしてカットされ、存在そのものが「なかったこと」にされている。
「あはは、そうだね!」
「やっぱり、この席は最高だね」
カップルは笑う。すぐ隣で、汗と涙にまみれた男が、必死の形相で叫んでいるというのに。彼らの視線は、海の顔の数センチ横を、ガラス玉のように通り過ぎていく。焦点が合わない。海は、彼らにとって「風景のバグ」ですらないのだ。
海は、へなへなとその場に崩れ落ちた。膝が、冷たいアスファルトを叩く。周囲を見渡す。誰も、海を見ない。数メートル先を歩く親子も、ベンチで読書をする老人も、誰一人として海に視線を向けない。海は、この世界から透明人間のように切り離されていた。
圧倒的な孤独。「理解されない」という孤独とは次元が違う。これは、「認識すらされない」という、存在の否定だ。
「……俺は、ここにいる」
海は、アスファルトを拳で叩いた。硬い感触。痛み。拳の皮が剥け、血が滲む。だが、アスファルトに落ちた赤い血は、瞬時にホログラムのテクスチャによって上書きされ、消えた。痛みはあるのに、痕跡すら残せない。
世界はこんなにも静かで、こんなにも騒がしい。海は、首元の『OS』を抱きしめるようにして、灰色の路上で小さく丸まった。熱暴走寸前のヒートシンクの熱だけが、凍りついた心をかろうじて温めていた。
その時。視界の端に、一人の男の靴が映り込んだ。埃にまみれたアスファルトには似つかわしくない、磨き上げられた高級な革靴。それは、海のことを「認識」して、まっすぐに近づいてきた。
「……ひどい顔だな、海」
ノイズキャンセリングされた世界で、唯一、海に届いた声。海は弾かれたように顔を上げた。そこに立っていたのは、完璧に仕立てられたスーツを着崩し、耳元の『アルシオーネ』を指先で弄んでいる男。親友、相葉 蓮だった。
「蓮……?」
蓮は、灰色の廃墟のような風景の中に立ちながら、手元のデバイスを操作していた。『管理者権限:フィルタリング強度[低]』の表示が、彼のバイザーに小さく明滅している。
彼は退屈しのぎに、この世界の「裏側」を覗き込んでいたのだ。そして、そこに転がっている唯一の「異物」を見つけた。
蓮は、まるでそこが王宮であるかのように不敵に笑った。その瞳だけが、この世界で唯一、海という「ノイズ」と焦点を結んでいた。
「見えてるか? 海。このクソみたいに美しい、灰色の世界が」
海は、こみ上げる何かを必死に堪えながら、小さく頷いた。独りではなかった。この地獄のような現実を共有できる人間が、まだ一人だけ残っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。
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