第21話:全責任
裁判が終わると、相葉 蓮は地下の処理室へと移送された。
そこは、処刑場というよりは、巨大な事務処理センターのようだった。壁一面にサーバーラックが並び、無数のインジケーターが明滅している。感情のない機械音だけが響く空間で、蓮は拘束椅子に座らされていた。
「ようこそ、相葉さん。お疲れ様でした」
目の前のデスクに座った担当官は、人間ではなかった。精巧なアンドロイドだ。
だが、それは事務的なロボットではない。柔らかな曲線を描く肢体、慈愛に満ちた微笑み、そして聖母のような声音。ハルシオンが「人間が最も安心する形状」としてデザインした、完璧な母親の似姿。
「これより、損害賠償および刑の執行手続きに入りますね」
彼女は、子供をあやすように優しく告げた。その優しさが、蓮には逆に、首を絞める真綿のように感じられた。
「相葉 蓮。あなたは『自由意志』によるシステムへの介入を選択し、その結果、甚大な損害を引き起こしました」
「……」
「通常、ハルシオンの統治下において、市民が起こした事故や過失は、システム側の『調整不足』として処理され、個人に責任が問われることはありません。AIがあなた方の生活を最適化する代償として、リスクもまたAIが引き受けているからです」
蓮は、うつむいたまま聞いていた。知っている。それがこの社会の「契約」だ。自由を差し出す代わりに、責任から解放される。だからこそ、人々はあんなにも軽やかに、無責任に生きていられるのだ。
「しかし」
聖母は、悲しげに眉を下げた。
「あなたは『アウトシステム(OS)』を使用し、意図的にAIの制御を逸脱しました。これは契約違反です。よって、今回発生した全ての事象に対する責任は、特例として『個人』に帰属します」
彼女が指先を振る。瞬間、部屋の空気が変わった。
ボウッ!
赤い光が、雪崩のように蓮の視界を埋め尽くした。請求書だ。リストではない。情報の「壁」だ。
『物流ドローン損壊:4,820機』 『交通インフラ復旧費用』 『物流遅延による経済損失』 『負傷者治療費・慰謝料』 『精神的苦痛に対する補償(市民320万人分)』……。
赤い数字が、床から天井まで、蓮を取り囲むように積み上がっていく。息ができない。数字の羅列が、物理的な質量を持って蓮の肺を圧迫する。
これは情報ではない。「溺死」だ。4兆という数字の海に、たった一人の人間が沈められていく。
「概算で、4兆2000億円。……支払いは可能ですか?」
聖母が、心配そうに覗き込んでくる。皮肉ではない。プログラムされた純粋な確認だ。それが余計に恐ろしい。
「は……はは……」
蓮の口から、乾いた泡のような笑いが漏れた。
払えるわけがない。個人が背負える重さではない。これが、海が言っていた「重力」の正体か。俺は、都市一つ分の重さを、この細い首一つで支えようとしていたのか。
「支払い能力なしと判断します」
聖母は、残念そうに、しかし即座に処理を進めた。
「よって、あなたの市民権、保有資産、社会的信用スコア、および将来における全ての権利を没収し、充当します」
ピロン、という軽い電子音。蓮の視界に残っていた「エリート階級」のID表示が、ガラスのように砕け散った。
銀行口座が凍結され、マンションの所有権が移転し、年金記録が抹消される。相葉 蓮という人間が30年かけて積み上げてきた「価値」が、瞬く間にゼロ――いや、マイナスへと転落していく。
「手続き完了。あなたはこれより『非市民』となります」
聖母が立ち上がり、蓮の元へ歩み寄った。その手には、先端が赤熱した無骨な工具が握られている。高度に文明化されたこの部屋で、そこだけが中世の拷問器具のように野蛮だった。
「手首を出して」
「な、なにを……」
「古いIDチップを焼却処分します。……少し、熱いですよ?」
彼女は微笑んだまま、蓮の腕を掴み、赤熱した金属を押し付けた。
ジュウウウッ!!
「ぎ、ギャアアアアッ!!!」
肉が焼ける音。脂の臭い。レーザーによるクリーンな処置ではない。物理的な熱で、皮下のチップごと皮膚を焼き潰す、原始的な烙印。
「暴れないで。……これが『自由』の痛みですよ」
聖母は、慈愛に満ちた声で諭した。
「あなたは望んだのでしょう? 誰にも守られず、自分の足で立ち、自分の行いに責任を持つことを。おめでとうございます。あなたの願いは叶えられました」
蓮は、白目を剥いて痙攣した。赤黒く爛れた手首。そこにはもう、ハルシオンの加護はない。ただの、無防備で、傷ついた肉体があるだけだ。
(……海)
激痛の中で、蓮の脳裏に親友の顔が浮かんだ。だが、そこに浮かんだ感情は、後悔や謝罪ではなかった。
あいつは、知っていたのか。この重さを。この痛みを。この理不尽な地獄を。知っていて、俺にあの『OS』を渡したのか?
(……嵌めやがったな)
蓮の歯が、ギリリと音を立てた。
あいつは、俺がこうなることを見越して、笑って見ていたんじゃないか? 「自由」なんて甘い言葉で俺を唆し、自分の代わりにこの重力を背負わせるために。俺は、あいつの実験台にされただけなんじゃないか?
「……連れて行って」
聖母の指示で、警備ドローンが蓮を取り囲む。行き先は、第9矯正施設。蓮は、立ち上がろうとして、足がもつれた。
重い。世界が、呪いのように重い。
引きずられるようにして部屋を出る蓮の前を、一台の清掃ロボットが横切った。ロボットは蓮の足にぶつかると、無機質な音声を発した。
『障害物を検知。……種別:粗大ゴミ。撤去してください』
「……あ?」
ゴミ。
かつてハイブ・タワーの頂点にいた俺が。150点の世界を目指した王が。ゴミ?
「ふ、ふざけるな……! 俺は……俺は……!」
蓮は叫ぼうとした。
だが、その声は防音壁に吸われ、誰の耳にも届かない。聖母だけが、ドアの向こうで優しく微笑んで手を振っていた。まるで、出来の悪い子供を施設に捨てる母親のように。
廊下に、蓮の絶叫とも嗚咽ともつかない声が響く。
それはもう、人間の言葉ではなかった。裏切られた(と思い込んだ)男の、どす黒い怨嗟の塊だった。
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