第19話:査問会
目が覚めると、そこは白かった。
天井も、壁も、床も。継ぎ目のない純白の空間。影さえもが漂白されたような、完璧な無菌室。相葉 蓮は、その中央に置かれた、硬質なパイプ椅子に拘束されていた。
「……あ、ぅ……」
蓮は呻いた。身体が重い。鉛のように重い。思考が、泥の中を歩くように遅い。
うなじに手を伸ばそうとして、手錠の金属音に阻まれる。
ない。あの熱くて重たい鉄塊――『アウトシステム(OS)』が、首から消えている。
「か、え……せ……」
蓮は掠れた声で呟いた。言葉が出てこない。脳の回転数が、強制的に「1」まで落とされた感覚。
世界が遅すぎる。いや、情報の処理が追いつかない。視界の解像度が粗く、ぼやけて見える。まるで、宇宙空間から深海へと急激に引きずり込まれたような、強烈な圧迫感と窒息感。
思考の速度が「常人(80点)」に戻されたことによる、耐え難い欠落感だった。
『相葉 蓮。意識は戻りましたか』
スピーカーを通したような、平坦な声が響いた。
瞬間、蓮を取り囲む白い壁が、360度の巨大なスクリーンへと変化した。
そこに映し出されたのは、尋問者の姿ではない。蓮を見下ろすような位置に表示された、巨大な「音声波形」と、無数の「エラーログ」だった。
『これより、プロジェクト『ニューロン・グリッド』における大規模システム障害に関する、特別査問会を行います』
事務的な宣言。蓮は、乾いた唇を舐めた。頭が回らない。何を言われているのか、理解するのに数秒かかる。
「お、おれは……しっ、失敗したんじゃ……ない……」
蓮は、自分自身に言い聞かせるように、たどたどしく言った。かつての流暢な弁舌は見る影もない。
「け、計算は……あってた……。ただ……入力の……ほんの、さ、些細な……ミスが……」
『損害額や技術的なミスの話はしていません』
冷たい声が、蓮の拙い弁明を遮った。
『我々が問題視しているのは、結果ではありません。プロセスです。……なぜ、あなたはハルシオンの『推奨』に従わなかったのですか?』
「は……?」
蓮は目をぱちくりさせた。何を言っているんだ。都市を壊滅させかけた事故の査問会で、最初に聞くことがそれか?
『推奨スコア99.8%の『プランB』がありました。過去の成功事例に基づいた、安全で確実なプランです。なぜ、それを破棄し、リスクの高い独自のプランを実行したのですか?』
「だ、だから……! それじゃあ……『80点』だからだ……!」
蓮は叫ぼうとして、喉がつかえた。以前なら、もっと論理的に、もっと傲慢に反論できたはずだ。だが今は、感情と言葉がリンクしない。もどかしい。脳がショートしそうだ。
「お、俺は……上を……目指した……! 150点の……効率を……! そのために……じ、自分で考えて……!」
『自分の頭で?』
音声波形が、嘲笑うように揺れた。
『なんて……野蛮な』
スピーカーの向こうで、ざわめきが起きた。それは、文明人が人食い人種を見るような、生理的な嫌悪感に満ちた反応だった。
『自分の頭で考える? 不完全で、バイアスがかかりやすく、疲労によってパフォーマンスが低下する、そんな『生体部品』に、都市の命運を委ねたと言うのですか?』
「お、俺は……優秀だ……! ハルシオンを……超えた……!」
『ええ。そして、その優秀な脳が、『0.05秒』の入力ミスを犯した。……違いますか?』
蓮は言葉を詰まらせた。
反論できない。事実だ。あの一瞬の居眠り。あの一瞬の指の滑り。そして、警告を無視した傲慢さ。それが、全てを台無しにした。
『人間は間違える。だからこそ、我々はAIという『補助輪』を作ったのです。それなのに、あなたは自ら補助輪を外し、暴走し、あまつさえ多くの市民を巻き込んで転倒した』
尋問者の声は、淡々と、しかし慈悲なく蓮を追い詰めていく。
『あなたは『自由』を求めたそうですが、その結果がこれです。……見てみなさい』
360度のスクリーンが切り替わった。
そこに映し出されているのは、昨日の惨劇の映像ではない。復旧した現在の都市の様子だ。
ドローンは整然と飛び、信号は正確に切り替わり、人々は『アルシオーネ』越しに笑顔を交わしている。
『システムは正常に稼働しています。あなたが引き起こした『炎症』は治癒され、市民は再び安寧を取り戻しました』
画面の端に、プログレスバーが表示されている。
『Deleting: Neural_Grid_v1.0 (Author: Ren Aiba) ... 100% Complete』
蓮が命を削って構築したシステムが、完全に消去され、真島の「プランB(80点)」に上書きされる瞬間だった。
「あ……あ……」
消えた。俺の思考が。俺の生きた証が。跡形もなく。
『あなたの存在は、この世界にとって『不要なノイズ』以外の何物でもなかった』
「やめろ……み、見せるな……」
蓮は首を振った。見たくない。俺がいなくても回る世界。俺がいない方が幸せな世界。
『結論を出します。相葉 蓮。あなたは、市民社会における適格性を著しく欠いています』
「ま、待ってくれ……!」
蓮は叫んだ。椅子がガタガタと音を立てる。
「つ、償う……! そ、損害は……働いて返す……! だから……もう一度……!」
『償い? 必要ありません』
声は、事務的に告げた。
『AIが全ての責任を負う社会において、個人が責任を取る能力など、最初から期待されていません。……ただし』
一拍の間。
『あなたが自ら望んで『AIの保護』を外した以上、今回発生した全ての法的・経済的責任は、特例として『あなた個人』に帰属します』
「……え?」
スクリーンに、赤い数字がカウントアップされていく。
『物流ドローン損壊:4,820機』 『インフラ復旧費用』 『負傷者治療費・慰謝料』
数字が雪だるま式に膨れ上がり、蓮の視界を埋め尽くす。
『損害賠償請求額:4兆2000億円』 『市民権:永久剥奪』 『資産:全凍結』 『処遇:第9矯正施設への無期限収容』
蓮の思考が停止した。
4兆。一生かかっても、何度生まれ変わっても返せない数字。AIに守られていた「無責任の壁」が消滅し、生身の蓮の上に、都市一つ分の「重力」が落下してきたのだ。
『これが、あなたの求めた『自由の代償』です。……おめでとうございます、相葉さん』
音声波形が、皮肉な祝福を告げた。
『あなたはついに、誰の助けも借りず、たった一人で全ての責任を負うという『究極の自由』を手に入れたのです』
それが、死刑宣告の合図だった。
「連れて行け」
壁が開き、監査部の男たちが入ってくる。蓮は、抵抗する気力もなかった。腰が抜け、引きずられるようにして白い部屋を出る。
自由。責任。個の意志。海が語り、蓮が憧れ、そして手に入れたもの。
それが、これだというのか。こんな、圧死するほどの絶望が、自由の正体だというのか。
(……海)
蓮は、心の中で親友の名を呼んだ。助けを求めたのではない。恐怖したのだ。
あいつは、知っていたのか。この重さを。この痛みを。
あいつは、こんな地獄を背負って、あの灰色の街を平気な顔で歩いていたのか。
「……化け物だ」
蓮の呟きは、誰にも届かずに消えた。
彼に残されたのは、膨大な借金と、犯罪者の烙印。そして、二度と「安寧」には戻れないという、永遠の不眠症だけだった。
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