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第18話:真島の嘲笑

「君の『150点』は、高くついたよ」


 真島まじまの声は、瓦礫と化したオフィスに静かに響いた。


 その響きには、怒りも、失望も、勝利の愉悦さえもない。ただ、壊れた機械の損害見積もりを読み上げるような、無機質な事実の確認だけがあった。


「ま、真島……さん……」


 相葉あいば れんは、すがるように顔を上げた。涙と鼻水、そして脂汗でぐしゃぐしゃになった顔。かつてのエリートの面影は微塵もない。


「助けて……止められないんだ……! 俺のコードが、言うことを聞かない……!」


「当たり前だ」


 真島は、短く吐き捨てた。


「君が作ったのは『システム』じゃない。ブレーキのついていない『暴走車』だ。一度走り出したら、壁に激突して砕け散るまで止まらない。……そういう設計デザインだろう?」


 真島は蓮から視線を外し、部屋の中央にあるメインコンソールへと歩み寄った。そこには、蓮が死に物狂いでアクセスしようとして拒絶された、深紅のエラー画面が表示されている。


「ハルシオンの予測では、君がシステムを破綻させるまであと48時間はかかると出ていたんだが。……君の暴走は、AIの予測さえも上回ったようだね」


 真島は、コンソールの横にある、物理的なカバーで覆われたスイッチに手をかけた。


 それは、蓮が「古臭い」「非効率だ」と嘲笑っていた、アナログな緊急停止スイッチだった。


「効率、速度、最適化。……結構なことだ。だがね、相葉くん。社会というものは、そんなに綺麗な数式では動いていないんだよ」


 カチャリ。真島がカバーを開ける。

「人間は間違える。機械は壊れる。天気は変わる。……その『ノイズ』を飲み込んで、それでも止まらずに回り続けるためには、無駄が必要なんだ。80点の、緩くて、退屈で、頑丈なクッションがね」


「や、やめろ……ッ!」


 蓮は、這いつくばって手を伸ばした。そのスイッチの意味を理解したからだ。

 それを押せば、蓮が心血を注いで構築した『ニューロン・グリッド』は、跡形もなく消滅する。150点の世界が、死ぬ。


「俺の……俺の革命が……!」


「革命?」


 真島は、心底おかしそうに鼻で笑った。


「君は勘違いしている。これは革命じゃない。『炎症』だ」


「炎症……?」


「そして、君は『ワクチン』だ」


 真島は、スイッチに指をかけたまま、哀れむように蓮を見た。


「君が派手に暴れてくれたおかげで、ハルシオンは『150点の暴走』という貴重なエラーデータを収集できた。これでシステムはより強固になる。……君は、捨て石として実に優秀だったよ」


 蓮の顔が凍りついた。


 実験台。


 最初から、泳がされていただけだったのか? この男の手のひらの上で、俺は王様気取りで踊っていただけなのか?


 真島は、迷うことなくスイッチを押した。


「ハルシオン。――緊急リセット(ロールバック)。システムを『バージョン80.0』へ復元せよ」


 ポチッ。


 あまりにも軽い、プラスチックのクリック音。


 その瞬間。


 プロジェクトルームを満たしていた警報音が、ふっ、と消えた。


 モニターを埋め尽くしていた深紅のエラーログが、波が引くように消滅し、見慣れた穏やかなブルーのインターフェースへと書き換わっていく。


『System Rebooting... Safety Mode Engaged.』 『Optimal Stability: 80% Confirmed.』


 窓の外を見る。


 絡み合って停止していたドローンたちが、再起動したハルシオンの制御下で、ゆっくりと、しかし整然と動き出した。


 先ほどまでの生物的な乱れは消え失せ、互いに等間隔の距離を取り、機械的なユニゾンで「ブン、ブン」と羽音を揃えて飛んでいる。それはまるで、巨大な虫の群れが巣に戻るような、生理的な不気味さを伴う「秩序」だった。


 地上では、信号機が全て青から赤へ、そして黄色へと、教科書通りの退屈なサイクルを取り戻していく。渋滞が解消されていく。混乱が収束していく。


 150点の熱狂が去り、80点の日常が、ぬるりと世界を覆い尽くしていく。


 一瞬だった。蓮が命を削り、全てを犠牲にして積み上げた塔が、たった一つのボタンで砂上の楼閣のように崩れ去った。


「あ……あ……」


 蓮は、床を叩いた。戻ってしまった。あの退屈で、窒息しそうな、完璧な檻の中へ。


「見事だ」


 真島は、復旧していく街を見下ろしながら、満足げに頷いた。


「やはり、ハルシオンの安定性は素晴らしい。君の作った『有害なノイズ』を、わずか数秒で浄化してみせた」


「ノイズ……」


 蓮は、震える声で繰り返した。俺の思考が。俺の情熱が。俺の150点が。ただのノイズ?


「君の努力は認めるよ。だが、方向性が間違っていた」


 真島は、蓮の元へ戻り、汚れたスーツの襟を直してやった。その手つきは、死に化粧を施すように優しかった。


「君は『最高』を目指した。だが、社会が求めているのは『最高』じゃない。『最適』なんだよ。……君は、優秀すぎた。だからこそ、この世界には不要だったんだ」


 真島が合図を送ると、控えていた監査部の男たちが、蓮の両脇を抱え上げた。


「嫌だ……放せ! 俺はまだやれる! 俺は王だぞ!」


 蓮は錯乱して叫んだ。監査部の男たちに引きずられながら、必死に手を伸ばし、真島の足首を掴もうとする。爪が床に食い込み、剥がれ、血の筋を描く。


 エリートのプライドも、革命家の威厳もない。ただの、罰を恐れる子供の姿だった。


「連れて行け。……査問会が、首を長くして待っている」


 真島は、汚いものを見るように足を引いた。蓮は、引きずられながら、真島を見た。


 その顔には、勝利者の傲慢さも、悪人の邪悪さもなかった。あるのは、ただ淡々とバグを処理しただけの、システム管理者としての「無関心」だけだった。


「……あんたは、悔しくないのか」


 蓮は、最後に絞り出した。


「思考を放棄して……機械の奴隷になって……それで、生きてるって言えるのか!」


 真島は、きょとんとした顔をした。そして、今日一番の、屈託のない笑顔で答えた。


 その瞳には、ハイライトがなかった。左右対称すぎる、作り物めいた「80点の笑顔」。


「何を言っているんだい? 私は今、最高に幸せだよ」


 その言葉は、どんな罵倒よりも深く、蓮の心をへし折った。


 通じない。


 この男には、そしてこの世界には、「苦悩する自由」の価値など、1ミリグラムも理解されないのだ。


 蓮の絶叫と共に、ドアが閉まる。


 その閉まり際の隙間から、蓮は見てしまった。


 瓦礫と化していたプロジェクトルームが、ARフィルターによって瞬時に上書きされ、何事もなかったかのような「白く清潔なオフィス」に修復される様を。


 蓮の痕跡は、最初から存在しなかったことになった。


 そして、ハイブ・タワーの分厚い壁の向こうで、蓮の絶望は誰の耳にも届くことなく、永遠に遮断された。


ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。


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