第15話:0.05秒の崩壊
正午。
太陽が天頂に達し、都市の影が最も短くなる刻。
ハイブ・タワーのプロジェクトルームは、真空のような静寂に包まれていた。空調の音が消え、数十人の呼吸音さえ聞こえない。聞こえるのは、サーバーの低い唸り声と、冷却ファンの回転音だけ。
「全セクター、同期完了。ロジック・チェック、オールグリーン」 「ハルシオンからの制御権限委譲、準備よし」
部下たちの報告が、さざ波のように広がる。その中心、ガラス張りの「玉座」で、相葉 蓮は眼下の都市を見下ろしていた。
彼の視界には、現実の風景など映っていない。網膜に投影されているのは、都市という巨大な生命体の「神経網」だ。
赤から青へ。信号が切り替わるタイミング。物流ドローンの飛行ルート。地下鉄のダイヤグラム。
それら全てが、蓮の脳内で一つの巨大な数式として統合され、解き放たれる時を待っている。
「……始めようか」
蓮は、震える指先でエンターキーに触れた。恐怖ではない。武者震いだ。
これから俺は、神になる。80点の安寧に飼い慣らされたこの街に、150点の革命をもたらすのだ。
「プロジェクト『ニューロン・グリッド』――稼働」
カターンッ。
乾いた打鍵音と共に、世界が書き換わった。
ズゥゥゥゥン……!
低い地鳴りのような音が、フロア全体を振動させる。サーバー群が一斉に唸りを上げ、膨大なデータストリームが奔流となって駆け巡る。
「おおぉ……ッ!」
蓮は、脳を焼くような高熱と快感にのけぞった。
見える。流れる。都市の血管に、俺の血が流れていく。
交差点の信号機が、コンマ秒単位の精度で明滅を開始する。空を埋め尽くす物流ドローンが、一糸乱れぬ編隊飛行で加速する。渋滞が消滅していく。人の流れが加速していく。
淀んでいた「80点の川」が、激流のごとき「150点の瀑布」へと変貌していく。
「効率上昇率、120%……135%……148%!」 「す、すごい……! 理論値通りだ!」
フロアから歓声が上がる。蓮は、恍惚とした表情でモニターを見つめた。
完璧だ。
無駄がない。遊びがない。隙間がない。全ての要素が、極限の速度で噛み合い、回転している。これこそが、俺が求めた世界。真島(ミスター80点)が恐れ、海が否定した、純粋論理の結晶だ。
「見たか、海。……俺は勝ったぞ」
蓮は、不在の親友に向かって勝利を宣言した。
お前の言った「バッファが必要だ」なんて言葉は、凡人の戯言だったんだ。完璧な計算に、遊びなど不要だ。俺のシステムは、神の摂理のように美しい。
その時だった。
ピピッ。
蓮の視界の隅で、極小の警告ウィンドウがポップアップした。本当に小さな、粟粒のような赤い点。
『Warning: Drone ID-409 / Speed mismatch: -0.5%』
エリアD-4の交差点。一機の物流ドローンが、ビル風に煽られ、姿勢制御のために一瞬だけスラスターを逆噴射した。
その結果生じた、わずか0.02秒の遅延。
「……チッ」
蓮は舌打ちをした。美しくない。この完璧な交響曲の中に、調律の外れた音が混じったような不快感。
だが、蓮は即座に判断を下した。
「許容範囲内だ。無視しろ」
俺の設定した許容誤差は「0.05秒」。
0.02秒のズレなど、システムにとっては「正常」な挙動だ。ソフトウェアは、ドローンID-409に対して「そのまま進め。次の区間で加速して取り戻せ」と命令を出した。
だが。
物理世界の現実は違った。
極限まで密度を高めた空の道において、時速100キロ(秒速約28メートル)で飛ぶドローンにとって、0.02秒の遅れは「約60センチ」移動距離が足りないことを意味する。
そして、ドローン間の車間距離は「30センチ」しかない。
ピピピッ。
『Warning: Drone ID-410 / Proximity Alert (Hardware)』
後続機であるID-410の「衝突防止センサー」が、目の前に迫る前走機の背中を感知した。
システム(ソフトウェア)は「安全だ、進め」と命令している。 機体は「危険だ、止まれ」と悲鳴を上げた。
論理と物理の矛盾。そして、機械は物理的な生存本能を優先した。
キキィッ!!
ID-410が、蓮の制御を振り切り、独断でフルブレーキを作動させた。
「……あ?」
蓮の目が点になった。
時速100キロからの、急停止。
ID-410は止まった。だが、その後ろには、ID-411、412、413が、数珠つなぎで迫っていた。彼らもまた、システムからは「進め」と命令されている。
ピピピピピピピピピピピッ――!
警告音が、連鎖的に鳴り響く。
モニター上の交差点D-4が、一瞬にして赤く染まった。
数十機のドローンが、空中で玉突き事故を起こしたのだ。あるいは、衝突を避けるために四方八方へ緊急回避を行い、制御不能の弾丸となって散らばった。
「な……待て。再計算だ。ルートを変更して……」
蓮は即座に反応した。叫びもせず、狼狽もせず、ただ超高速でキーボードを叩き始めた。停止した数十機を迂回させ、別のルートに流せばいい。俺の手(マニュアル操作)なら間に合う。
だが、蓮の指が動くよりも早く、赤い浸食は広がっていった。
D-4交差点の上空でドローン群が散乱したことで、その下の道路の信号機制御システムが「落下物の危険あり」と判断し、全信号を赤に変えた。
その結果、地上を走っていた自動運転車数百台が、急ブレーキをかけて停止した。
キキーッ!! ガシャーン!!
モニター越しではなく、窓の外から、現実の破壊音が響いてきた。
ガラス越しに、眼下の交差点が見える。交差点の中央で立ち往生した車両。そこに、青信号を信じて突っ込んできた対向車線の車が、わずかなタイミングのズレで側面衝突する。破片が飛び散り、クラクションが悲鳴のように鳴り響く。
「嘘だろ……?」
蓮の指が止まりかけたが、すぐにまた動かした。まだだ。まだ制御できる。信号系統をリセットして――
その時。
ドォォォォン……!!
足元から、重たい地響きが伝わってきた。ハイブ・タワーの強化ガラスがビリビリと共振し、モニターが揺れる。
「な、なんだ!?」
部下の悲鳴。蓮が顔を上げると、モニターに信じられない警告が表示されていた。
『Alert: Energy Backflow Detected.(エネルギー逆流を検知)』 『Critical Failure in Underground Power Grid.(地下送電網、臨界突破)』
「……逆流?」
蓮は戦慄した。
彼が構築した「プランC(改)」。旧市街区の電力を搾取し、新エリアへ送るための無理なバイパス手術。
交通網の麻痺により、都市の活動が停止した。だが、発電所からは「150点の稼働」を前提とした莫大な電力が送られ続けている。
消費されなくなったエネルギーは、行き場を失い、最も脆い場所――無理な接続で負荷がかかっていた「旧市街区の老朽化したケーブル」へと逆流したのだ。
ボォン!!
窓の外で、火柱が上がった。
交差点のマンホールが内圧で吹き飛び、地下から噴き出した黒煙と炎が、昼の空を焦がしていく。一箇所ではない。二箇所、三箇所……。連鎖的な爆発が、ハイブ・タワーの足元で次々と発生する。
「ち、違う……俺の計算は、完璧だったはずだ……!」
蓮は、鬼の形相でキーを叩き続けた。復旧コード。緊急停止コマンド。冷却液の注入。
だが、蓮が一つエラーを潰す間に、十の新しいエラーが発生する。追いつかない。指が、思考に追いつかない。崩壊のスピードが、蓮の処理能力を遥かに凌駕していく。
『System Stability dropping... 60%... 40%... 10%...!』
「ぐ、がアアアッ!!」
突然、フロアに絶叫が響いた。
蓮ではない。彼と同期していた部下たちだ。
システムを駆け巡る膨大なエラー情報と、逆流した電流のショックが、接続された彼らの脳にフィードバックされたのだ。
バチィッ!
一人の女性社員のヘッドセットから火花が散った。彼女は白目を剥いて痙攣し、椅子から転げ落ちた。鼻と耳から血を吹き出し、床でのたうち回る。
一人ではない。二人、五人、十人……。
フロア中の部下たちが、次々と倒れていく。
彼らは、蓮という巨大なCPUを守るための「ヒューズ」として、脳を焼かれて身代わりになったのだ。効率化のために安全装置すらカットしていた代償が、最悪の形で支払われた。
肉が焼ける嫌な臭いが、空調の効いた部屋に充満する。
「……あ」
蓮の手が止まった。
静かになったフロアに、倒れた部下たちの痙攣する音と、モニターの警告音だけが響いている。窓の外では、黒煙が空を覆い隠し始めていた。
0.05秒。
それは「誤差」ではなかった。極限まで張り詰めた糸を断ち切る、カミソリの一撃だった。
海が言っていた言葉が、呪いのように脳裏に蘇る。
『完璧な論理は、脆いんだ』
モニターの中で、D-4交差点の惨劇が、都市全域へと、ウイルスのように感染していく。都市が、死んでいく。俺の手によって。
蓮の首元から、肉が焦げる臭いが立ち上った。『OS』が限界を超えて発熱し、蓮の皮膚を焼き始めている。
だが、蓮はもう、熱さすら感じていなかった。
王の玉座は、今や処刑台へと変わっていた。
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