第14話:予兆のサイレン
ハイブ・タワーを追い出された後も、四ツ谷 海は、家路につくことができなかった。
時刻は深夜二時を回っている。
高効率居住区の路上。頭上には、ARフィルターで補正された、満天の星空が広がっている。本来の東京の空なら、光害で星など見えるはずがない。だが、汎用AIは「市民の情操教育と安眠導入」のために、毎晩完璧なプラネタリウムを夜空に投影しているのだ。星々の配置すら、心理学的に最もリラックスできるパターンに調整されているらしい。
「……綺麗だな」
海は、吐き捨てるように呟いた。美しい。だが、偽物だ。この街の全てがそうだ。完璧で、美しくて、そして致命的に「軽い」。
海は、大通りのベンチに腰を下ろした。首元の『アウトシステム(OS)』は、今は沈黙している。だが、その質量だけが、鉛のように海の首を締め付けていた。汗で濡れたシャツが冷え、背筋に悪寒が走る。
(……あいつは、正気じゃなかった)
瞼の裏に焼き付いているのは、先ほど見た蓮の姿だ。白磁のように硬化した皮膚。充血した眼球。そして、自分に向けられた侮蔑の笑み。
かつて「80点の停滞」を嘆き、共に「重力」を求めた親友は、もういない。そこにいたのは、膨大な演算処理に溺れ、自らを神だと錯覚した、哀れな「生体部品」だけだった。
『完璧な論理なんて、この世界には存在しない』
海が去り際に投げかけた言葉。それは負け惜しみではない。海がこの身一つで、泥臭いセールスを通して骨身に沁み込ませた「真理」だ。
人間は間違える。機械もバグる。天気は変わる。だからこそ、システムには「遊び(バッファ)」が必要なのだ。ハンドルの遊びがなければ車が直進できないように、社会にも「無駄」や「ノイズ」という名のクッションがなければ、衝撃を吸収できずに砕け散る。
だが、蓮の構築した『ニューロン・グリッド』には、それがない。極限まで贅肉を削ぎ落とし、理論値ギリギリの最高速で駆け抜ける設計。それは美しいF1マシンのようだが、路上の小石一つで大破する脆さを孕んでいる。
「……嫌な予感がする」
海は、胸騒ぎを抑えきれず、『OS』の起動スイッチに手を掛けた。もう一度、見ておかなければならない。この街の「素顔」を。
『――Reality Layer: Override.』
ウィーン、とファンが唸り、視界が明滅する。美しい星空がノイズと共に消え失せ、ドブ色の夜空と、無機質なビル群の輪郭が浮かび上がる。
そして、街を流れる「情報の血流」が可視化される。地下ケーブルを走る電力パルス。空を行き交う物流ドローンの制御信号。信号機の同期タイミング。それらは今、蓮の手によって書き換えられ、明日の正午に稼働する新システムへの移行準備に入っていた。
「……速い」
海は息を呑んだ。データの流れる速度が、以前とは桁違いだ。
淀みがない。信号待ちのロスも、通信の遅延も、驚くほど圧縮されている。蓮が豪語した通りだ。これは「150点」の芸術作品だ。あまりにも滑らかで、あまりにも完璧すぎる。
だが。海がその完璧な光の流れに見惚れていた、その時だった。
ヒュンッ。
頭上を通過した物流ドローンの一機が、不自然な挙動を見せた。
直進していた軌道が、何もない空中で唐突にブレたのだ。まるで、見えない壁に弾かれたように。
ガシャン!!
硬質な破砕音が、静寂を引き裂いた。
ドローンが姿勢制御に失敗し、抱えていた積荷――高級なガラス細工のケース――を落下させたのだ。アスファルトの上で、ガラスが粉々に砕け散り、破片がキラキラと飛び散る。
「……あ?」
海は目を凝らした。
ドローンは瞬時に姿勢を立て直し、何事もなかったかのように飛行を再開した。そして、即座に路地裏から「清掃ロボット」が飛び出し、砕けたガラスをものの数秒で回収し、洗浄液でアスファルトを磨き上げた。
十秒後には、そこには何もなかった。事故の痕跡すら、完璧に隠蔽された。
「……おい、待てよ」
海は背筋が凍るのを感じた。
ハルシオンのログには「突風による落下」として処理されただろう。だが、今の海には見えていた。風など吹いていない。
あれは、「急制動」だ。
先行するドローンとの距離が計算よりわずかに詰まり、衝突回避プログラムが過剰に反応したのだ。機体は急停止したが、積荷の慣性は消せず、アームからすっぽ抜けた。
「……バッファがない」
海は、戦慄と共に理解した。
蓮のシステムには、この微細なズレを吸収するための「遊び」が設定されていない。たった0.05秒の遅延。その「ノイズ」は修正されず、そのまま次の工程へと受け渡され、雪だるま式に膨れ上がっていく。
海は、視界の解像度を上げた。交差点の信号機。地下鉄の運行ダイヤ。変電所の負荷バランス。
一見、完璧に同期しているように見えるそれらの奥底で、黒いシミのような「ノイズ」が発生し、血管を詰まらせる血栓のように広がり始めている。
キィィィィィン……。
海は耳を押さえた。遠くで、サイレンの音が聞こえる。
いや、現実の音ではない。海の『OS』が、都市のデータ異常を音声信号に変換して警告しているのだ。「データ・ソニフィケーション」。街が、悲鳴を上げている。
「……止めなきゃいけない」
海は弾かれたように立ち上がった。このままでは、明日の正午、交通量がピークに達した瞬間、この街は「心停止」する。
だが、どうやって?
蓮は海を拒絶した。通信はブロックされ、ハイブ・タワーへの立ち入り権限もない。今の海は、ただの「売れないセールスマン」だ。世界を救う権限など、どこにもない。
「……くそッ!」
海は、アスファルトを蹴りつけた。無力感。知ってしまった者の責任。見えるのに、手が届かない。
その時、街頭ビジョンにニュース速報が流れた。ARで彩られた華やかなキャスターが、満面の笑みで告げている。
『市民の皆様、おはようございます! ついに明日、アーク・ソリューションズによる大規模アップデート『ニューロン・グリッド』が稼働します! これにより、都市の効率は飛躍的に向上し、皆様はもう二度と、待つことも、迷うこともありません!』
画面の中では、蓮の――修正され、美化されたアバターの――写真が、「若き天才」として紹介されていた。
街行く人々(深夜徘徊を楽しむ適合者たち)は、それを見て「すごいね」「もう考えなくていいんだね」と、よだれを垂らさんばかりに弛緩した笑顔で頷いている。
誰も気づいていない。その「新しい幸福」の足元で、導火線に火がついていることに。
「……だったら」
海は、天を仰いだ。フェイク・スターの星空が、今日はやけに毒々しく輝いて見えた。止めることができないなら、せめて。
「記録だ」
海は『OS』の操作パネルを開き、全ログ保存モードを起動した。バッテリー消費を度外視した、フル稼働設定。
「俺が見てやる。お前らが目を逸らしている現実を。この街の最期を」
海は、誰にも届かない声で呟いた。
キィィィィン……。耳元の電子サイレンは、もはや断末魔のように高まり続けている。
「……聞こえるか、蓮。お前の作った歌だ」
街は、静寂に包まれている。だが海にだけは、その静寂が、巨大な崩壊へと向かうカウントダウンの音に聞こえてならなかった。
夜明けまで、あと数時間。
海は、重たい鉄塊を抱きしめ、震える街の鼓動を記録し続ける「ブラックボックス」となって、その時を待った。
ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。
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