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第13話:警告と決裂

 プロジェクト『ニューロン・グリッド』稼働前日。


 ハイブ・タワーの最上階は、嵐の前の静けさというにはあまりに張り詰めた、病的な熱気に包まれていた。


 四ツよつや かいは、セキュリティゲートを無理やり通過し、プロジェクトルームへと足を踏み入れた。「相葉チーフに緊急の用件がある」と警備員を怒鳴りつけ、半ば強行突破に近い形での侵入だった。


 だが、フロアに入った瞬間、海は息を呑んで立ち止まった。


 そこは、異界だった。


 フロアには数十人の部下たちがいた。彼らは全員、幽鬼のように青ざめた顔でモニターに向かい、キーボードを叩いている。だが、その光景には決定的な違和感があった。


 タターンッ。


 奥にある「玉座」で、れんがキーを叩く音が響く。それと同時に、フロア中の数十人が、一糸乱れぬタイミングでエンターキーを叩いた。


 カカカカカッ……ッターン!


 まるで軍隊の行進か、あるいは一つの巨大な生き物の鼓動のように、打鍵音が完全に同期している。


 海は寒気を感じた。音だけではない。彼らの「瞬き」や「呼吸」のタイミングさえも、完全に一致していたのだ。


 彼らの瞳には「個」としての意思がない。蓮という巨大なCPUに接続された、並列処理のための「生きた端末」になり果てている。


 その中心にあるガラス張りの個室――通称「玉座」に、蓮はいた。


「……蓮」


 海がドアを開けると、肌を刺すような「熱波」が吹き出した。腐敗臭ではない。高電圧の変電所で嗅ぐような、焦げたオゾン臭と、乾いた電子的な匂い。清潔なハイブ・タワーの中で、ここだけが原子炉の炉心のように歪んでいる。


 蓮は、デスクに噛り付くように座っていた。最後に会った時よりもさらに痩せ細っているが、その形相は「病人」のそれではない。


 うなじの『アウトシステム(OS)』周辺の皮膚は、度重なる冷却スプレーと過剰な発熱のせいで、人間離れした質感に変質していた。赤黒く爛れるのを通り越し、高熱で焼成された白磁のように、硬く、白く、美しくひび割れている。


「……なんだ、海か」


 蓮は、モニターから視線を外さずに言った。その声は、金属同士を擦り合わせたように硬質で、感情の色が削げ落ちていた。


「何の用だ。今は忙しい。明日の正午にシステムが稼働する。その最終調整で、1ミリ秒の無駄も許されないんだ」


 海は蓮のデスクに歩み寄ろうとした。だが、近づけない。蓮の周囲の空気が、陽炎のように揺らめいている。物理的な熱の壁が、海を拒絶している。それは、生物としての格の違いを見せつけられるような、圧倒的なプレッシャーだった。


「やめろ、蓮。……お前、自分がどうなっているか分かっているのか?」


「ああ。最高だ」


 蓮は、ゆっくりと海の方を向いた。


 その瞳を見て、海は戦慄した。瞳孔が開ききり、まばたきを忘れた眼球には、無数の毛細血管が幾何学模様のように走っている。そこには、かつての親友の面影はおろか、人間としての生理的な揺らぎさえもなかった。


 あるのは、ただひたすらに回転し続けるタービンのような、青白い狂気だけ。


「逆だ、海。俺は今、かつてないほど完成されている」


 蓮が右手を軽く振る。それに呼応して、ガラスの向こうにいる数十人の部下たちが、一斉に次のタスクを開始する音がした。ザッ、という衣擦れの音さえもが同期している。


「見ろ、この統率を。このコードを。美しいだろう? 汎用AIには逆立ちしても書けない、150点の芸術だ。俺は都市の心臓を書き換えたんだ。俺の思考が、明日からこの街の『ことわり』になる」


「それは思考じゃない!」


 海は熱波に耐えて、一歩踏み出した。


「それはただの『計算』だ! お前は今、自分の意志で考えてるんじゃない。OSの演算能力に溺れて、情報の濁流に流されているだけだ!」


「……溺れてる、だと?」


 蓮は鼻で笑った。


「違うな。お前には、そう見えるだけだ。なぜなら、お前が『遅い』からだ」


 蓮は椅子に深くもたれかかり、海を見下ろした。それは、成層圏を飛ぶ鷲が、地を這う亀を見る目だった。同じ言語を話しているはずなのに、概念のレイヤーが決定的に食い違っている。


「海。お前は俺に『重力』をくれた。それには感謝してる。だが、お前自身はその重力に押し潰されて、地べたを這いずり回っているだけじゃないか」


「……なんだと」


「図星だろう? お前は『苦悩』することが人間性だと信じている。だが、俺は違う。俺はその苦悩を燃料にして、空を飛んだんだ。……お前は、俺が羨ましいんだろ?」


 蓮の口から出た言葉は、鋭利なナイフのように海の胸を抉った。


「嫉妬だよ、それは。低スペックなセールスマンが、選ばれし人間に抱く、浅ましい嫉妬だ」


「……嫉妬? 俺が、お前に……?」


「ああ。お前は怖がってるんだ。俺が、お前の理解できない領域に行ってしまうことが。自分だけが取り残されることが」


 蓮は、ひび割れた白い肌を引き攣らせて笑った。


「安心しろよ。お前の分まで、俺が世界を回してやる。お前はそこで、口を開けて俺の作った世界を見ていればいい」


 海は、拳を握りしめた。殴りたかった。目を覚まさせてやりたかった。だが、海の本能がそれを止めた。


 今、この男に触れれば、火傷をする。物理的な意味ではなく、魂が焼き尽くされる。蓮はもう、人間とは別の生き物――『システム』そのものに変貌してしまったのだ。


 海は、蓮の肩を掴もうと手を伸ばした。その瞬間。


 パァン!


 蓮の腕が、視認できないほどの速度で動き、海の手を「払った」。


 乾いた音が響く。敵意のある突き飛ばしではない。作業中のデスクに飛んできた羽虫を、無意識に払うような動作。そこには、親友に対する情動など欠片もなかった。


「……邪魔だ」


 蓮は、海の方を見ようともしなかった。その瞳の焦点は、網膜の裏で走る膨大なデータストリームに固定されている。


「……分かったよ」


 海は、力を抜いて手を下ろした。これ以上、何を言っても無駄だ。今の蓮にとって、海の言葉は処理すべき価値のない「ノイズ」でしかない。


「好きにしろ。……だが、一つだけ言っておく」


 海は、爛々と輝く蓮の瞳を、悲しみと共に見つめた。


「お前のシステムは、完璧すぎる」


「あ?」


「完璧な論理は、脆いんだ。遊び(バッファ)がない。……たった一つのノイズ、たった0.1秒のズレが生じただけで、お前の城は崩れ落ちるぞ」


 それは、蓮が犯した「0.05秒のミス」を予見するかのような警告だった。


 だが、蓮はそれを嘲笑で一蹴した。


「ズレないさ。俺が、王だからな」


 蓮は興味を失ったように、再びモニターに向き直った。


 タタタタタタ……。


 高速の打鍵音が響き、それに呼応してフロア中の部下たちが一斉にキーを叩く轟音が重なる。拒絶の壁。


「出て行け。俺は忙しいんだ」


 海は、背を向けた親友の背中を、もう一度だけ見た。白く硬化し、人間性を排した、孤独な神の背中。あれが、俺が憧れた「自由」の成れの果てなのか。


「……さよならだ、蓮」


 海は呟き、部屋を出た。背後でドアが閉まる音が、断頭台の刃が落ちる音のように響いた。


 廊下に出た海は、壁に手をついて荒い息を吐いた。悔しさと、悲しさと、そして言いようのない胸騒ぎ。


 ふと、海は振り返った。ガラス越しに見える蓮の背中。彼が熱狂的に操作しているホログラムの隅で、小さな赤い警告灯が明滅している。


『Error Rate: 0.001%』


 極小の数値。だが、それは確実に生まれていた。80点のAIなら余裕を持って回避するはずの「遊び」を削り取った結果生じた、破滅への種子。


 完璧な結晶構造の中に混じった、微細な黒いシミ。


 だが、覚醒状態にある蓮の目には、その小さなエラーは見えていないようだった。あるいは、見えていても「些細なノイズ」として切り捨てているのか。


 その時、部屋の照明が一斉に切り替わった。青白い作業灯から、毒々しいほどの「クリムゾン」へ。最終稼働フェーズへの移行シグナルだ。


 海は、ハイブ・タワーの窓から、灰色の空を見上げた。明日、正午。何かが起きる。取り返しのつかない何かが。


 海は、祈るように胸元の『OS』を握りしめた。その熱だけが、冷え切った彼の手を、かろうじて温めていた。


ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。

もっと重厚な異世界ファンタジー戦略戦を楽しみたい方は、2025/12/18に完結するこちらの長編もぜひ!→ 『異世界の司令塔』

https://ncode.syosetu.com/n6833ll/


死に戻る勇者×記憶保持の聖女。セーブポイントとなった聖女の悲恋が読みたい方はこちらもぜひ!→『セーブポイントの聖女は、勇者の「死に癖」を許さない』

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