第10話:孤独な王様
午前三時。
都市の鼓動が最も緩やかになる、「丑三つ時」と呼ばれる時間帯。だが、相葉 蓮の視界には、かつてないほどの情報の奔流が渦巻いていた。
ハイブ・タワー最上階、プロジェクトルーム。照明は落とされているが、そこは暗闇ではなかった。無数のホログラム・モニターが放つ冷たい青白い光が、亡霊のように部屋を照らしている。
「……寒いな」
蓮は白い息を吐いた。オフィスの空調設定は、最低温度の16度に固定されている。冷蔵庫のような寒さだ。だが、蓮のワイシャツは汗で肌に張り付いていた。脳髄が発する異常な高熱を冷ますには、これでもまだ足りない。
蓮は、ガラス張りの壁際に立った。眼下に広がるのは、眠りについたメガロポリスの夜景だ。
しかし、今の蓮の目には、それは宝石箱のような夜景としては映っていない。
「……見える」
蓮は、ガラスに手を触れた。そこにあるのは、光の粒ではなく、膨大な「データストリーム」だった。
道路を走る自動配送車の位置情報、地下ケーブルを流れる電力のパルス、ビル群の空調制御データ。そして、眠っている数百万人の市民のバイタルサイン。
『アウトシステム(OS)』によって拡張された蓮の脳は、それら全てを「視覚情報」として処理していた。街は、巨大な回路図だった。そして蓮は、その回路を流れる電流のすべてを、指先一つで制御できる「中枢(CPU)」だった。
「遊んでやるか」
蓮は、眼下を走る首都高速道路の街灯に向けて、指揮棒を振るように指を動かした。
トン、トン、ツー。
蓮の指先の動きに連動して、数キロメートル先の街灯群が一斉に点滅する。モールス信号だ。意味などない。ただの気まぐれな悪戯。だが、その気まぐれ一つで、都市のインフラがいとも簡単に書き換わる。
「あいつらは全員、幸せな夢を見て寝ているロボットだ」
蓮は、薄ら笑いを浮かべながら独りごちた。
眼下のマンション群。その一室一室で、適合者たちが泥のように眠っている。彼らは明日、何を着て、何を食べて、どこへ行くかを、ハルシオンに委ねて安らかに眠る。悩みも、迷いも、責任もない、無重力の睡眠。
「……この世界で、俺だけが起きている」
蓮は、胸の奥がすくような優越感に震えた。
思考速度は常人の数十倍。一秒が永遠のように長く、一瞬で数億回のシミュレーションが完了する。真島も、上司たちも、かつての自分さえも、今の蓮から見れば、止まっているも同然の「低スペックな旧型機」に過ぎない。
その時、ふと、視界の端に「ノイズ」が走った。個人の通信端末だ。通知ランプが、遠慮がちに点滅している。
蓮は舌打ちをして、端末を手に取った。送信者は『ユミ』。……ああ、そういえば付き合っていた女か。もう一週間以上、連絡を返していない。
『着信時刻:22:05』
数時間前のメッセージだ。集中しすぎて、通知に気づいていなかったらしい。
『蓮くん、大丈夫? ずっと既読がつかないから心配で。……AIがね、今度の週末は二人の相性バイオリズムが最高だって言ってるの。元気出してね』
メッセージと共に、自撮り写真が添付されていた。心配そうな顔で、上目遣いにこちらを見つめるユミ。
だが、その写真を見た瞬間、蓮は反射的に端末を投げ捨てそうになった。
「……なんだ、この化け物は」
画面の中の女は、異形だった。
ハルシオンの美肌補正とデカ目フィルターが過剰に掛かったその顔は、肌の質感がビニールのようにのっぺりとし、眼球が顔の半分を占めるほど巨大化している。
さらに、蓮の過敏な視覚野は、画像の圧縮ノイズすらも拾ってしまっていた。彼女の笑顔の輪郭がピクセル単位で崩れ、その下にある無機質なワイヤーフレームが見え隠れしている。
まるで、人間を模しただけの不気味なポリゴン人形。
以前なら「可愛い」と思えたはずの加工が、覚醒した蓮の解像度極大の視界では、生理的嫌悪感を催すグロテスクなバグデータとして認識された。
「……気持ち悪い」
蓮は、吐き気を堪えながら削除ボタンを押した。
彼女の文章からは、自分の頭で考えた形跡が何一つ感じられない。ハルシオンが生成した「恋人を気遣う定型文」を、そのままコピペして送ってきただけだ。
彼女だけではない。部下からの報告も、親からの連絡も、ニュースフィードも。この世界に溢れる情報のすべてが、蓮にとっては処理速度を低下させるだけの「無駄なデータ」になり果てていた。
彼らの言葉は遅すぎる。彼らの感情は浅すぎる。彼らの思考は、あまりにも単純すぎる。
誰とも話が噛み合わない。誰とも「接続」できない。それはまるで、人間が猿の群れの中で暮らしているような、絶望的な断絶だった。
「……ふ、ふふ」
蓮は、乾いた笑いを漏らした。
これが、王の孤独か。
高い。あまりにも高すぎる場所に、俺は来てしまった。ここには誰もいない。酸素さえ薄い。あるのは、焼き切れる寸前の脳髄が発する熱と、眼下に広がるデータの海だけ。
その時。ふいに、思考の奔流が途切れた。OSの処理落ち(ラグ)。ほんの一瞬の空白。
瞬間。蓮を襲ったのは、死ごときでは生温いほどの、絶対的な「恐怖」だった。
「ッ……!?」
心臓が止まったかと錯覚した。床が抜け、重力圏外の暗黒宇宙へ放り出されたような、強烈な浮遊感と窒息感。
静寂。
判断のない、思考のない、意味のない、完全な静寂。それが、黒い津波のように押し寄せてきた。
(やめろ……!)
蓮は、ガタガタと震える手で、デスクの上のキーボードを叩いた。なんでもいい。計算だ。思考だ。タスクをくれ。脳を回転させ続けろ。止まるな。止まることは、死ぬことだ。
「う、あああぁぁ……ッ!」
蓮は、悲鳴を上げながらコードを打ち込んだ。新たなプロジェクト。より複雑な計算。より高負荷なシミュレーション。
自らに過酷なタスクを課し、脳を焼き続けることでしか、彼は「自分」を保てなくなっていた。
不眠の恐怖。目を閉じれば、そこには極彩色のAR花畑が待っている。あそこに戻れば楽になれる。誰もがそう囁く。
だが、一度「覚醒」を知ってしまった蓮は、もう二度と「幸せな家畜」には戻れない。戻りたくない。
ガツン、と頭をデスクに打ち付ける。痛みで意識を覚醒させる。視界の隅で、海からの着信履歴が点滅していた。
『蓮、頼むから一度会ってくれ。お前は今、危険な状態に――』
海。かつての親友。あいつなら、この孤独を理解できるだろうか?
いや、無理だ。あいつも所詮は「地上」の人間だ。重力に縛られ、地べたを這いずり回っているだけのセールスマンだ。この「天空」の孤独は、王である俺にしか分からない。
「……邪魔だ」
蓮は、無表情で操作した。
『着信拒否設定:四ツ谷 海』
『アカウント:ブロック』
確認のポップアップも出ずに、海の名前がリストから消えた。これでいい。俺の視界に、ノイズはいらない。
「……俺は、間違っていない」
蓮は、自分に言い聞かせるように呟いた。瞳孔が開いた目で、モニターの光を睨みつける。
「俺は、進化しなきゃならないんだ。……この世界で唯一、思考できる俺だけが」
蓮は、再び冷却スプレーを手に取った。
足元には、空になったスプレー缶が何本も転がっている。
本来なら、夜間巡回の清掃ロボットが片付けているはずだ。だが、今のこの部屋は、蓮の権限で全ての外部アクセスが遮断されている。
ロボットさえも入れない、完全なる密室。ゴミに埋もれ、悪臭が漂い始めたこの空間こそが、王の玉座だった。
首元に噴射する。シューッという音と共に、皮膚が凍りつき、感覚が麻痺していく。その冷たさが、唯一の救いだった。
夜明けはまだ遠い。いや、蓮にとっての夜明けは、もう二度と来ないのかもしれない。極寒の部屋で、彼は白い息を吐きながら、終わりのない夜を走り続けた。
ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。
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