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禁書館の魔導師は、万年2位の恋を綴る  作者: 秋津冴
第二話 禁書館ライフ

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嵐の前の静けさ


「ちょっと待ってください! そのフラスコを振ったら爆発します! 今すぐ手を止めて――ああもう、間に合わない!」

 禁書館の実験室で、私は走りながら叫んでいたが、アーガムの手はすでにフラスコを激しく振り始めていた。

 中に入っている不安定な魔力結晶溶液が、彼の豪快な動きに合わせて渦を巻いている。

 実験手順書には確かに「よく混ぜること」と書いてあるのだが、それは普通の薬品の話であって、この溶液に関しては静かにゆっくりと回転させる必要があるのだ。

 でも、それを説明する前に――

 ポンッ。

 軽快な音とともにフラスコの蓋が吹き飛び、次の瞬間、ピンク色の泡が噴水のように噴き出した。

 甘ったるい桃の香りが実験室に充満し、私とアーガムは頭からつま先までその泡まみれになった。

 髪にも顔にも制服にも、べっとりとピンクの泡が張り付いて、まるで桃色の綿菓子に包まれたような状態だった。

「うわっ、なんだこれ! 甘い! というか、なんでこんなに泡が出るんだ!」

アーガムが慌てて目の周りの泡を拭いながら言った。彼の赤毛が泡でピンク色に染まっていて、普段の凛々しい印象とは程遠い、どこか間の抜けた姿になっている。

「『恋の泡』です……実験用の魔法薬で、本来は恋愛感情の強さを測定するために使うものなんですが……」

私も自分の髪についた泡を払いながら説明した。この薬は触れた人の恋心に反応して色を変える性質があり、薄いピンクから真紅まで、感情の強さに応じて七段階に変化する。そして今、私の手のひらにこびりついた泡は――燃えるような真紅に輝いていた。

ああ、これは本当にまずい。

「恋の泡? へえ、面白いな。色が変わるのか?」とアーガムは自分の手を見下ろし、そして固まった。「……あれ? 俺のも赤い」

彼の手のひらの泡も、私のものと同じくらい真っ赤に光っていた。実験室の魔法灯の明かりを受けて、その赤はまるで宝石のように輝いている。私たちは同時に顔を上げて視線が合い、お互いピンク色の泡まみれで、しかも手のひらが真紅に光っているという状況の異常さに気づいて、同時に顔を背けた。

「あー……えっと……これって……」とアーガムが口ごもった。彼の耳まで真っ赤になっているのが、横目でも分かる。「恋心が強いほど赤くなるんだよな?」

「そうですけど、でもこれは誤作動です!」私は必死に言い訳を考えながら答えた。「魔力結晶が不安定だったから、正しく反応していないんです! だからこの結果は完全に無効で、何の意味もありません!」

「そ、そうなのか……」

アーガムの声には明らかに失望が混じっていたが、私はそれを聞かなかったことにして、慌てて洗浄魔法を唱え始めた。でも焦りで手が震えて、簡単なはずの魔法がうまく発動しない。心臓がドキドキして、呼吸が浅くなっていた。

それから三十分かけて、ようやく全ての泡を洗い流した。アーガムは「面白かったな」とニヤニヤしながら何度も言ったが、私は「全然面白くありません」と頑なに否定し続けた。でも内心では、あの赤く光る泡が示していた事実――お互いが相手を想っているという事実――が頭から離れず、彼と目を合わせることができなかった。


その日の夜、寮の部屋に戻ると、ランスが窓辺で私を待っていた。月明かりを浴びた彼の黒い毛並みが銀色に光っていて、いつもより神秘的に見える。

「お帰り。今日も派手にやったらしいな。恋の泡まみれになったって?」

「見てたの?」と私は溜息をついた。「からかわないで」

「からかってないさ。でも、お前と王子が二人とも真っ赤だったって聞いたぞ。可愛かったんだろうな」

ランスは尻尾を楽しそうに揺らしていたが、次の瞬間、その表情が真剣なものに変わった。彼が私をじっと見つめ、部屋の空気が一気に張り詰めた感じがした。

「それより、師匠から連絡があった。緊急召喚だ」

その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。師匠からの緊急召喚は、これまでの任務で一度もなかった。定期報告はあっても、緊急で呼び出されるというのは、それだけ重大な事態が起きているということだ。

「今すぐ魔法通信を繋げ。詳しいことは直接話すって」

ランスの声には緊張が滲んでいた。私は頷いて、すぐに部屋の中央に魔法陣を展開し始めた。銀粉で床に複雑な文様を描いていく指先が、わずかに震えているのが自分でも分かった。

「《繋がれ、遠き声よ――ロング・ディスタンス・コール》」

魔法陣が青白く光り始め、その中心から師匠の姿が立体映像として浮かび上がった。いつもは穏やかな表情の師匠だが、今日はその顔に深い皺が刻まれていて、何か重大な決断を下した後のような厳しい表情をしていた。

「ネイサ」と師匠は開口一番、私の名前を呼んだ。「我々の情報網が重要な情報を掴んだ。オルビスが動く。次の新月――三日後だ」

三日後。私は唇を噛んだ。思ったより早い。覚悟する時間すら、ほとんど残されていない。

「詳細は分からないが、おそらく禁呪の書の奪取とアーガム殿下の襲撃を同時に仕掛けてくるだろう。規模も大きい。今までの小規模な襲撃とは比べ物にならない」

師匠の言葉を聞きながら、私は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込んで痛かったが、その痛みで冷静さを保とうとした。

「それだけではない」と師匠は続けた。「オルビスは、お前のことを調べ始めている。出自、家族、過去の記録――全てを洗い出そうとしている。我々の偽装工作は完璧だが、それでも絶対とは言えない。お前の正体が露見する可能性がある」

その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが崩れ落ちるような感覚があった。正体が露見する。つまり、21歳であることが分かる。王宮からの密命で動いていることが分かる。そして――アーガムに対して、ずっと嘘をついていたことが明らかになる。

「覚悟はいいか、ネイサ?」

師匠が問うた。その声には、教え子を案じる優しさと、指揮官としての厳しさが同時に含まれていた。

覚悟――私は心の中でその言葉を反芻した。正体がバレたら、アーガムは私のことをどう思うだろう。裏切られたと感じるだろう。年齢を偽り、正体を隠し、ずっと嘘をついていた私を、許してくれるはずがない。彼の優しい笑顔も、楽しそうな笑い声も、もう二度と私に向けられることはないだろう。それでも――

「はい」と私は答えた。声が少し震えていたが、それでも私はしっかりと師匠を見つめた。「覚悟は、できています」

「そうか」と師匠は短く答え、わずかに表情を緩めた。「では、最終指令だ。三日後、オルビスの襲撃を阻止し、可能であれば彼が黒幕である決定的な証拠を掴め。そして何より――アーガム殿下を守れ。それがお前の任務だ」

師匠は一度言葉を切り、私の目を真っ直ぐ見つめた。

「たとえお前の心がどれほど痛もうとも、たとえお前が何を失おうとも、任務を全うしろ。それが、お前の選んだ道だ」

通信が切れ、魔法陣の光が消えた。部屋には再び静寂が戻ったが、その静寂は先ほどまでとは全く違う重さを持っていた。私はその場に座り込んだまま、膝を抱えて動けなくなった。

「ネイサ」とランスが優しく声をかけてきた。「無理するな。お前、泣きそうな顔してるぞ」

「泣いてないわ」と私は答えたが、声が掠れていた。「ただ……あと三日で全部終わるんだなって思って」

「終わるとは限らないだろ」

「終わるわよ」と私は首を横に振った。「正体がバレて、アーガム様は私を嫌いになって――この学園での生活も、彼との関係も、全部終わる」

「王子は、お前が思ってるほど単純じゃないぞ」とランスは私の膝に飛び乗ってきた。「お前の気持ちは本物だろう? なら、きっと伝わる」

私はランスを撫でながら、窓の外の星空を見上げた。無数の星が瞬いていて、その美しさが今は逆に胸を締め付けた。あと三日でこの景色を見ることもなくなるかもしれない。アーガムと並んで夕焼けを眺めることも、禁書館で一緒に仕事をすることも、全て――


翌日の学園は、いつもと変わらない穏やかな一日だった。秋晴れの空の下、生徒たちは笑い、話し、勉強し、魔法の練習をしていた。でも私の心には、常にカウントダウンが響いていた。あと二日。あと二日で全てが変わる。

魔法実習の授業でアーガムとペアになった時も、昼休みに一緒に食堂で食事をした時も、放課後に禁書館で並んで本を整理した時も、私は彼の顔を見るたびに胸が痛んだ。この笑顔を見るのも、あと何回だろう。この声を聞くのも、あと何回だろう。

「ネイサ、最近元気ないぞ。また何か悩んでるのか?」とアーガムが心配そうに聞いてきた時、私は「少し疲れてるだけです」と答えるしかできなかった。本当のことを言いたかった。三日後に全てが終わること。あなたを守るために、私は正体を隠していたこと。でも――それを言えば、今この瞬間さえも失ってしまう。

禁書館での作業を終えた後、アーガムが「バルコニーに出ようぜ」と誘ってきた。私たちは禁書館の小さなバルコニーに出て、夕焼けに染まる空を眺めた。オレンジ色の光が学園の建物を照らし、木々の葉が風に揺れて、秋の終わりを告げていた。

「綺麗だな」とアーガムが呟いた。「なあ、ネイサ。ずっとこうしていられたらいいのにな」

その言葉を聞いた瞬間、私の胸に熱いものが込み上げてきた。ずっと一緒にいたい。でもそれは叶わない夢だ。あと二日で、この関係は終わる。

「お前と一緒に禁書館で働いて、こうやって夕日を見て――ずっと、相棒でいられたら」

彼の声が優しすぎて、私は思わず目を閉じた。涙が出そうになるのを必死で堪えながら、私は小さく答えた。

「私も……そう思います」

「本当に?」とアーガムが嬉しそうに言った。「じゃあ、これからもよろしくな、相棒」

私は彼に背を向けたまま頷いた。顔を見られたら、泣いているのがバレてしまう。風のせいにして目元を拭いながら、私は心の中で何度も繰り返した――ごめんなさい、ごめんなさい、と。


最後の夜、私は誰もいない禁書館に一人で立っていた。ランスは外出していて、本当に一人だった。静かな空間に、古い本の匂いが満ちている。ここで過ごした数ヶ月を思い出しながら、私は書架の間をゆっくりと歩いた。

アーガムと初めて出会った場所。一緒に侵入者と戦った通路。魔導具泥棒を追いかけた時に隠れた書架の陰。地下迷宮への入り口。全てが、かけがえのない思い出として私の心に刻まれていた。

窓の外では、月が雲に隠れたり現れたりしていた。明日は新月だ。最も暗い夜。そして――嵐の夜。オルビスが動き、私の正体が明かされ、全てが終わる夜。

私は窓辺に立って、夜空を見上げた。星々が瞬いていて、その光が遠くて冷たかった。でも不思議と、今夜の星は優しく見えた。まるで、頑張れと励ましてくれているかのように。

覚悟は決めた。明日、オルビスが来る。私はアーガムを守る。全力で、命をかけて。たとえ正体がバレても、嫌われても、それでも――彼を守る。それが私の愛し方だから。この歪んだ、嘘だらけの恋の、唯一の真実だから。

禁書館を出る前に、私は最後にもう一度だけ振り返った。明日の夜、ここで何が起きるのだろう。どんな戦いが待っているのだろう。そして――この場所に、また戻って来られるのだろうか。

答えは分からなかった。でも一つだけ確かなことがある。明日の夜が来る前に、私はもう一度だけ、アーガムの笑顔を見たい。もう一度だけ、彼の声を聞きたい。そして――心の中で、さよならを言いたい。

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