二人の距離
「ちょっと待ってください! その植物に触ったら危険です! 今すぐ手を引いてください!」
学園の中庭で、私は慌ててアーガムを止めようとしていた。秋の午後、授業が終わって少し休憩しようと中庭に来たら、彼が珍しい植物を見つけて興味津々に触ろうとしていたのだ。その植物――『魔喰い草』は、魔力を持つ者が触れると激しい痒みを引き起こす厄介な植物だった。
「え? でも、綺麗な花じゃん。この紫色、すげえ綺麗だし」
アーガムは無邪気にそう言いながら、手を伸ばし続けた。確かに、魔喰い草の花は美しい。深い紫色の花びらが、夕日を受けてキラキラと輝いている。でも――
「綺麗だけど触ったら大変なことになります!」
私は彼の手首を掴んで引き戻した。彼の温かい肌が、私の手のひらに触れる。その瞬間――心臓が跳ねた。
――しまった。また触ってしまった。
「お、おう……そんなに危ないのか?」
アーガムは私の必死な様子に驚いたようだった。私は慌てて彼の手を離した。顔が熱くなる。
「はい……魔力を持つ者が触ると、全身に激しい痒みが出るんです。治るまで三日はかかります」
「マジか……危なかった」
アーガムはほっとしたように笑った。その笑顔を見て――私の胸は、また温かくなった。
「でも、お前よく知ってるな。そんな植物のことまで」
「これくらいは基礎知識です」
私は視線を逸らした。彼の顔を見ると、心臓がドキドキして落ち着かなくなる。
「へえ……やっぱりお前、すげえわ」
アーガムは感心したように言った。その声が――優しくて、私は胸が締め付けられた。
私たちは中庭のベンチに座った。秋の風が吹いて、木々の葉が揺れている。赤や黄色、橙色の葉が、地面に散らばっていた。夕日が傾き始めて、空はオレンジ色に染まっている。
静かな時間。周囲には、誰もいなかった。放課後の中庭は、いつもは賑やかなのに――今日はなぜか、私たちだけだった。
「いい天気だな」
アーガムが空を見上げて言った。私も空を見た。雲一つない、澄んだ秋空。高く、遠く、美しい。
「そうですね……」
私は小さく答えた。心臓が、静かに跳ねている。彼の隣にいる。それだけで、緊張してしまう。
沈黙が降りた。でも――不思議と、居心地は悪くなかった。風の音、葉が擦れる音、遠くから聞こえる生徒たちの笑い声――それらが、心地よいBGMのように響いていた。
「なあ、ネイサ」
突然、アーガムが話しかけてきた。
「はい……?」
私は彼の方を見た。彼も、私を見ていた。翡翠色の瞳が、真剣な表情で私を見つめている。その視線に、息が詰まりそうになった。
「俺……何かしたか?」
その質問に、私は戸惑った。
「え……?」
「最近、お前……俺のこと避けてるだろ。何か、俺が悪いことしたのかって、ずっと気になってて」
アーガムの声には、不安が滲んでいた。その表情を見て――私の胸は痛んだ。
「してないです……何も……」
「じゃあ、なんで避けるんだ?」
「避けてるわけじゃ……」
「避けてるだろ」
アーガムは少し強く言った。でも、怒っているわけではなかった。ただ――困惑している。傷ついている。
「目も合わせてくれないし、会話も減ったし……前は、もっと普通に話してたのに」
彼の言葉が、心に刺さった。確かに、私は彼を避けていた。好きになってしまったから。うまく接することができなくなったから。
「それは……」
私は言葉を探した。本当のことを言うべきか。でも――恥ずかしくて、言えない。
「それは……私の問題です」
「お前の問題?」
「はい……アーガム様は、何も悪くありません」
私は視線を落とした。地面に散らばった落ち葉を見つめる。
「じゃあ、何が問題なんだ?」
「それは……言えません」
「またそれか……」
アーガムは溜息をついた。その音が、とても悲しく聞こえた。
沈黙が、再び降りた。今度は――重い沈黙。言葉にできない想いが、二人の間に漂っている。
「俺さ……」
アーガムがまた話し始めた。私は顔を上げた。
「お前といると、楽しいんだ」
その言葉に――私の心臓は激しく跳ねた。
「気を遣わなくていいし、自然体でいられるし……一緒にいると、落ち着く」
アーガムは空を見上げた。夕日が、彼の横顔を照らしている。赤毛が、オレンジ色に輝いていた。
「だから……前みたいに、普通に話してほしいんだ」
彼の声が、優しかった。その優しさが――胸を締め付けた。
「お前は、大切な相棒だから」
相棒――
その言葉が、少し寂しかった。でも――嬉しくもあった。
「私も……」
私は思わず答えていた。
「私も……アーガム様といると、楽しいです」
声に出してしまった。顔が熱くなる。でも――もう止められなかった。
「一緒にいると……安心します」
「本当か?」
アーガムが嬉しそうに私を見た。
「はい……」
私は頷いた。そして――彼の目を見た。
翡翠色の瞳が、私を見つめている。優しくて、温かくて、真っ直ぐな眼差し。その目に――吸い込まれそうになった。
アーガムも、私を見つめていた。
二人の視線が、絡み合う。
時間が――止まったような感覚。周囲の音が、遠のいていく。風の音も、葉の擦れる音も、全てが消えて――ただ、彼の目だけが見えた。
心臓が、激しく跳ねている。
呼吸が、浅くなる。
顔が、熱い。
でも――視線を逸らせない。
彼の瞳が、何かを語りかけているような気がした。
――この瞬間が、永遠に続けばいいのに。
そう思った。
「ニャアアアア!」
突然、大きな鳴き声が響いた。
「うわっ!」
アーガムと私は驚いて飛び上がった。見ると――ランスが、私たちの間に飛び込んできていた。
「ら、ランス!?」
「ニャア」
ランスは満足そうに尻尾を揺らしていた。まるで、わざと邪魔したかのように。
「お、お前……何やってんだ……」
アーガムは困惑した様子だった。私も――混乱していた。心臓がまだ激しく跳ねている。さっきの雰囲気が――一瞬で壊れてしまった。
「ニャア」
ランスは私の膝の上に飛び乗った。そして――小さく呟いた。人間には聞こえない、魔法生物同士の言葉で。
『続きは後でな』
その言葉を聞いて――私は顔が真っ赤になった。
――この猫、絶対わざとだ!
「ネイサ、お前の猫……」
「すみません……いつも勝手なことばかりして……」
私は謝った。ランスを撫でながら、落ち着こうとする。でも、心臓はまだドキドキしていた。
「いや、可愛いからいいけど……」
アーガムはランスを見て笑った。その笑顔を見て――私の胸は、また温かくなった。
しばらくして、私たちは再び並んでベンチに座った。ランスは私の膝の上で丸くなっている。
「なあ、ネイサ」
「はい?」
「さっき言ってくれて……嬉しかった」
アーガムは少し照れくさそうに言った。
「俺といると楽しいって」
「あ……それは……」
私は恥ずかしくなった。さっき、つい本音を言ってしまった。
「俺も、お前といると楽しいから……これからも、よろしくな」
アーガムが手を差し出してきた。
「相棒として」
相棒――
その言葉が、少し寂しかった。でも――今は、これでいい。
「はい……よろしくお願いします」
私は彼の手を握った。大きくて、温かい手。その温もりが、手のひらから伝わってくる。
――この手を、ずっと握っていたい。
そう思った。
「じゃあ、そろそろ戻るか。禁書館の仕事もあるし」
「そうですね」
私たちは立ち上がった。ランスも、私の腕の中に収まる。
「ニャア」
『お前ら、いい雰囲気だったぞ』
ランスがまた小さく呟いた。私は――顔を赤くして、彼を軽く叩いた。
「痛い痛い。なんだよ」
『事実だろ』
「うるさい」
私たちは中庭を後にした。夕日が、私たちの影を長く伸ばしている。二つの影が――寄り添うように、地面に映っていた。
その夜、寮の部屋で。
「お前、わざとやっただろ」
私はランスを睨んだ。
「ニャア」
「とぼけないで。絶対、わざと邪魔したでしょう」
『まあな』
ランスはあっさりと認めた。
「なんで!」
『あそこで進展させるのは早すぎる』
「早すぎるって……」
『お前ら、まだ自分の気持ちをちゃんと整理できてないだろ』
ランスの指摘は正しかった。確かに――私は、自分の気持ちに気づいている。でも、アーガムは――
『王子も、お前のことが好きになりかけてる』
「え……?」
『気付いてなかったのか? 今日の王子の態度、明らかに違っただろ』
言われてみれば――確かに、彼の様子はいつもと違った気がする。私を見つめる目が、優しかった。声が、温かかった。
『でも、王子もまだ自覚してない。だから――』
「だから?」
『お互いがちゃんと自覚してから、進展させた方がいい』
ランスは尻尾を揺らした。
『焦るな。お前らには、時間がある』
「時間……」
私は呟いた。
時間――
本当に、あるのだろうか。
いつか、真実を告げなければならない。その時――この関係は、終わってしまうかもしれない。
「でも……」
『でも?』
「時間が、あるかどうか……分からない」
私は窓の外を見た。星が、輝いている。
「いつか、真実を告げなければならないから」
『その時が来たら、その時だ』
ランスは優しく言った。
『今は、今を大切にしろ』
「今を……」
『ああ。今日、少し距離が縮まっただろ』
確かに――今日、私たちは少し近づいた気がする。お互いの本音を、少しだけ話せた。
『それでいいんだ。少しずつ、距離を縮めていけば』
「そうね……」
私は頷いた。
焦らず、少しずつ。
それが――きっと、一番いい。
翌日、教室で。
アーガムが私に話しかけてきた。
「おはよう、ネイサ」
「おはようございます」
私は笑顔で答えた。以前よりも――自然な笑顔。
「昨日は、ありがとな」
「え?」
「話、聞いてくれて」
アーガムは少し照れくさそうに言った。
「俺、すっきりしたわ」
「そうですか……良かったです」
私も嬉しかった。彼が笑顔でいてくれることが。
「じゃあ、放課後また禁書館でな」
「はい」
アーガムは自分の席に向かった。私は――その背中を見送りながら、胸に手を当てた。
心臓が、温かく跳ねている。
昨日から――何かが変わった気がする。
私たちの距離が――少しだけ、近づいた。
それが――とても嬉しかった。
放課後、禁書館で。
私たちは並んで作業をしていた。いつもの光景。でも――何かが違う。
会話が、増えた。
笑顔が、増えた。
沈黙も――心地よい。
「なあ、ネイサ」
「はい?」
「この本、面白いぞ。読んでみるか?」
「どんな本ですか?」
「魔法の歴史の本。古代魔法のことが詳しく書いてある」
アーガムが本を見せてくれた。私は興味深く覗き込んだ。
「へえ……これは貴重な本ですね」
「だろ? お前、こういうの好きだろうから」
「はい……ありがとうございます」
私は笑った。彼が、私の好みを覚えていてくれたことが――嬉しかった。
「じゃあ、後で貸すわ」
「はい」
私たちは、また作業に戻った。
でも――心は、温かかった。
彼との距離が――
少しずつ、確かに、縮まっている。
それを――
実感できた。
この幸せな時間が――
ずっと続けばいいのに。
そう――
願わずにはいられなかった。




